Monday, January 22, 2018

目取真俊の世界(1)むきだしの国家暴力に抗して

辺見庸・目取真俊『沖縄と国家』(角川新書、2017年)
<沖縄という傷口から噴き出す、むきだしの国家暴力>
<基地問題の根底に横たわるこの国の欺瞞を、闘う二人の作家が仮借ない言葉で告発する!>
第1章 沖縄から照射されるヤマト
第2章 沖縄における基地問題
第3章 沖縄戦と天皇制
第4章 国家暴力への対抗
あの辺見庸が言葉少なに、目取真俊の射撃のような言葉を浴びせられている。辺野古や高江の現場で、米軍や警察・機動隊や海上保安庁相手に、体を張って基地機能をマヒさせ、基地建設を押しとどめるために闘い続けている目取真俊の烈しい怒りに、辺見庸は同調し共感しつつ、圧倒されている。
沖縄から米軍基地をなくすために、基地ゲート前の座り込みという非暴力、不服従、かつ実力行使の闘いを経験する中から、単なる集会や演説や観念的な論説を撃ち、ぎりぎりの闘いの本領を提示する。米軍基地を追い出すためには、沖縄が米軍にとって安楽な場所ではないことを思い知らせる、最低の方法しかない。懇願や批判や要請や哀願や勧告で成果を上げることなどできない。そのことを突きつける目取真の厳しさを、辺見は肯定し、受け止めるが、それでも「わたしはどうしたってわたしである。わたしでしかない。なにをどうやっても。」とつぶやく。「あなたの書くことの仮借のなさ、でしょうかね、それだとおもうんですよ。このホンドの、進歩的知識人といわれている人間たちには、その仮借のなさがまったくない。」と述べる辺見は、自分が「進歩的知識人」の側にいることを恥じらい、自ら怒り、目取真とともに闘う課題を再確認する。
目取真の矛先はストレートに私に向けられている。繰り返し読む必要がある。
「沖縄の反基地運動が大きくなって、本当に海兵隊が撤退する、沖縄の米軍基地の存続が危うくなるような状況になった時、ヤマトのメディアや市民の反応は大きく変わると思います。沖縄の反基地運動をつぶそうという動きが露骨になるし、最後は自衛隊が出動するだろうと思いますよ。沖縄居自衛隊を配備しているのは、中国から領土を守るだけではなくして、沖縄で反基地の暴動が起こった時、それを鎮圧するためにいると思います。」
本書は共同通信編集委員の石山永一郎の企画である。
10年近く、「非国民」という授業(演習)をやってきた。日本の大学に他に類例のない授業だろう。幸徳秋水・管野すが、金子文子・朴烈、石川啄木、鶴彬、槇村浩、小林多喜二、尹東柱などを取り上げてきた。また、井上ひさし、大江健三郎の主要作品を読み直してきた。『非国民がやってきた!』『国民を殺す国家』『パロディのパロディ――井上ひさし再入門』(いずれも耕作社)という3冊の本もつくった。そして昨年末、大江健三郎の主要作品の読み直しが一段落した。
今年はどうしようか、だれを読もうかと考えた。候補は多数いるが、大江健三郎の主要作品を読み直すのに4年かかった。作品の多い作家を取り上げると、他の作家を読む時間が取れなくなる。悩んだ結果、いまもっとも重要な作家だが、作品数が多くはなく、しかも、現在は現場の基地反対闘争に専念しているがゆえに作品を書く余裕のない状況に置かれている目取真俊を読み直すことにした。
読み直すと言っても、読んだのは『水滴』『魂込め』『沖縄「戦後」ゼロ年』程度だ。短編「希望」も読んだが。
今年は目取真俊をじっくり読もう。沖縄について、それ以上に日本について考えるために。9条改悪阻止、日米安保解消、平和への権利、市民的不服従、無防備地域運動への取り組みを発展させるために。