Sunday, March 05, 2017

遡行する旅、氾濫する旅

立野正裕『スクリーンのなかへの旅』(彩流社)
<世界の聖地をめぐる旅を続ける著者。
映画のなかにも「聖地」を見出す。
それは人びとの心のなかで特別な意味を与えられた場所。
「聖なるもの」を経験するとはいかなることか。
約50本の映画をめぐって
スクリーンのなかへ旅をしながらじっくりと考える。>
旅する文学者はめずらしくないし、旅する文芸批評家もめずらしくない。旅のエッセイは世の中にあふれている。まして、いまや誰もが世界中のどこにでも行けるので、他人の旅の体験や思索に対する関心は薄れているかもしれない。
しかし、読者を飽くなき「精神のたたかい」に引きずり込む立野の旅をめぐる思索は特筆に値する。英文学者なのに授業で学生に英文学を読ませないと公言する立野は、テキストと現場、歴史と現在、記憶と予感、知性と感性を総動員して、どこでもない場所への、どこにもない場所への想像力を鍛えることを、学生に感じ取らせてきたのだろう。
48本の映画批評をまとめた本書は、「聖地」への旅、を掲げたもう一つの旅の思索である。冒頭の「辺境への旅」で、立野はピレネー山脈のロランの切通しを訪れる。本書の表紙に用いられた写真に引き付けられた読者は、わずか9頁を読み終えた時点で、本書のなかで繰り返し語られる思索の背景を手繰り寄せることができるだろう。読み進めながら、常に立ち返るべき地点だ。
切通しは世界各地にみられる。水や氷河の流れや地層の変動によって造形された切通しそれ自体、単に特徴的な地形にすぎない。特徴的というのは、見る者に与える感銘であって、それは一様ではない。切通しは、巡礼の通り道にもなるし、境界分断の関所にもなるし、激しい戦場にもなる。人間の思索と行動が切通しに歴史的社会的意味を付与してきた。悲哀の物語も波瀾万丈の物語も、切通しにはじまり切通しに終わる。
立野は『日曜日には鼠を殺せ』(フレッド・ジンネマン監督、1964年)のロランの切通しに立ち尽くして、人間、いかに生きるか、を問い続ける。
私が初めて読んだ立野の著作は、『精神のたたかい-非暴力主義の思想と文学』だった。これが立野の最初の単著である。本書に感銘を受けた私はぶしつけにも、すぐさま面識のない立野に連絡し、インタヴューを申し入れた。立野が快く受けてくれたので、そのインタヴュー記録は、前田朗『平和力養成講座』に収められている。
その後、立野は矢継ぎ早に著書を送り出してきた。『黄金の枝を求めて-ヨーロッパ思索の旅・反戦の芸術と文学』、『世界文学の扉をひらく(1・2・3巻)』、『日本文学の扉をひらく 第1巻』、『洞窟の反響―『インドへの道』からの長い旅』、『未完なるものへの情熱―英米文学エッセイ集』(スペース伽耶)――ここには立野文学の精髄が収められている。ただし、議論のエッセンスがお行儀よく収められているわけではないので、読者は要注意だ。あまり真剣に読むと<立野病>に罹患する恐れがあるし、軽い気持ちで入ると立野ワールドから弾き飛ばされてしまうかもしれない。
他方、『紀行 失われたものの伝説』『紀行 星の時間を旅して』(彩流社)では、文学と人生と旅をめぐる、もう一つの立野ワールドに触れることができる。旅行ファンや旅の達人や旅行作家ではなく、生きること、体験すること、泣き、笑うこと、ぶつかり合うこと、愛し合うこと、闘うこと、そのすべてに翻弄されながら、打ちのめされながら、鼓舞されながら、語ること。語り続けること。