Monday, September 04, 2017

記憶をめぐる言説の危うさについて

玄武岩は、朴裕河『帝国の慰安婦』が「記憶」を論じながら歴史学において重視されている記憶論を踏まえていないことを指摘している。正当な指摘だと思う。
ただ、私自身は「歴史学において重視されている記憶論」そのものに危うさを感じているので、その点を補足しておきたい。
歴史学に限らず、ナチスのユダヤ人虐殺をはじめ世界各地のジェノサイドや人道に対する罪の歴史に関して「記憶」の重要性が浮上し、さまざまに「記憶」をめぐる研究が深められ、焦点となってきた。たしかに「記憶」をめぐる研究は重要であるし、近年の発展は歓迎すべきことである。
しかし、記憶をめぐる言説の中には、おいそれと容認し得ないものが目立つのも事実である。主な論点に絞って書き留めておきたい。
第1に、「慰安婦」問題を1990年代に議論し始めた時、私たちはそれを「歴史」「過去」「記憶」のこととして取り組んだのではない。「50年の沈黙を破って」被害者=サバイバーたちが体験を、記憶を語り出した時、その文脈は、現在も続く戦時性暴力、女性に対する暴力をいかに止めるかという現在の実践のフィールドで受け止めたのだ。「被害当事者の体験と記憶の現在性」こそが「不処罰を終わらせる」ための起爆剤だった。だからこそ国連人権委員会で、同時代の女性に対する暴力や戦時性奴隷制の問題として、1990年代前半の旧ユーゴスラヴィアやルワンダの事態とともに議論の対象となったのである。このことを軽視して、歴史、過去、記憶のただ中で議論する傾向が強まっているのではないだろうか。「歴史主義的記憶論」とでも名付けられるような議論には疑問を付すしかない。事柄を「記憶をめぐる争い」に矮小化してはならない。
まして、「慰安婦」問題は日韓問題ではない。日本人女性も含めたアジアの女性に対する人権侵害問題であり、世界の女性の人権問題である。これまでにも何十回と指摘してきたことだが、このことを意図的に無視して、何が何でも日韓問題にしたがる一部の論者がいる。日韓問題にすることで、他の諸国・諸地域への視線を閉ざすと同時に、日韓の政治対立問題にすることによって「国家間の政治問題」だけに限定しようとする。記憶をめぐる言説にもこうした傾向が見られると言ってよいだろう。
第2に、誰の記憶か、という問題がある。玄武岩もこの点は正当に指摘しているが、「慰安婦」問題で言えば、被害者=サバイバーの記憶の他に、当時の関与者たちの記憶があり、日本軍兵士の記憶があり、現在の韓国の社会・政治意識における記憶があり、といった具合に、記憶についてはさまざまなアクターが登場しうる。当たり前のことである。ところが、さまざまな記憶の主体を登場させることによって、「記憶の相対化」が図られる。そこから果てしない「記憶をめぐる争い」が始まる。記憶する者と、記憶される者の落差が利用される。挙句の果てに、研究する主体の介入により、いくらでも追加登記の可能な局面では、当事者の体験に基づく記憶は、記憶の山の中で操作可能な情報の一つに転化されてしまう。
第3に、記憶に限定した議論は、責任の排除につながりうる。現にそうした議論が登場し、歴史や記憶を明らかにするには責任という倫理的要素を導入するべきではないとの主張がなされる。「もっとも形式的な実証主義」に閉ざされた議論が厳密な学問を装うことにならないだろうか。ドイツの「記憶・責任・未来」基金が重要な役割を果たしたにもかかわらず、研究者の記憶論は責任不在、それどころ責任排除の記憶論になりがちである。
歴史的事態に関する記憶をめぐる研究には、心理学、社会学、政治学、歴史学等々諸分野を横断した優れた研究が出ているようだ。その重要性は言うまでもない。
ただ、上記は私自身のための自戒としてメモしておいた。