Monday, January 30, 2017

大江健三郎批評を読む(6)大江文学に内在する矛盾

小森陽一『歴史認識と小説――大江健三郎論』(講談社、2002年)
2001年の9.11を体験した文学の可能性を問うために書かれた文芸批評である。
大江の当時の最新作『取り替え子』を素材に第一章「固有名と星座」を論じ、そこから大江作品を遡って、第二章「百年のみなし子」で『万延元年のフットボール』、第三章「千年の交渉者」で『同時代ゲーム』、第四章「『蹶起』と『根拠地』」で『懐かしい年への手紙』を論じている。つまり、当時の大江文学の到達点である「根拠地」の歴史性を、丁寧にたどる試みである。
第一の層が、大江の個人史とその直接の背景となる戦後日本の現代史である。第二の層は、百年単位での日本史である。1860年のフットボールと1960年の安保闘争である。第三の層は、小森によれば「千年」ということになるが、谷間の森の古層に蓄積された記憶と伝承である。これら全体をゆきつ戻りつしながら、時代の必然としての「蹶起」と、時代への対抗としての「蹶起」の間で、人間模様を照らし出す。大日本帝国と日本国家の関係を編みなおす試みでもあるだろう。同時に、「政治的人間」と「性的人間」の関係を問うことでもある。
大江文学に向かう場合、どうしても個人史と小説の関係を「私小説」と似て非なる大江文学の固有の文体と方法論に即して考察しなくてはならない。小森はそのことに自覚的であるが、ここでは息子の光を中心とした大江家族の事情をいったん外において、「歴史認識」に焦点を絞っている。大江が小説の方法で批判的に検証した現代史を、小森が文芸批評の方法で批判的に検証する。読んでためになる評論だ。
いささか疑問なのは「あとがき」において、小森が「最もショッキングだった」こととして紹介しているエピソードである。大江は「戦後民主主義をポジティブに押し出す立場でやってきた」が、他方で「超国家主義的なものに引きずられやすい」、そのため「超国家主義をアイロニーとして書いた」という。小森はこのことがショッキングだったと言うが、不思議である。これは大江の読者にとってはむしろ常識的なことではないだろうか。戦後民主主義の大江文学に天皇的なるものが内在し、大江自身がそれと格闘してきたことは、文芸評論を待つまでもなく、一般の読者にとって常識的なことであろう。小森の本文の分析がためになるにもかかわらず、あとがきの述懐は理解しがたい。
ここでの大江の矛盾は、実は大江固有の矛盾ではないし、難しい話でもない。戦後民主主義そのものの矛盾であり、日本国憲法の矛盾である。
アジア太平洋戦争への反省に立ったはずの日本国憲法だが、植民地主義への反省が十分ではないこと。
絶対天皇制を否定はしたが、天皇制を象徴天皇制として残したこと。
日本国憲法がかつての絶対天皇制から象徴天皇制の頂点に自動的に移動した同じ人物によって宣布されていること。
憲法第一条において、「天皇と国民」とが安直に野合していること。
そして、憲法第一〇条において、「国民」の規定性と無規定性が、国民ならざる者の徹底排除として成立していること。
つまり、日本国憲法とは他者に対するむき出しの暴力であったこと。こうしたことを知るものならば、日本国憲法と戦後民主主義が孕む矛盾を大江が見事に体現していたことは容易に理解できることである。
日本国憲法を平和憲法、民主主義憲法、立憲主義憲法と称して寿いできた憲法学者の多くが、レイシズムとヘイト・スピーチを必死になって擁護してきたのは、まさにこのためなのだ。小森にはそれが見えているだろうか。

ヘイト・スピーチ研究文献(89)排外主義と歴史修正主義

能川元一「排外主義の言説・運動における歴史修正主義の影響」『日本学』43輯(2016年)
ヘイト・スピーチを惹き起こしている排外主義運動の主たる要因の一つに歴史修正主義があることはかねてから知られ、指摘されてきた。本稿で、能川はさらに分析を進める。
民族差別や排外主義を(主観的に)正当化する要因として、歴史修正主義、その「論拠」として機能する民族差別、運動としての連続性、という3つの視点を提示する。歴史修正主義としては「韓国=反日」という議論の諸特徴を確認し、朴裕河、西岡力、小林よしのり、在特会の思考の共通性を探る。民族差別の例として、「慰安婦」問題に関する黒田勝弘、櫻井よしこの言説を取り上げる。そして、運動としての連続性として、主権回復を目指す会の西村修平、なでしこアクションの山本優美子などの排外主義と歴史修正主義の連続性を検証する。
 最後に能川は次のように述べる。
 「歴史修正主義についてはまったく楽観を許さない状況である。安倍首相が個人としては排外主義活動家らと大差ない『慰安婦』問題認識の持ち主であることはよく知られているが、アメリカなどでの『慰安婦』碑設置に反対する日本の右派の運動には日本政府も深くかかわっているのが現状である。与党自民党内にも『慰安所』制度の犯罪性や日本軍の責任を否認する議員が少なくない。マスメディアも歴史修正主義に関しては及び腰であり、一部にはそれをコンテンツとして積極的に利用するメディアもある。排外主義運動が『慰安婦』問題を利用して韓国への、ひいては在日コリアンへの反感を煽ることができる状況はまったく変わっていない。日本政府と日本の市民社会が共に歴史修正主義にはっきりと抗する姿勢をうちださない限り、排外主義運動の火はくすぶり続けることが懸念される。」


「西田幾多郎の知られざる闇」

寺内徹乗「西田幾多郎の知られざる闇」『鶴彬通信 はばたき』27号(2017年)
鶴彬を顕彰する会の機関誌『鶴彬通信 はばたき』最新号に掲載された論考は、知っているつもりで良く考えていなかったことに気づかせてくれる、勉強になる論考である。
編集部がつけたと思われる惹句は「かほく市が生んだ2つの“巨塔” さて あなたはどちら派?」であり、次のようなリード文である。
「片や日本の思想界をリードしてきた哲学者・西田幾多郎。片や特高に追われ獄中死した反逆の川柳人・鶴彬。ともにかほく市の生まれ。先の15年戦争時代、真逆の生き方をした2人です。同じ風土に生まれ育ちながら、その没後も多くの後継者、崇拝者を生み出し哲学界に燦然と輝く評価に囲まれた西田と、闇に包まれほとんど忘れられながら一叩人や澤地久枝さんの手で発掘され、日の目を見つつある鶴彬。また前者は国から文化勲章を受けたり、県、市の手で立派な記念館が作られているのに対し、後者は行政を頼らず有志によるボランティアで知名度を少しずつ上げてきました。今改めてこの2人を並べてみると、雲と泥、明と暗という図式がくっきりと浮かんできます。さらに2人の内部(考え、思想)に立ち入って比較すると、あまりにも対照的な姿が見えてきます。天皇制国家、軍国主義容認の西田、軍国体制に命を懸けて抵抗、平和を希求した鶴彬。その経歴、思想を顕彰せず西田幾多郎をたたえるかほく市民に、鶴彬顕彰会の寺内徹乗さんが「ちょっと待って」と声をかけました。」
軍国主義容認の西田記念館には1億円の予算でLEDのイルミネーション。片や、戦争反対の鶴彬のイルミネーションは市民の寄付による7万円と言う。「ちょっと待って」は、かほく市民に対してだけではなく、日本社会構成員全体に言わなければならない言葉だ。寺内さんの文章は説得力がある。是非一読すべきであり、推薦したい。
鶴彬を顕彰する会
http://tsuruakira.jp/
ウェブサイトには機関誌26号までが掲載されている。最新の27号はまだ掲載されていない。顕彰する会に注文すれば送ってくれる。
私の『非国民がやってきた!』(耕文社)で鶴彬を取り上げている。授業でも年に一度だが、鶴彬を紹介している。映画『鶴彬 こころの軌跡』もおすすめ。

Saturday, January 28, 2017

ヘイト・クライム禁止法(125)ニジェール

ニジェール政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/NER/15-21.25 February 2014)によると、1991年以来ニジェール憲法は人権、政治的多元主義、国民の統合、参加による発展、すべての差別との闘いを掲げてきた。人種差別撤廃条約第4条に効力を持たせる立法を行った。憲法第8条は「ニジェール共和国は法の支配により統治され、性別、社会的人種的民族的宗教的出身による区別なしに、すべての人に法の下の平等を保障する。」と規定する。
刑法第2部第1章は人種的、地域主義的、宗教的性格の犯罪を定める。刑法第102条は、人種的民族的差別行為、地域主義的プロパガンダ、良心の自由への侵害を1年以上5年以下の刑事施設収容としている。
刑法第208条3は、ジュネーヴ諸条約及び議定書によって保護された人および財産への加害を戦争犯罪としているが、これにはアパルトヘイト、人種差別に基づいた人間の尊厳への侵害も含まれる。
ニジェールは人種差別撤廃条約第4条(b)に従って、1984年の結社に関する命令およびその手続きに関する通達を出している。命令第2条は、法に違反する目的の結社を禁止し、地域、民族集団、人種的出身の特徴を持することを目的とする結社を定義している。命令は、外国人のための結社を許可している。
人種差別撤廃委員会はニジェールに次のように勧告した(CERD/C/NER/CO/15-21. 25 September 2015)。刑法102条は人種主義的活動への援助や財政支援を含まず、人種差別撤廃条約第4条(c)も反映していない。人種差別撤廃委員会一般的勧告35に沿って、刑法を人種差別撤廃条約第4条に即して、人種的優越、憎悪、差別の煽動、人種的動機による暴力の助長する観念の流布、人種主義活動の援助を、禁止するよう勧告する。

<日本問題>を浮き彫りにする

 飛田雄一『心に刻み 石に刻む――在日コリアンと私』(三一書房)
<横行するヘイト・スピーチの土壌には、戦後における植民地支配の未解決問題が横たわっている。
在日朝鮮人の法的地位の変遷とともに、今、改めて問う。>
敬愛する理論家・活動家の一人、神戸学生青年センター館長の「生き字引」としての記録化作業の一つである。「在日朝鮮人問題」と呼ばれてきた<日本問題>の実相を、歴史を遡行し、自らの運動体験を呼び戻しながら、繰り返し問い続ける作業である。
飛田と私は5歳違いだ。飛田は神戸生まれで、関西で活動してきた。私は札幌生まれで、東京で活動してきた。同じ「在日朝鮮人問題」と言っても、あまり重ならないのが実情だ。このため飛田の運動体験や交友関係を、私は断片的な情報しか知ることがなかった。本書を読むことで、私が数々の著作で垣間見てきた世界のあちらこちら、そこここに飛田の姿があったことを知らされることになった。
第1章に掲載された講演記録「私の市民運動“ことはじめ”、そしてそれから」は何といってもおもしろい。市民運動の現場で闘い続けることは、こんなにも大変で、苦労が多く、憤怒と悲哀に満ちているのに、同時に楽しい、おもしろい。人間が人間としてぶつかり合い、行き交い、すれ違い、語り合い、飲み交わすからだ。その一端を本書に見ることができる。溢れる思い、ほとばしる感情を抑制しながら、思い起こし、語り、つづることで、飛田は<日本>を鮮やかに浮き彫りにする。
第2章の武庫川河川敷問題は初めて知った。第3章の在日朝鮮人の法的地位論は、情報としては古いが、それぞれの時期の議論を通じて改めて現在のありようを問うために収録されている。
あとがきによると、飛田は旅行記が好きで、本書に続いて『旅行作家な気分』という著書を考えているという。私は数年前まで某雑誌に「旅する平和学」を連載していたので、そちらでも飛田と出会えるかもしれない。
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目次
はじめに
巻頭インタビュー(聞き手:川瀬俊治)
第一章 総論
私の市民運動〝ことはじめ″、そしてそれから
第2章 歴史編
一九六一年・武庫川河川敷の強制代執行
解説『特殊労務者の労務管理』
アジア・太平洋戦争下、神戸港における朝鮮人・中国人・連合国軍捕虜の強制連行・強制労働
第3章 法的地位
サンフランシスコ平和条約と在日朝鮮人――一九五一・九・八~五二・四・二八
入管令改正と在日朝鮮人の在留権
在日朝鮮人と指紋――押なつ制度の導入をめぐって
GHQ占領下の在日朝鮮人の強制送還
難民条約発効より二〇年―改めて日本の難民政策を考える―
在日朝鮮人(一九四五~五五年)
あとがき

ヘイト・スピーチ研究文献(88)人間の尊厳と法の下の平等

金尚均「人種差別表現に対する法的規制の保護法益」『龍谷大学政策学論集』5巻2合(2016年)
著者は編著『ヘイト・スピーチの法的研究』をはじめ、数々のヘイト・スピーチ法研究を公表してきた刑法研究者である。ヘイト・スピーチ規制の保護法益に関して、これまで人間の尊厳、社会参加、法の下の平等などを論じてきたが、それらの成果の上に本論文で一応のまとめをしている。副題に「ヘイト・スピーチ規制の憲法的根拠づけ」とある。
個人の尊重(憲法13条)と人間の尊厳の連関を問い、芦部信喜、美濃部達吉、宮沢俊義、広中俊雄、高山佳奈子、青柳幸司、樋口陽一、蟻川恒正らの見解を踏まえて、議論している。日本国憲法には人間の尊厳概念が規定されていないので、個人の尊重の中に入れるのか。それとも、憲法9条の戦争放棄と平和主義の背景に人間の尊厳がある、と解釈するのか。
続いて法の下の平等について、浦部法穂、奥平康弘らの見解を取り上げ、ドオーキンやウルドロンの見解も検討しながら、法の下の平等一般ではなく、ヘイト・スピーチ問題に即して法の下の平等を理解する方法を明らかにする。
最後に、法の下の平等と人間の尊厳の連関も取り上げ、その連続性に着目する。
「法の下の平等の侵害と人間の尊厳の侵害の関連に着目すると、両社は連続の関係にある。また、人間の尊厳の否定は、法の下の平等の侵害の動機であり、そしてそれの帰結である。」
私は、ヘイト・スピーチの憲法論を、憲法前文の精神(国際協調主義、平和主義、平和的生存権、恐怖と欠乏からの自由等)を解釈基準として、個人の尊重(13条)、法の下の平等(14条)、自由行使の責任(12条)を総合的にとらえるべきだと考える。それゆえ、表現の自由(21条)について、多くの憲法学者が言う「マジョリティの表現の自由」ではなく、「マイノリティの表現の自由」を保障するという観点から、把握している(『ヘイト・スピーチ法研究序説』)。
金が憲法9条に言及している点は、遠藤比呂通が同様の見解と言えようか。私は、人間の尊厳を9条に読み込むことは考えていなかったが、憲法前文の精神を個別の憲法条文の解釈基準とするという立場であり、同じことを言おうとしているのだろうと思う。


Thursday, January 26, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(87)ヘイト・ジャパンを超えて

前田 朗「ヘイト・ジャパンを超えて――共生と寛容は見果てぬ夢か」『アジェンダ』55号(2016年)
1 ヘイト・クライムの現在
2 李信恵名誉棄損訴訟
3 大阪府警「土人」発言をめぐって
4 グローバル・ヘイトの彼方に
「クール・ジャパン」などと言うが、実態は「ヘイト・ジャパン」となっていることを2つの事例を素材に論じたうえで、国際的なヘイト流行の根っことしての近代植民地主義を考える。

Tuesday, January 24, 2017

芸術家の愛した家/芸術家を愛した家

池上英洋『芸術家の愛した家』(エクスナレッジ、2016年)

17人の画家の私的空間を探訪。
■収録内容
 ダリの家、藤田嗣治の家、セザンヌの家
 ルノワールの家、ルノワールの家、ロートレックの家
 モローの家、ミレーの家、ミケランジェロの家
 ・COLUMN ミケランジェロの制作工房 
 ルーベンスの家、ラファエロの家、エル・グレコの家
 ドラクロワの家、モリスの家、モネの家、ゴッホの宿
 レンブラントの家、マグリットの家
 ・COLUMN  芸術家の相関図、芸術家の年表>
 斬新で、きらびやかで、優しさに満ちた素敵な本だ。表紙はスペインのカダケスにあるダリの家「卵の家」。
 17人の巨匠たちの住んだ家、泊まった宿――これらの多くは記念館・美術館となってるが、各地を訪れ、膨大な写真を用いて臨場感あふれる解説。
 作家論でも作品論でもなく、そのための水路の一つとしての、住んだ家、制作した場所、好んだ空間、眺めた景色、生活用具、室内の様子、蒐集品の調査・探求。
 美術史においては、一方で画家の性格や心境を知ることも必要だが、鑑賞に際してはそうした状況を遮断して作品そのものに向き合わなくてはならないという。個人の心境に頼って作品を論じる主観的な方法には危険が伴う。とはいえ、残された情報を総動員することも、もう一つの方法であろう。
 著者は「画家の個人的な情報に頼りすぎないことは重要なのですが、しかし筆者は同時に、それでも作品の理解には、画家の気質や生活、当時の社会状況などの情報が欠かせないと考えています」と述べる。
 写真、解説に加えて、住所、入場料、URLも掲載されている。西洋美術愛好者にはたまらない美術観光ガイドである。
 私が行ったことがあるのはルノワールとレンブラントの家だけだ。

Monday, January 23, 2017

ヘイト・クライム禁止法(124)マケドニア

マケドニア政府が人種差別撤廃委員会87会期に提出した報告書(CERD/MKD/8-10. 22 November 2013)によると、刑法137条は市民の平等侵害、144条は安全の危殆化、319条は国民的人種的宗教的憎悪、不和、不寛容を惹起すること、394条dはコンピュータシステムを通じた人種的排外主義的文書の流布、417条は人種差別その他の差別を犯罪としている。
結社・財団法4条1項は、結社の権利を保障している。同法4条2項は、憲法秩序の暴力的破壊、軍事侵略の助長・呼びかけ、国民的人種的宗教的憎悪、不寛容、又はテロ活動を目的とする団体の設立を禁止している。同法65条は、以上の団体の活動を禁止している。
刑法39条5項は、人種差別について、刑罰加重事由としている。犯罪が、国民的社会的出身、政治的宗教的信条、財産、社会的地位、ジェンダー、人種又は皮膚の色を理由として行われた場合、裁判所が刑罰について考慮するとしている。
差別からの保護委員会は、2011年に63件の申し立てを受理し、うち16件は手続きに乗らなかった。差別があったと認定されたのは4件、手続き中が5件、差別が認定されなかったのは20件である。2012年には74件を受理し、14件は手続きがなされていない。26件では差別が認定されなかった。
憲法裁判所は、2008年に6件受理し、5件が差別からの保護事案であった。1件は差別がなかったとして審理に入らず、4件は棄却された。2009年に14件のうち9件が差別事案であり、すべて棄却された。2010年に6件のうち3件が差別事案であり、すべて棄却された。
オンブズマン事務所は、2009年、情報処理電磁システムを採用したが、2009年及び2010年に有罪事案はなかった。
人種差別撤廃委員会はマケドニア政府に次のように勧告した(CERD/C/MKD/CO/8-10. 21 September 2015)。国内法に、人種差別撤廃条約第1条に従った人種差別の定義がない。刑法が人種主義団体への援助や財政支援を対象としていないのは残念である。2010年の差別からの保護法は不明確である。刑法を改正して条約1条に従った人種差別の包括的定義を含めるよう勧告する。一般的勧告35を想起し、人種差別を助長又は煽動する団体、団体参加、団体への援助を禁止するよう勧告する。人種差別禁止を公衆と司法に完全に理解させるように勧告する。

志布志事件を終わらせるために

木村朗・野平康博編著『志布志事件は終わらない』(耕文社、2016年)
2003年春の鹿児島県議選ででっち上げられた冤罪事件=志布志事件。20168月「叩き割り」国賠訴訟が終結、すべての裁判で住民側が勝訴した。だが、捜査・取調べ・長期の裁判で塗炭の苦しみを受けた被害者への謝罪はない。
事件の概要、刑事弁護活動の実際、元警察官による判決の分析、「住民の人権を考える会」をはじめ支援者の取組み、議会での追及などを詳しく掲載、年表や意見陳述書もフォローし、事件の全体像と本質を描き出す。
同時に、殺人・死体遺棄の無実の罪を晴らすために闘う最高齢の再審請求人・原口アヤ子さん(大崎事件)にも論及。
他方、今春の刑訴法改「正」では、取調べの可視化は一部に限られ、盗聴対象事件は拡大、あろうことか司法取引さえ導入された。志布志事件を問い直す中、日本の刑事司法の闇を抉り出す。>
志布志事件は事件の真相を見誤って無実の市民を逮捕した事件ではない。鹿児島県警による事件捏造である。事件そのものがなかったことを知りながら、事件があったことにしてしまう。
 その上で、無辜の市民に自白を迫り、身柄拘束し、起訴に持ち込む。多くの市民の日常生活を破壊し、人生を破壊する。警察だけではない。検察も裁判所も恐るべき無責任ぶりを発揮する。無責任はいつものことであって、いささかも驚く必要がない。いつものようにいい加減に逮捕・勾留を認め、起訴を認めて、長期の公判に市民を縛り続ける。2003年の事件だが、刑事事件及び民事事件がすべて終了したのが2016年のことである。しかも、真相は明らかにされず、責任者は逃げ続けた。その意味で事件は終わっていない。
 本書は志布志事件の闇を明るみに出すために共闘した弁護士、学者、ジャーナリスト、支援の市民の記録であり、事件に巻き込まれた当事者の声である。
志布志事件を終わらせるためには、冤罪多発の警察捜査や検察、裁判所の体制を改める必要がある。しかし、2016年の刑事訴訟法改正は、捜査機関の権限を拡大する改悪であった。
 志布志事件を終わらせるためには、捜査機関の手先となるマスコミ報道を改める必要がある。真相に迫ろうと闘うジャーナリストはいるが、企業メディアの多くは捜査機関に踊らされてしまう。
 現実は志布志事件の繰り返しを予告し、志布志事件の頻発さえ危惧される。この現実と闘うために必読の書である。


Saturday, January 21, 2017

大江健三郎を読み直す(72)燃えあがる緑の木の崩壊

大江健三郎『燃えあがる緑の木 第三部大いなる日に』(新潮社、1993年)
ギー兄さんが作り出した「燃えあがる緑の木」は、教会としても生活共同体としても成功し、メンバーが急速に増えていく。それに伴い、地域社会との対立も生まれていく。ギー兄さん自身の若き日の暴力が遠因となって、党派から襲撃され、歩くこともできなくなるが、祈りの日々を過ごしていく。だが、生活共同体としての燃えあがる緑の木は、内部にも破綻の要因を抱え込む。外との対立、内部の矛盾、そしてついにはギー兄さんと仲間たちの分かれ道がやってくる。
一度はギー兄さんを見捨てて外に出たサッチャンが教会に戻って以後の語りは、祈りと治癒の可能性と不可能性のはざまで揺れ動きながらも、ギー兄さんの最後の告白と死に至るまで、途切れなく続く。宗教的でありながら宗教ではない教会の、聖書もなく神もないまま祈り続けることの意義を問い続ける。弱き指導者であるギー兄さんは暴力を受け止めながら、暴力を無化する生きざまを提示して、世を去る。イエスが十字架にかけられたように、ギー兄さんは「救世主」への道を歩む。
こうして大江がたどり着いたのは、なんとも形容しがたい「神」への接近であり、地域から生み出された「世界モデル」である。人間が人間であることの再認において、矛盾を排除することなく、むしろ矛盾だらけの自己を見つめ続ける精神の軌跡である。その意味で大いなる肩透かしでもあるかもしれない。安直に結論に到達したつもりになることなく、それでも書き続けるとの大江の宣言であろう。

Saturday, January 14, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(86)相模原障害者殺傷事件

立岩真也・杉田俊介『相模原障害者殺傷事件』(青土社、2016年)
『私的所有論』『弱くある自由へ』以来、魅力的な言論で活躍してきた社会学者と、『フリーターにとって「自由」とは何か』『無能力批評』の批評家による共著。
事件そのものを論じていない。メディアでは膨大な議論がなされたようにも見えるが、被疑者や被害者に関する具体的な情報が不足しているため、立岩は、事件そのものについて推測的な議論をすることの問題性を認識するとともに、溢れる不確実情報や、差別助長につながりかねない議論を排して、日本にける優生思想の歴史をていねいに掘り越し、その中に事件と事件をめぐる議論の全体を位置づける試みを続ける。
ヘイト・クライムを容認しているとジェノサイドにつながりかねないことを指摘し、優生思想に基づくヘイト・クライムを防ぐための思想的課題を論じる。ヘイト・クライムとジェノサイドの関連は欧米では常識に属すると言ってよいが、日本ではヘイト・クライム研究が不足しており、両者の関連も意識されていないので、本書の提起は重要である。
「現実否認と不安、マジョリティとマイノリティ、被害者意識と罪悪感の間で揺れ動くキメラ的な人々の内なる被害者意識やルサンチマンを、外側から政治的な『正しさ』によって批判し矯正するのみならず、内側からもすくい取り、完全に武装解除はできなくとも、少しずつ緩和していくような道はないのだろうか。」
著者らには答えはないが、答えを探しながら理論と実践の闘いを続ける意思が明確である。



Thursday, January 12, 2017

大江健三郎を読み直す(71)「新しい人間」は生まれてきたか

小澤征爾・大江健三郎『同じ年に生まれて――音楽、文学が僕らをつくった』(中公文庫、2004年[中央公論新社、2001年])
2000年8~10月に行われた一連の対談をまとめた1冊。「若い頃のこと、そして今、僕らが考えること」、「芸術が人間を支える」、「新しい日本人を育てるため」。23歳で芥川賞を受賞した大江が、24歳でブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した小沢にインタヴューしたことがあり、それから40年以上の歳月を経ての対談である。1994年にノーベル賞を受賞した大江は世界的作家となったが、小沢もまさに世界的指揮者である。
大江は小説『新しい人よめざめよ』やエッセイで頻繁に新しい人について語っていたが、この対談でも同じことを繰り返している。21世紀の新しい人、新しい日本人、「個として責任を取る人、個として誇りを持っている人」であり、それは世界に開かれた思想、姿勢、構えを持つ市民である。中国生まれの日本人である小澤が西洋音楽の巨匠になったことの意味、四国の田舎の少年が東京で、日本語で小説を書き続けてノーベル賞作家となったことの意味、そこでは個性、民主主義が問われる。大江は「日本が鎖国しないように」と語る。

それでは21世紀の17年目に入ったいま、新しい人、新しい日本人は生まれたと言えるだろうか。




Sunday, January 08, 2017

大江健三郎を読み直す(70)教会・燃えあがる緑の木の発展

大江健三郎『燃えあがる緑の木 第二部揺れ動く(ヴァシレーション)』(新潮社、1993年)
当時読んでいないので、今回初めて読んだ。
新しいギー兄さんの転落、失墜にもかかわらず、燃えあがる緑の木は、静かに徐々に信頼を獲得し、活気に満ちた空間を形成していく。その過程を、サッチャンが描くスタイルは第一部と同じである。
主役は、ギー兄さんというよりも、その父親であり、元外交官である。大江をモデルとするK伯父さん、元外交官の「総領事」、ギー兄さん、サッチャン、外部から教会に参入した伊能三兄弟、かつてはギー兄さんへの球団者であった亀井さん。これらの人々が織りなす「日常」と「日日常」の中で、精神の葛藤劇が繰り広げられる。身体的な治癒と精神の癒しの双方で、語られるべきこと、考えるべきことが次々と登記される。
「第七章 アレクサンダー大王のてんかん」におけるギー兄さんの再びの失墜と、ギー兄さんを取り巻く人々の信頼にもかかわらず、逃走するサッチャンの箇所は、一読して理解するのは難しかった。ここから第三部のへの舞台の転換、物語の進展が始まることになる。



ヘイト・スピーチ研究文献(85)ヘイト・スピーチ事案の刑事手続

桜庭総「ヘイトスピーチ規制における運用上の諸問題」内田博文先生古稀祝賀論文集『刑事法と歴史的価値とその交錯』(法律文化社、2016年)
『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服――人種差別表現及び「アウシュヴィッツの嘘」の刑事規制』の著者による最新論文である。
櫻庭は、まずヘイト・スピーチの保護法益について社会的法益説と個人的法益説を検討し、社会的法益とする理解を支持しつつ、それがヘイト・スピーチの「害悪」を示すものであるが、害悪と被害とは区別されるという。
本論文では、「被害」のうち、捜査機関による差別的捜査について論じている。すなわち、検挙・起訴すべき事案が適切に検挙・起訴されない場合と、逆に検挙・起訴すべきでない事案が検挙・起訴される場合である。ヘイト・スピーチの現場で警察官が何ら対処しない場合や、ヘイト・デモの側ではなくカウンターの側が検挙される場合や、国会周辺での反原発デモの規制を唱える場合などが念頭に置かれる。
差別的訴追については最高裁判例もあり、アメリカにおける研究もあるが、現行法と体制では、適切な対処が難しい。差別的捜査であることの立証が難しい。
それゆえ、櫻庭は立法論の検討を行う。立法事実は明らかであるが、現行法体系との性愚性も検討しなくてはならない。独占禁止法の規定する公正取引委員会の専属告発制度を瞥見し、職務の専門性をさらに検討するべきという。
重要な問題提起である。著者自身、まだ論点整理にとどまるが、今後さまざまな観点から議論していく必要がある。私はこうした論点については、あまり言及してこなかった。今後はこれらの論点を意識しながら研究を進めたい。


Friday, January 06, 2017

今野晴貴『ブラックバイト』(岩波新書)

『ブラック企業』『ブラック企業ビジネス』『生活保護』など、日本の労働と生活の現場から重要な問題提起を続けてきた著者による「ブラックバイト」論だ。
学生バイトの過酷な実態を、労働相談に基づく実例と、統計データを駆使して明らかにしている。現在のところ、ブラックバイトが目立つには、外食チェーン店、コンビニチェーン店、塾講師だという。その特徴は、第1に、学生の「戦力化」、第2に、安くて、従順な学生、第3に、一度入ると辞められない、「責任感」、脅し、暴力だという。また、学生ローンと化した奨学金の問題も取り上げている。そして、ブラックバイトに陥らず、抜け出すための対処法を提示している。
若者による若者のための労働相談POSSE、ブラック企業対策プロジェクト、ブラックバイトユニオンの調査・支援活動をもとにしているので、具体的な情報に基づき、明快な議論がなされている。





川崎市ヘイト・スピーチ報告書を読む(3)

1.提言の概要(3)
 提言は項目3として「制定すべき条例の検討」を掲げる。
 「項目1及び2の対応が早急に求められるが、ヘイトスピーチ対策はそれで終わるものではない。人権全般を見据えた条例の制定に必要な作業に入るべきである。」
 そして、「協議会及び部会において、幅広い条例が必要との認識では一致したところであり、具体的な内容については、ヘイトスピーチ対策を含めた多文化共生、人種差別撤廃などの人権全般にかかるものが求められる。」という。
2.「部会報告」の概要(3)
 「条例の制定については、ヘイトスピーチ解消に特化した条例ではなく、広く人種差別撤廃条約の精神を具体化する「人種差別撤廃(解消)基本条例」や「多文化共生社会推進基本条例」、または対象をさらに広げた「人権条例」の制定が望ましい。」
 部会報告は、「多文化共生社会推進指針」は行政の指針に過ぎないとし、川崎市が推進してきた多文化共生社会の実現のため「多文化共生社会推進基本条例」か「人種差別撤廃(解消)基本条例」を制定すべきであるという。ヘイト・スピーチに関するガイドラインや、第三者機関なども条例に盛り込むべきとしている。
3.コメント
 人種差別撤廃条約第2条は、反差別法と政策を要請している。条約第4条はヘイト・スピーチの規制を要請している。条約第5条は多様な人権に関する補償を求めている。条約第6条は被害者救済を、第7条は差別と闘う教育や情報を掲げている。これらを実現するためには人種差別禁止法が必要である。
 人種差別撤廃委員会は、日本政府に対して包括的な人種差別禁止法を制定するよう勧告してきた。しかし、日本政府は、日本には人種差別はないと唱え、人種差別禁止法の制定を拒否してきた。
 野党は、人種差別撤廃施策推進法案を国会に上程したが、国会で成立したのは与党が提出したヘイト・スピーチ解消法である。ヘイト・スピーチに焦点を絞ったもので、人種差別をなくすための法律ではない。
 NGOは、例えば外国人人権法連絡会のように包括的な人種差別禁止法を求めてきた。
 地方自治体レベルでも、NGOは人種差別撤廃条例の制定を提言してきた。
 川崎市報告書は、人種差別撤廃のための包括的な条例制定を提言している。その具体的内容は示されていないが、人種差別撤廃条約に即した内容が想定されていると推測できる。その意味で、川崎市報告書の提言は全面的に支持できる。




Thursday, January 05, 2017

川崎市ヘイト・スピーチ報告書を読む(2)

1.提言の概要(2)
川崎「提言」は次のように≪インターネット上の対策≫に言及する。
「インターネット上のヘイトスピーチによる被害は深刻であり、その解消に向けた対策を、積極的に講じていく必要がある。
 具体的には、SNSを活用した発信や、積極的な削除要請などを行う必要がある。」
 注目すべきは「インターネット上のヘイトスピーチに関して、客観的な事実が明らかな
場合、積極的に削除要請を行うべきである。」としていることである。
2.「部会報告」の概要(2)
 川崎市にはインターネット上の情報収集を専門に行う部署はないことを確認し、「多文化共生の意義、多文化共生社会の実現に向けた市の施策や取組みを積極的に発信すること」を強調し、「市民等からの情報提供等によりインターネット上でのヘイトスピーチを発見した場合、市が国と協力して削除要請することは重要である。たとえそれがいたちごっこになったとしても、知り得たヘイトスピーチを放置することはあってはならないし、ヘイトスピーチを許さないという姿勢を示すことにもなる。」としている。
 また、今回の提言には含まれていないが、検討課題として、「川崎市は人種差別行為を認めないという姿勢を示すためにも、大阪市の条例では実現しなかった人種差別行為の被害者による訴訟の支援も検討されるべきである。」、「差別は生活の場で起こるものであり、また、人種差別撤廃条約上の義務は地方公共団体も負っていることから、川崎市が他都市や国の施策をリードするくらいの姿勢をもつべきであろう。」としている点も重要である。
3.コメント
 ヘイト・スピーチの被害を認めたので当然ではあるが、インターネット上のヘイト・スピーチの被害の深刻性を認識している点は重要である。
 憲法学者の中には、ヘイト・スピーチの被害を否定したり、軽視したりする例が少なくない。まして、インターネット上のヘイト・スピーチについて認識を示す例はごくわずかである。現実を見ようとしない。
 これに対して、川崎市報告書は、協議会の審議過程において被害の聞き取りを行い、ヘイト・スピーチ研究の第一人者である師岡康子弁護士からの聴取も行ったうえで、ヘイト・スピーチの被害を的確に把握し、それゆえインターネット上のヘイト・スピーチ被害が深刻であることも正しく理解している。
 ヘイト・スピーチを犯罪としている西欧諸国では、ドイツのように一般的にヘイト・スピーチを禁止する条文の解釈としてインターネット上のヘイト・スピーチも禁止している例と、刑法の条文の中にインターネット、電磁的手段などと明示している例があるが、いずれにせよ、インターネット上で行われたヘイト・スピーチも法定の要件を満たせば犯罪とされている。
 インターネット上のヘイト・スピーチに関する削除要請、ないし削除命令の実態がどのようになっているかは、必ずしも明らかではない。日本の研究水準ではそこまで調査していないからである。私の調査も不十分である。ただ、犯罪に該当するヘイト・スピーチについては削除は当然のことであろうと推測できる。犯罪に相当しないヘイト・スピーチについては不明である。
 川崎市報告書は、ヘイト・スピーチ解消法の趣旨を踏まえて、市が削除要請を行うことを提言している。ヘイト・スピーチを許さない市民の責務に関連して、市民の協力にも言及している。優れた見解である。
 「たとえそれがいたちごっこになったとしても、」と明記しているように、実際には膨大な差別落書きがなされ、ヘイト・スピーチが繰り返されているため、削除要請を行ってもヘイト・スピーチをなくすことはできない。なくすことはできないことを理由に、削除要請を否定する見解があるが適切でない。差別とヘイトを許さないという姿勢を鮮明に打ち出すことが大切である。
 また、「人種差別行為の被害者による訴訟の支援」についても言及がなされている。これは人種差別撤廃条約第6条の被害者救済に関連する。昨年、条約6条に関する西欧諸国の履行状況を調査したが、私が調べた範囲でも、いくつかの国で被害者への法律扶助を行っている例がいくつかある。

その他、多様な被害者救済の方策がありうるので、その調査も十分に行うべきである。私は、以前は条約4条のヘイト・スピーチに関する国際的な状況を120か国以上調査してきたが、昨年から2条(反差別法・政策)、6条(被害者救済)、7条(差別と闘う教育)について調査している。川崎市の専門家もぜひ調査を進めてほしい。



Tuesday, January 03, 2017

川崎市ヘイト・スピーチ報告書を読む(1)

2016年12月27日、川崎市人権施策推進協議会は、優先審議事項報告書「ヘイトスピーチ対策に関する提言」を市長に提出した。その提言及び部会報告が川崎市のウェブサイトに掲載されている。
ヘイト・スピーチに関する地方自治体の報告書としては、大阪市審議会報告書に続く2例目であるが、川崎市報告書は大いに注目するべき重要な内容を含んでいる。
大阪市報告書は、ヘイト・スピーチの規制はできないという基本姿勢を打ち出して、事前規制も事後規制も否定し、せいぜいヘイト・スピーチを行った者の氏名公表といった内容しか含んでいない。ヘイト・スピーチの被害実態を軽視しているだけでなく、その憲法解釈は、非常に歪んだ最高裁判例の読み方を根拠にしている。地方自治体レベルでは初めて公表された大阪市報告書がこのような内容だったことにより、全国の自治体には、ヘイト・スピーチの規制はできないという誤った観念が広がり、その後のヘイト・スピーチの悪化をもたらしたと言って過言でない。その意味で大阪意見書の罪は重い。
川崎市意見書は、大阪市意見書にとらわれることなく、ヘイト・スピーチの実態を把握し、憲法及び国際人権法に立脚して検討を加えることによって、重要な問題提起を行っている。
1.提言の概要(1)
今回の川崎市意見書は、その前提として、「川崎市でのヘイトスピーチ、ヘイトデモは在日コリアンなどマイノリティの尊厳を根底から損ない、多文化共生社会の推進に取り組んできた川崎市ひいては川崎市民全体に向けられた差別的言動である」とする。「マイノリティの尊厳」及び「多文化共生社会」をキーワードとしていることが重要である。
「提言」は、川崎市が取り組むべき事項を3点にまとめている。
第1は、「公的施設の利用に関するガイドラインの策定」である。
まず、「ヘイトスピーチによる市民の被害を防止するため、市が所管する公的施設(公園、市民館等)において、ヘイトスピーチが行われないよう対処する必要がある。/そのためには条例の制定又は改正をすべきであるが、当面は、各施設の既存の条例の解釈を明確化すべく、早急に、公的施設の利用に関するガイドラインを策定する必要がある。」とする。
すなわち、公的施設の利用については、憲法及び地方自治法の観点から許可を原則とするべきだが、「不当な差別的言動が行われるおそれが客観的な事実に照らして具体的に認められる場合」については、不許可とすべきであるという。その判断に際しては、客観的な基準が必要であり、ガイドラインを速やかに策定する必要がある、と提言する。
その基準として、「提言」は「不当な差別的言動が行われるおそれが客観的な事実に照らして具体的に認められる場合」とし、より具体的なガイドラインを作るように提言している。そのために必要な要素を別表に掲げるとともに、規制対象や手続きの明確化の方向性も示している。
「ガイドラインに盛り込むべき要素」としては、目的、定義、具体的な解釈、具体的な手続き、利用制限の種類、利用許可の取消、第三者機関的なしくみづくり、を掲げている。さらに、定義や第三者機関について留意事項を付している。
2.「部会報告」の概要(1)
 上記「提言」のもとになった「部会報告」では、次のような基本認識が示されている。
 「公的施設の利用については、憲法及び地方自治法などの観点から許可を原則とすべきである。しかし、人種差別撤廃条約及び「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(以下「ヘイトスピーチ解消法」という。)」の趣旨から、「不当な差別的言動が行われるおそれが客観的な事実に照らして具体的に認められる場合」については、不許可とすべきであるが、そのためには、客観的な判断の拠り所となる何らかの基準を作ることが考えられる。ガイドラインを速やかに策定する必要がある。」
 その上で、「市民館の一室や市の公園などの公共施設でヘイト集会が行われることが疑いなく明白な場合にその利用を許可することは、市が差別行為を承認したことになるので、基準を明確化した上で、不許可とすべきである。また、そうした集会が公然と行われると、マイノリティがその施設を利用できなくなるなど、悪影響が大きい。」との立場を明確に示している。
 また、「川崎市は多文化共生社会実現のための施策に取り組んできたこと、この川崎においてヘイトスピーチが行われ、実際に川崎市民に被害者が出ていること、川崎市の公的施設においてヘイトスピーチが行われることが客観的な事実に照らして具体的に明らかに予測されたことから市長が利用を不許可としたこと、今後いつ同様な利用申請が出されるかわからないこと、などを考慮して、ヘイトスピーチに対しては公的施設の利用を制限するというガイドラインを設けることは、ヘイトスピーチ解消法第4条第2項に言う『当該地域の実情に応じた施策』であると言えるだろう。」との補足説明も重要である。
 「部会報告」は、定義、第三者機関、手続きについてより詳しい記述をしている。特に注目すべきは、次の一節である。
「第三者機関の審査の方法や基準をあらかじめ定め、市民等に公表する必要がある。その際には、国連人種差別撤廃委員会の一般的勧告35(2013年)の15項に掲げられる文脈的要素(「スピーチの内容と形態」「経済的、社会的および政治的風潮」「発言者の立場または地位」「スピーチの範囲」「スピーチの目的)や国連人権高等弁務官年次報告(2013年)付録「ラバト行動計画」29項に掲げられる6要件(「文脈」「発言者」「意図」「内容と形式」「言動行為の範囲」「切迫の度合いを含む、結果の蓋然性」)が参考になるだろう。」
3.コメント
川崎市意見書は的確な提言である。ここまで踏み込んだことに、いささか驚きを感じるほどだ。川崎市人権施策推進協議会の委員たちに感謝したい。
多くの憲法学者や弁護士たちが「公的施設の利用を拒否することはできない」と断言してきたのに対して、私は逆に「ヘイト集会に公的施設を貸してはいけない」と主張してきた。山形県や門真市は施設利用を却下したが、その後、ほとんどの自治体が「拒否することはできない」と結論付けた。大阪市意見書や多くの憲法学者の意見に従ったからである。しかし、川崎市意見書は、一定の場合に「不許可とすべきである」と明示した。非常に大きな前進である。
私の個人的感想として、もっとも重要な2点を、記しておこう。
第1に、川崎市意見書は、最高裁判決(泉佐野事件、上尾事件)に言及していない。
大阪市意見書は、集会のための公的施設の利用について、参考判例として最高裁判決(泉佐野事件、上尾事件)を掲げ、これによればヘイト・スピーチが行われる恐れがあるからと言って利用を不許可にすることはできないとした。憲法学者や弁護士の中にも同様の見解を唱える例が多い。
しかし、泉佐野事件や上尾事件の事実認定を見れば、ヘイト・スピーチとは何の関係もない事案である。そこで問われているのは暴力行為であり、公共の平穏侵害である。ヘイト・スピーチ事案であっても、カウンター行動を行う集団が登場することによって類似の状況が生まれることがないとは言えないかもしれないが、基本的には異なる事案である。ヘイト集会のための公的施設の利用に関する最高裁判例はない。私はそのことを指摘する論文を書いてきた。
にもかかわらず、大阪市意見書の記述は、全国の自治体やジャーナリストに圧倒的な影響を与えた。各地の自治体が、私の主張を却下してきた。2015年の東京弁護士会の意見書も、大阪市意見書に影響されたのであろう、同じ前提に立っている(ただし、そこから一歩踏み込んで、より優れた結論に至っている)。
この点を、川崎市意見書はどのように扱うのだろうと、半ば不安に思い、半ば期待していたのだが、川崎市意見書は、最高裁判例に言及しなかった。単に無視したわけではなく、「不当な差別的言動が行われるおそれが客観的な事実に照らして具体的に認められる場合」という表現で最高裁判例の趣旨を活かして、より具体的なガイドライン作りにつなげたのである。
最高裁判例の射程をどのように解釈するかは、残されている。私の解釈も、さらに詰める必要がある。
第2に、「部会報告」は、人種差別撤廃委員会の一般的勧告35(2013年)及び国連人権高等弁務官年次報告(2013年)付録「ラバト行動計画」に言及している。自治体の意見書に一般的勧告35やラバト行動計画が記されたのは初めてではないだろうか。この点も川崎市意見書を高く評価すべき理由である。
私たち、人種差別撤廃NGOネットワークに結集したNGO、市民、研究者は、一般的勧告35やラバト行動計画の重要性を主張してきた。それが報われたことになる。私の『ヘイト・スピーチ法研究序説』においても一般的勧告35やラバト行動計画を詳しく紹介している。ラバト行動計画の翻訳にかかわった者の一人として大いに喜びたい。
ラバト行動計画