Saturday, January 21, 2017

大江健三郎を読み直す(72)燃えあがる緑の木の崩壊

大江健三郎『燃えあがる緑の木 第三部大いなる日に』(新潮社、1993年)
ギー兄さんが作り出した「燃えあがる緑の木」は、教会としても生活共同体としても成功し、メンバーが急速に増えていく。それに伴い、地域社会との対立も生まれていく。ギー兄さん自身の若き日の暴力が遠因となって、党派から襲撃され、歩くこともできなくなるが、祈りの日々を過ごしていく。だが、生活共同体としての燃えあがる緑の木は、内部にも破綻の要因を抱え込む。外との対立、内部の矛盾、そしてついにはギー兄さんと仲間たちの分かれ道がやってくる。
一度はギー兄さんを見捨てて外に出たサッチャンが教会に戻って以後の語りは、祈りと治癒の可能性と不可能性のはざまで揺れ動きながらも、ギー兄さんの最後の告白と死に至るまで、途切れなく続く。宗教的でありながら宗教ではない教会の、聖書もなく神もないまま祈り続けることの意義を問い続ける。弱き指導者であるギー兄さんは暴力を受け止めながら、暴力を無化する生きざまを提示して、世を去る。イエスが十字架にかけられたように、ギー兄さんは「救世主」への道を歩む。
こうして大江がたどり着いたのは、なんとも形容しがたい「神」への接近であり、地域から生み出された「世界モデル」である。人間が人間であることの再認において、矛盾を排除することなく、むしろ矛盾だらけの自己を見つめ続ける精神の軌跡である。その意味で大いなる肩透かしでもあるかもしれない。安直に結論に到達したつもりになることなく、それでも書き続けるとの大江の宣言であろう。