Monday, December 25, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(114)不寛容について考える

明戸隆浩「ヘイトスピーチと『不寛容』」『神奈川大学評論』87号(2017年)
ブライシュ著『ヘイトスピーチ』翻訳とともに、カウンター活動の調査や、ヘイト・スピーチをめぐる理論研究で知られる明戸の論文である。3つの問いを再検証している。
第1に、「ヘイトスピーチは『不寛容』なのか」。
第2に、「『不寛容』を批判することは『不寛容』なのか」。
第3に、「相手の意見を批判することは『不寛容』なのか」。
第1の「ヘイトスピーチは『不寛容』なのか」とは、NHK BS1の特集番組や、安倍首相の国会答弁において、ヘイト・スピーチを「不寛容」と特徴づけられている問題である。「寛容/不寛容」という観点での議論は、ヘイト・スピーチを「法律」の問題にせず、国が介入しなくても「自然」にどうにかなる現象として扱うことにつながりやすいと言う。なるほど、寛容や和や謙虚と言うレベルの思考では、ヘイトの被害認識も不十分となり、法的対策の必要性が見失われる。
第2の「『不寛容』を批判することは『不寛容』なのか」とは、「あの人は普段は寛容を主張するのに、自分と違う意見には不寛容だ」といった言説のことである。ここでは2つの異なる「不寛容」概念が衝突している。明戸によると、2つの「不寛容」概念は対等のものではなく、多くは時間的に後の概念の方が強い印象を残すと言う。そこに、ヘイト・スピーチ規制をめぐる「刑事規制か表現の自由か」という議論に端的に示されているという。
第3の「相手の意見を批判することは『不寛容』なのか」とは、通常の批判は「不寛容」と呼ばれることはないが、一定の条件下では「不寛容」になりうるという。一定の条件とは、制度的な力の不均衡の場合であり、権力関係にあることである。教授が学生に指導する際に、指導や批判が「押し付け」や「制裁」となる場合である。インターネット上における多数派と少数派の関係も同様だと言う。
ヘイト・スピーチと「寛容/不寛容」の関係を問い直している点でとても参考になる。
私にとって「不寛容」概念は2001年のダーバン宣言における「不寛容」概念であり、明戸が言うようなレベルでは考えてこなかった。ダーバン宣言とは、「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容に反対する世界会議」の「宣言と行動計画」のことだ。
ダーバン会議に参加したことが21世紀に入ってからの私の思考、研究に多大の影響を与えてきた。今もなお私はダーバン宣言の枠組みで思考している。ダーバン宣言のフォローアップが研究の主たる課題である。もっとも、ダーバン宣言では単なる「不寛容」ではなく、「人種主義、人種差別、外国人排斥および関連のある不寛容」とあるように「関連のある不寛容」なので限定された概念だが。
ダーバン会議は一日延長して9月8日に宣言を採択したが、その前にアメリカとイスラエルが会議をボイコットして退席・帰国した。3日後に9.11だ。あれから16年、ふたたびアメリカとイスラエルが世界に不安と恐怖をまき散らしている。寛容であることもなかなかの苦労。