Sunday, May 07, 2017

「慰安婦」論争の一局面――「上野-吉見論争」は論争だったのか

金富子「上野流フェミニズム社会学の落とし穴」『商学論纂』(中央大学商学研究会)58巻5・6号(2017年)
『継続する植民地主義とジェンダー』の著者、『歴史と責任』『Q&A朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任』の編者であり、「慰安婦」問題の解決を求める運動の中心人物でもある著者の論文だ。
著者は、1997~98年当時の、上野千鶴子と吉見義明の間で交わされた論争を振り返り、その現在的位置と意味を測定しようとする。それが過去の論争ではなく、上野が絶賛する朴裕河の『和解のために』と『帝国の慰安婦』という形で、現在まさに議論と政治の焦点になっているからだ。著者は、上野の『ナショナリズムとジェンダー』が『帝国の慰安婦』に道を開いたと位置付ける。上野が朴裕河の著作を推奨したと言うだけではなく、『帝国の慰安婦』は「上野理論の実践」という側面を有するという。上野のいう「不純な被害者像」、「モデル被害者」論、「民族言説」論などをすべて共有し、反転させたのが朴理論だと見る。
その上で、著者は、2016年3月28日に東京大学で開催された非公開(その後、集会記録はインターネット上で公開)の研究集会における吉見と上野の発言を対比し、『帝国の慰安婦』に対する両者の評価を踏まえて、「学問的手続き」について、朴著は「研究書としては失格」ではないのか、「慰安婦」制度の責任主体をめぐる議論(業者主犯説)、「慰安婦」の「主体性」の理解などについて論じる。
最後に著者は、歴史家の成田龍一の議論を一瞥して、「本稿もまた『上野の議論の錯誤と矛盾』を突いたにすぎないとされるかもしれない。上野氏は『ジェンダー史からの歴史学への挑戦』と述べたが、筆者もまたジェンダー史研究者として応答したつもりである」という。
若干コメントしておこう。
第1に、私は上野-吉見論争が学問的な論争であったとは考えない。小林よしのり―吉見論争の方が、まだしも意義があっただろう。フェミニズムやジェンダーという言葉を振り回せば何かを言ったつもりになれるのは、結構なことだが。とはいえ、上野の影響力の大きさから、20年たっても金富子論文が書かれる必要がある。これは、この国の学問水準の喜劇的な低さを反映している。
第2に、東京大学の非公開研究集会に私も聴衆の一人として参加したが、期待外れであった。議論がかみ合うか否かという以前に、デマを平気で容認し、開き直る論者がいたからだ。朴裕河擁護論者で、まともに議論しようとしたのは西成彦だけだったのではないか。西の主張には首をひねるが、その姿勢はまだしもまともだったと思う。こうした研究集会を実現したオーガナイザーたちには感謝している。
第3に、金富子は上野の「反日ナショナリズム」批判を取り上げて、「上野氏の隠れたナショナリズムが現れている」という。正しいが、「隠れた」の3文字は余計だろう。上野のナショナリズムとレイシズムは20年前から明らかだからだ。