Friday, September 22, 2017

ヘイト・クライム禁止法(136)モンゴル

モンゴル政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/MNG/19-22. 29 August 2014)によると、条約4条(a)について、人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の煽動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の煽動を禁止している。2002年の改正刑法86条1項は「人々の間に国民、人種、宗教的憎悪を掻き立て、差別によって人々の権利を直接又は間接に制限し、又は特権を設ける宣伝を行うことは、5年以上10年以下の刑事施設収容とする」とし、重罪に分類している。2008年の刑法302条は、ジェノサイドについて20年以上25年以下の刑事施設収容又は死刑としている。
条約4条(b)について、2002年の広告法は、国民的民族的出身、言語、人種、社会的出身又は地位、年齢、性別、職業、教育、宗教及び意見を侮辱するために、攻撃的な言語、喩え、描写を用いてマスメディア広告を通じて公衆に広告又は放送することを禁止している。議員選挙法と雇用促進法にも、差別を禁止する規定がある。
条約第4条(c)について、1999年の政府決定「行政職員行動綱領」4項は、職務遂行に当たって人を差別しないという一般的規定であったが、2010年の「行政職員行動綱領」5項3.2は、公務員は、国民的民族的出身、人種、年齢、性別、社会的出身、財産、職業、地位、宗教、意見、教育、健康状態及び性的志向に基づいて差別してはならないとしている。
 公共サービス法第16条は、同様に市民に対する差別を禁止し、市民には差別されない権利があるとしている。2010年の国家統計局の調査によると、警察官6420人のうち、カルカス5623人、カザフ162人、ダーベド163人、ブリヤート66人、バヤド108人、ダリガンガス58人、ウリアンカイス36人、ザクチンス67人のように少数民族からも採用している。
 2013年、人種差別に関する申立事例はなかった。
 人種差別撤廃委員会はモンゴル政府に次のように勧告した(CERD/C/MNG/CO/19-22. 5 January 2016)。人種主義ヘイト・スピーチを禁止する法規定が条約第4条に合致していない。2015年にも刑法改正が行われたが、(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、(b)人種差別の煽動、(c)いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の煽動を禁止するよう勧告する。2013年の人種主義的ヘイト・スピーチと闘う一般的勧告35に注意を喚起し、同様に勧告する。2010年に改正された外国市民の地位法が人種主義ヘイト・クライムを予防・処罰していることに留意するが、外国人に対する人種主義的動機による暴力事件が生じており、ダヤル・モンゴル及びツァガーン・カースのような超国家主義的ネオナチ組織がある。ダヤル・モンゴルに関する解散手続きが進行しているというが、その結果について報告するよう要請する。人種差別を助長・煽動する団体、人種差別団体への参加、及び活動を、違法とし、処罰できる犯罪とし禁止するよう勧告する。人種主義的動機による暴力事件を迅速かつ効果的に捜査し、実行犯を訴追するよう勧告する。超国家主義者やネオナチの偏見と闘うために、教授、教育、文化、情報の分野において適切な措置をとるよう勧告する。

Tuesday, September 12, 2017

ヘイト・クライム禁止法(135)リトアニア

リトアニア政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/LTU/6-8. 1 September 2014)によると、2014年1月1日に施行された立法原理法改正は、すべての立法が欧州人権条約、欧州人権裁判所判決、及びリトアニアが当事国となった国際条約に合致するよう求めている。
リトアニア法は人種・民族憎悪の煽動及び流布について刑事責任と行政責任を定めている。2009年7月9日の刑法170条改正によると、性別、性的志向、人種、国籍、言語、世系、社会的地位、宗教、信仰を理由として、人の集団又は人に対して、嘲笑し、侮辱を表明し、憎悪を推進し、又は暴力を煽動する記事を、配布、作成、取得、送付、輸送、供給した者は、刑事責任を問われる。刑法1701条によると、性別、性的志向、人種、国籍、言語、世系、社会的地位、宗教、信仰を理由として、人の集団又は人に対して差別し、又は煽動する目的をもって集団を組織した者、又はそうした集団の活動に参加した者、又はそうした集団に資金援助その他の援助をした者は刑事責任を問われる。これらの行為は行政犯とみなされる。
2005年、欧州評議会の人種主義・不寛容に反対する委員会は、リトアニアに人種的動機を刑罰加重事由とする規定を採用するように勧告した。2009年6月16日の刑法改正は、ヘイト・クライムの刑罰を加重した。刑法129条(殺人)、135条(重大な健康侵害)、138条(重大でない健康侵害)について、年齢、性別、性的志向、障害、人種、
国籍、言語、世系、社会的地位、宗教、信仰を理由として、憎悪を表明するために犯罪が行われた場合、刑罰加重事由とした。
2012年4月に司法大臣が国会に提出した行政犯罪法改正草案は、犯罪が人に対する憎悪を表明したり、差別することによって行われた場合、刑罰加重事由としている。
2009年から2013年6月1日までの間、刑法169条から1702条に至る平等権や良心の自由に関する犯罪の捜査は888件行われた。これには性別、性的志向、人種、国籍、言語、世系、社会的地位、宗教、信仰を理由として、人の集団又は人に対して差別し、又は憎悪を煽動することが含まれる。この期間に捜査が行われた事件のうち、捜査が終結し事件が裁判所に送致されたのは251件である。284件は証拠不十分のために終結した。
このカテゴリーには、人種主義的思想の流布、これらの性質の憎悪の煽動の捜査、ロマ、ユダヤ人、ポーランド人に対する事件が含まれる。平等権や良心の自由に対する犯罪事件の95~98%は、サイバースペースで、オンライン・メディアへの書き込み、社会的ネットワーク・ウェブサイト、個人ブログ等の事件である。ヘイト・スピーチのカテゴリーであって、暴力事案ではない。
同じ期間に、人の民族や国籍を理由とする暴力事件は3件であった。2件は有罪判決が出され、1件は係属中である。
同じ期間に、人種主義団体の活動に関する事件の捜査は、3人が非公式で小さなナショナリスト団体に参加した事件以外には、なかった。
刑法169条の差別事件について、32件の捜査が行われ、そのうち5件はロマとユダヤ人に対する差別事件であった。いずれもサイバースペースでの差別宣伝事件であった。
人種差別撤廃委員会はリトアニア政府に次のように勧告した(CERD/C/LTU/CO/6-8. 6 January 2016)。委員会の一般的勧告35等に照らして、人種主義ヘイト・スピーチや憎悪煽動から保護する集団の権利を保護することの重要性を想起し、以下のような適切な措置を取るように勧告する。政治家やインターネットを含むメディアから発せられる人種主義ヘイト・スピーチや差別発言を強く非難し、政治家やメディア専門家に不寛容、烙印付け、憎悪煽動を行わないように呼びかけること。報告されたすべてのヘイト・スピーチ事件を、刑法の下で記録し、効果的に捜査し、責任者を訴追し、有罪と認定された場合は、適切な刑罰で罰すること。報告されたヘイト・スピーチ事件の統計を取ること。ヘイト・スピーチに反対するために意識喚起キャンペーンを行い、ヘイト・スピーチと適切に闘うために長期戦略を開発すること。




Sunday, September 10, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(108)民事訴訟の意義

曽我部真裕「人権訴訟における民事訴訟の意義――ヘイト・スピーチ裁判を例として」『自由と正義』2016年6月号
表現の自由研究者で、ヘイト・スピーチに関連して発言してきた著者の論文である。
曽我部は、まず「ヘイト・スピーチ規制と表現の自由」として、日本における規制の現状を取り上げ、刑事規制はないが、民事規制はあるとして京都朝鮮学校事件の判決を一瞥する。ただ、集団に向けられた場合は民事規制も困難という意見があることを紹介する。行政規制として、ヘイト・スピーチ解消法を紹介する。
曽我部は、憲法学ではヘイト・スピーチ規制に消極的な見解が有力であり、「被害の実態を知る論者から批判を受けている」として、師岡康子と私の名前を挙げている。他方、憲法学界の外で政治的保守派が表現の自由を援用して規制に消極的な事実には違和感があると言う。「ここには、奇妙なねじれがある」という。
次に、民事訴訟の意義について、刑事規制と比較を通じて特徴を明らかにする。
曽我部は、繰り返し京都朝鮮学校事件に言及し、現場で警察官が街宣活動をせず、「マイノリティの地位や権利に対する無理解に起因するバイアス」を指摘し、それゆえ、「刑事規制を設けても本来の目的を熱心に追求するあまり過度に取り締まりがなされるようなことは想定しがたく、逆に、十分な適用がなされないかもしれない」と推測する。
また、京都朝鮮学校事件では「相当数の弁護士や法学者といった法律家が関わり、重要な役割を果たしていた」ことの意義を論じている。
その上で、曽我部は、「刑事規制の余地を完全に否定する必要はないものの、重層的な対応のうち主要なものの1つとして、当事者が自律性をもって権利あるいは地位を獲得していくプロセスとしての民事訴訟の可能性を追求することには重要な意義があるということになる」としつつ、「行政にもしかるべき役割がある」とし、大阪市条例を引き合いに出す。
民事訴訟の意義を論じることが主題であり、短い論文なので、ヘイト・スピーチに関する曽我部の見解が詳しく述べられているというわけではない。曽我部には、ヘイト・スピーチに関する他の諸論文があるので、それらも見る必要がある。
思い付きだが、若干のコメントをしておこう。
第1に、曽我部は京都朝鮮学校事件を代表例として論じているが、京都朝鮮学校事件をヘイト・スピーチの代表例とすることが果たして適切だろうか。曽我部だけではなく、マスコミも多くの憲法学者も、京都朝鮮学校事件を代表例としてきた。しかし、威力業務妨害罪と器物損壊罪で有罪が確定した事件をヘイト・スピーチの代表とするのは疑問である。法的定義を踏まえないマスコミはともかくとして、法学者がこうした議論をしているのは奇妙なことである。おまけに曽我部論文はヘイト・スピーチの定義をしていない。
第2に、「ここには、奇妙なねじれがある」という指摘はもっともである。リベラルな憲法学と反差別運動論との間の「ねじれ」。及び、リベラルな憲法学と政治的保守派の議論の間の「ねじれ」。前者のねじれについては、憲法13条や14条をどう見るのかを論じる必要があるはずだが、曽我部はそこには立ち入らない。
第3に、警察の姿勢について、現場で警察官が街宣活動をせず、「マイノリティの地位や権利に対する無理解に起因するバイアス」があるとの指摘はもっともであり、「刑事規制を設けても本来の目的を熱心に追求するあまり過度に取り締まりがなされるようなことは想定しがたく、逆に、十分な適用がなされないかもしれない」との推測もありうることではある。しかし、同時に、2016年のヘイト・スピーチ解消法の制定によって警察の姿勢がドラスティックに変化したように、より広い視野で物事を考えるべきである。ヘイト・スピーチ刑事規制は、それだけで現象するのではなく、その周辺の事情をも変えるのである。その認識抜きに、単純な推測をするのは必ずしも適切とは言えない。差別とヘイトをなくすための総合的法規制の検討こそ重要である。



Saturday, September 09, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(107)憲法学的規制論の提案

藤井正希「ヘイトスピーチの憲法的研究――ヘイトスピーチの規制可能性について」『群馬大学社会情報学部研究論集』23巻(2016年)
藤井は、ヘイトスピーチ規制の必要性について、まず「社会的害悪」を取りあげ、人格権の観点と民主主義の観点を提示する。
人格権の観点では次のように述べている。
「集団を傷つける言論が特定の個人を傷つける言論よりも常に侵害性が乏しいとは決して言えないであろう。この点、ヘイト・スピーチが、個人の尊厳を侵害するとともに、法の下の平等の要請に反し、犠牲者に身体的、精神的、経済的害悪を現実に与えている以上、国家がこれを放置することは、憲法13条・14条に通底する人格権の理念からして決して許されないのである。」
憲法学者の中にはヘイト・スピーチの被害に言及しない例や、言及しても被害は大きくないと断定する例がみられるが、藤井はそうではないと指摘する。金尚均をはじめとする規制積極派が唱えてきたことと同じ主張である。身体的害悪、精神的害悪のみではなく、経済的害悪にも言及しているのは、珍しい。私と同じ見解である。
民主主義の観点では次のように述べている。
「不特定多数人によるヘイト・スピーチの圧力により、それが向けられた人びとのみならず周囲の人びとも、沈黙を強いられ、あるいは功利的に沈黙を選択し、口を閉ざす。とりわけリスクの伴う政治的主張を対外的に行うことは禁忌するようになる。やがて社会の中から気楽にものが言える雰囲気が消滅し、自由な意見交換、とりわけ政治的な意見交換が行われなくなってしまう。これは、民主主義が健全に機能するために必要不可欠な“思想の自由市場”が市民社会の中から消失することを意味する。この点においても、ヘイト・スピーチは民主主義にとって脅威となるのである。」
ヘイト・スピーチを民主主義の観点で規制することを唱えてきたのは金尚均である。藤井は金の論文を引用し、自らの見解を明らかにしている。私も「民主主義とレイシズムは両立しないから、民主主義を守るためにはヘイト・スピーチを規制する必要がある」と言う見解である。
規制消極派は、思想の自由市場論を持ち出してヘイト・スピーチ規制を否定してきた。ところが、藤井は思想の自由市場論の別の側面を提示して、ヘイト・スピーチ規制の必要性につなげている。私は思想の自由市場論を採用しないので議論の仕方は異なるが、藤井説のような組み立てもあるので、再考してみよう。
藤井は、日本における立法動向として人種差別撤廃施策法案を検討し、判例を一瞥し、諸外国の立法例としてアメリカ、カナダ、ドイツ等を見たうえで、憲法学の検討に入る。
第1に、対抗言論の法理と沈黙効果論について、「新大久保等で現実に行われているヘイト・スピーチ・デモをネット動画等で観るにつけ、この場合は対抗言論の法理が機能しないケースである」とする。そして、「被害者が存在し、現実的被害が生じている以上、それを無視することは決して許されないであろう」と言う。
第2に、表現の自由論である。「表現の自由に対する法規制を“敵視”してきたのが、戦後の憲法学と言える」とし、渋谷秀樹や奥平康弘の見解を検討し、これに対する前田朗の批判を紹介したうえで、「何らかの法規制をすべきと考えざるをえない」としつつ、表現の自由に対する委縮的効果も考慮して、「さしあたり刑罰規定の導入は見送り、行政上の措置にとどめるべきである」と言う。
第3に、保護法益論である。集団の名誉は保護法益にならないとする毛利透の見解を検討し、被害を単なる不安感ととらえるのではなく、「社会参加の機会」を考慮すべきとし、保護法益を論じている。
結論として、藤井は次の3点から「早急に法的な規制を行うべきである」とまとめる。
第1に、「通常の判断能力を有する一般人が実際に日本で行われている極端なヘイト・スピーチを見れば、人間の存在自体を全否定する言動に対して、不快感や嫌悪感にとどまらず、衝撃や恐怖を感じざるを得ないと考えるからである。」
第2に、「ヘイト・スピーチ規制はもはやグローバル・スタンダードで国際常識であるからである。」
第3に、「凄惨なジェノサイドや著しい人権侵害は、ヘイト・スピーチや民族排外意識から発生することが多いからである。」
藤井論文の存在は昨年暮れには知っていたが、読むのが遅くなった。ヘイト・スピーチ規制の憲法論を展開している点で重要である。私の著書では憲法学への外在的批判をするにとどまっていたが、その後、内在的批判を始めた。藤井は憲法学への内在的批判を通じて行政規制を基礎づけている。刑事規制については「さしあたり刑罰規定の導入は見送り」としているように、刑事規制そのものを否定しているわけではない。
藤井は新大久保や川崎などのヘイト・デモを実際には見たことがないようであり、「ネット動画等で観るにつけ」と書いている。規制消極論の憲法学者の論文では、被害に言及しなかったり、現実から目をそらした議論をしている例が少なくない。現場の実態を知ることが必要だが、現場に行かなくても、ともかくネット動画を見ればそのひどさがわかり、放置できないというまともな判断ができると言えよう。
ヘイト被害の実態調査は、政府レベルでは昨年始まったばかりである。NGOによる調査はすでにいくつも公表されている。人種・民族差別の実態を総合的に明らかにする調査・研究の重要性がますます高まっている。



Wednesday, September 06, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(106)ドイツにおけるヘイトスピーチ対策

金尚均「ドイツにおけるヘイトスピーチ対策」『国際人権ひろば』135号(2017年)
 *
ドイツ刑法における民衆扇動罪については金尚均や桜庭総らの研究が詳しいが、加えて、最近の、欧州評議会サイバー犯罪条約追加議定書への対応や、2017年6月30日の法改正(フェイスブックやツイッターにおける人種差別表現の削除)について解説している。





インタヴュー講座:人はなぜ旅に出るのか第3回 野平晋作さん

インタヴュー講座:人はなぜ旅に出るのか第3回

野平晋作さん
「勉強になりました」では済まされないことを学んだピースボートの船旅

野平晋作:1964年鹿児島生まれ。1992年よりNGOピースボートの専従スタッフとなる。現在、共同代表。国際交流の船旅の企画、コーディネートをする傍ら、歴史認識問題、在沖縄米軍基地問題、原発問題等について、他の市民団体とともに活動を続けている。

9月30日(土):開場午後5時30分、開会6時~8時30分
スペースたんぽぽ           
東京都千代田区三崎町2-6-2 ダイナミックビル4階 /電話:03-3238-9035
    JR総武線・水道橋駅より徒歩5
参加費(資料代含む):500円

 あなたはどんな旅をしてきましたか。旅先で、何を考えてきましたか。
 あなたは一人旅派ですか、それとも団体旅行派ですか――ひとり思索に集中する旅と、仲間とワイワイ楽しむ旅。目的地を決めた旅、探し物をする旅、あてどなく彷徨う旅。
 旅は地理的移動の旅だけではありません。人生そのものが旅のようなものです。
 今回は、ピースボートで、文字通り平和を希求し、学び、友好と連帯を築きながら世界を旅してきた野平晋作さんにお話を伺います。

主催:平和力フォーラム 
東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学内・前田研究室
042-637-8872    
E-mail:maeda@zokei.ac.jp


ヘイト・スピーチ研究文献(105)百田尚樹講演中止問題

前田朗「一橋大学祭・百田尚樹講演中止問題」『マスコミ市民』582号(2017年7月)
梁英聖「一橋大学KODAIRA祭への差別禁止ルール提案の意義」『マスコミ市民』583号(2017年8月)
小川宏美「百田尚樹講演会が中止になったわけ」『週刊金曜日』1150号(2017年9月)



Monday, September 04, 2017

記憶をめぐる言説の危うさについて

玄武岩は、朴裕河『帝国の慰安婦』が「記憶」を論じながら歴史学において重視されている記憶論を踏まえていないことを指摘している。正当な指摘だと思う。
ただ、私自身は「歴史学において重視されている記憶論」そのものに危うさを感じているので、その点を補足しておきたい。
歴史学に限らず、ナチスのユダヤ人虐殺をはじめ世界各地のジェノサイドや人道に対する罪の歴史に関して「記憶」の重要性が浮上し、さまざまに「記憶」をめぐる研究が深められ、焦点となってきた。たしかに「記憶」をめぐる研究は重要であるし、近年の発展は歓迎すべきことである。
しかし、記憶をめぐる言説の中には、おいそれと容認し得ないものが目立つのも事実である。主な論点に絞って書き留めておきたい。
第1に、「慰安婦」問題を1990年代に議論し始めた時、私たちはそれを「歴史」「過去」「記憶」のこととして取り組んだのではない。「50年の沈黙を破って」被害者=サバイバーたちが体験を、記憶を語り出した時、その文脈は、現在も続く戦時性暴力、女性に対する暴力をいかに止めるかという現在の実践のフィールドで受け止めたのだ。「被害当事者の体験と記憶の現在性」こそが「不処罰を終わらせる」ための起爆剤だった。だからこそ国連人権委員会で、同時代の女性に対する暴力や戦時性奴隷制の問題として、1990年代前半の旧ユーゴスラヴィアやルワンダの事態とともに議論の対象となったのである。このことを軽視して、歴史、過去、記憶のただ中で議論する傾向が強まっているのではないだろうか。「歴史主義的記憶論」とでも名付けられるような議論には疑問を付すしかない。事柄を「記憶をめぐる争い」に矮小化してはならない。
まして、「慰安婦」問題は日韓問題ではない。日本人女性も含めたアジアの女性に対する人権侵害問題であり、世界の女性の人権問題である。これまでにも何十回と指摘してきたことだが、このことを意図的に無視して、何が何でも日韓問題にしたがる一部の論者がいる。日韓問題にすることで、他の諸国・諸地域への視線を閉ざすと同時に、日韓の政治対立問題にすることによって「国家間の政治問題」だけに限定しようとする。記憶をめぐる言説にもこうした傾向が見られると言ってよいだろう。
第2に、誰の記憶か、という問題がある。玄武岩もこの点は正当に指摘しているが、「慰安婦」問題で言えば、被害者=サバイバーの記憶の他に、当時の関与者たちの記憶があり、日本軍兵士の記憶があり、現在の韓国の社会・政治意識における記憶があり、といった具合に、記憶についてはさまざまなアクターが登場しうる。当たり前のことである。ところが、さまざまな記憶の主体を登場させることによって、「記憶の相対化」が図られる。そこから果てしない「記憶をめぐる争い」が始まる。記憶する者と、記憶される者の落差が利用される。挙句の果てに、研究する主体の介入により、いくらでも追加登記の可能な局面では、当事者の体験に基づく記憶は、記憶の山の中で操作可能な情報の一つに転化されてしまう。
第3に、記憶に限定した議論は、責任の排除につながりうる。現にそうした議論が登場し、歴史や記憶を明らかにするには責任という倫理的要素を導入するべきではないとの主張がなされる。「もっとも形式的な実証主義」に閉ざされた議論が厳密な学問を装うことにならないだろうか。ドイツの「記憶・責任・未来」基金が重要な役割を果たしたにもかかわらず、研究者の記憶論は責任不在、それどころ責任排除の記憶論になりがちである。
歴史的事態に関する記憶をめぐる研究には、心理学、社会学、政治学、歴史学等々諸分野を横断した優れた研究が出ているようだ。その重要性は言うまでもない。
ただ、上記は私自身のための自戒としてメモしておいた。


Sunday, September 03, 2017

『「慰安婦」問題の境界を越えて』

テッサ・モーリス-スズキ、玄武岩、植村隆著『「慰安婦」問題の境界を越えて――連合国軍兵士が見た戦時性暴力、各地にできた〈少女像〉、朝日新聞と植村元記者へのバッシング』(寿郎社ブックレット)
テッサ・モーリス-スズキ「アジア太平洋戦争における日本軍と連合国軍の『慰安婦』」は、「慰安婦」の新たな側面に光を当てるとして、イギリス帝国戦争博物館、オーストラリア戦争記念館にある文書史料や証言史料から、連合国軍兵士の証言を多数紹介する。多くは戦争末期のインド、中国、ビルマなど東南アジアにおける「慰安婦」と冴えた女性に関連する証言である。当時の兵士(証言者)やインタヴュアーには女性の権利への問題意識がないため、十分な史料と言えない面もあるが、戦時性暴力研究の資料として重要である。
玄武岩「『想起の空間』としての『慰安婦』少女像」は、「平和の碑(少女像)」をめぐる記憶と表彰をめぐる研究である。記憶と歴史、想起と忘却のメカニズムに即して、誰の記憶か、少女像のリアリティをどこに見るかを検討する。
朴裕河『帝国の慰安婦』について、(1)多くの事実誤認があること、(2)朴裕河が「記憶」を論じながら歴史学において重視されている記憶論を踏まえていないこと、(3)朴裕河の方法が構築主義的でないこと、等を指摘する。
植村隆「歴史修正主義と闘うジャーナリストの報告」は、メディアに受けたバッシング、「北星大学事件」の当事者としての闘いの状況を報告している。
なお、9月1日、植村は、産経新聞の誤報訂正申し入れの調停を東京簡易裁判所に申し立てた。
最後に3人によるディスカッションが行われている。記録の抜粋のようで、話があちこち飛んでいる印象があるが、本文の補充と言う意味で有益な記録である。
玄武岩はここでも朴裕河『帝国の慰安婦』の評価について言及し、「私は、基本的には朴裕河の試みは意味はあるものだと考えています」として、抵抗ナショナリズムとは異なる局面をみようとする点で評価している。
ただ、朴裕河が森崎和江を安易に引用していることについて批判している。朴裕河の思想と森崎和江の思想は「相容れない」からである。国家を前提にする朴裕河の「和解」と、民衆次元における独自の出会いを求めた森崎和江とは、決定的に異なる。
玄武岩の議論は理解できる面もあるが、重要な点でやや疑問が残る。第1に、テッサ・モーリス-スズキの報告の後であるにもかかわらず、玄武岩は「慰安婦」問題を日韓の問題に閉ざし、その他のアジアを切り捨てる。それゆえ、第2に、玄武岩は「慰安婦」問題を記憶や抵抗ナショナリズムのレベルで論じる。国際社会において女性に対する暴力の議論が行われていることを的確に見ようとしていない印象が強い。テッサ・モーリス-スズキとの役割分担をしているので、あえてあまり言及しなかったのかもしれないが。

100頁、800円のブックレットだが、重要な史料、重要な視点を提供しているので、関心のある人には必読書である。







Saturday, September 02, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(104)

ヘイト・スピーチ研究文献(104)

金朋央「ヘイトスピーチ解消法施行から一年」『コリアNGOセンターNews Letter』46号
6月3日に開催された集会「ヘイトスピーチ解消法施行一年~その現状と課題、人種差別撤廃基本法の実現へ」の概要が紹介されている。

Sunday, August 27, 2017

思想を震撼させる方法、豊かにする方法

田口卓臣『怪物的思考 近代思想の転覆者ディドロ』(講談社選書メチエ)
<「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」──この著名な一文を記したのは、テオドール・アドルノ(1903-69年)である。そのアドルノが第二次大戦直後にマックス・ホルクハイマー(1895-1973年)との共著で刊行した書物の表題が『啓蒙の弁証法』(1947年)だったことは、よく知られている。この書物の表題に「啓蒙」の語が含まれていることがもつ意味は、今日ますます重くのしかかってきている。実証主義に基づいて自然を理解し、合理的思考に基づく技術で自然を支配できると考え、人間の理性を絶対視する思考。それこそが「啓蒙」と呼ばれてきたものだが、まさにその「啓蒙」の結果、人間は大量殺戮を可能にする兵器を生み、みずから統制できない危険をもたらす技術を生んできた。アドルノとホルクハイマーが糾弾したこの事実は、しかし、まさに「啓蒙」思想の全盛期である18世紀フランスを代表する人物によって、はっきりと、そして過激に示されていた。その人物こそ、『百科全書』を編集したことで知られる啓蒙思想を代表する巨人ドニ・ディドロ(1713-84年)にほかならない。本書は、その事実を明らかにし、西欧の近代思想に対して抱かれているイメージを根底から覆すことを企図した、きわめて野心的な1冊である。この課題のために、著者はディドロの代表作『自然の解明に関する断想』(1753年)を精緻に読解する。具体的な文章の向こう側に先達の、あるいは同時代の思想との関係を読み解く。あるいは、具体的な表現に込められた意図をディドロ自身の他の作品を参照しながら解明する。「法則/例外」、「基準/逸脱」、「正常/異常」といった区別を無効にする「怪物的思考」のスリリングさを体感させてくれる本書は、私たちの思考がとらわれている常識を心地よく転覆することだろう。その読解の果てに広がっているのは、実証主義や合理主義がもたらす危険や弊害から目をそらせなくなっている現在、真に必要な「新しい思考」にほかならない。>
はじめに──ディドロから思想史の森へ:『自然の解明に関する断想』を読む
第一章 幾何学と実験科学の間で
第二章 寓話、再録、補遺
第三章 偏差、怪物、夢想
第四章 流体、異種混交、理論的離脱
第五章 寄生、内破、創出
第六章 「私」の位置どり、「後世」への開け
終 章 近代思想の転覆者ディドロ──アドルノ&ホルクハイマー、ミシェル・フ
ーコーとともに考える
以上の紹介文に言い尽くされているかもしれないが、読後感を少々。
第1に、思想史研究としての特質であるが、対象となる人物の思想そのものを扱いつつ、実は思想そのものではなく思想の方法に焦点を当てている。思想の方法と言えば、ヘーゲルなりマルクスなりの思想を思いがちだ。そこではヘーゲルもマルクスも自らの思想の方法について概説している。思想内容と思想の方法の密接な関連を、自ら対象化していたからである。それらとは異なり、本書では、ディドロの著作の徹底した精読を通じて、ディドロが意識はしていたであろうが、それとして記述してはいない方法を浮き彫りにし、発掘する。その手法だけをとっても魅力的である。
第2に、発掘されたディドロの方法は、合理主義でも経験論でもあり、同時にそれらとはまた区別された方法である。帰納と演繹、法則と例外等々の諸方法ではなく、「寓話、再録、補遺」、「偏差、怪物、夢想」、「流体、異種混交、理論的離脱」、「寄生、内破、創出」といった方法として描き出される。それはディドロの方法であると同時に田口の方法でもある。と言うよりも、ディドロから発掘し、精錬し、(時に)加工した田口の思想の方法である。ディドロ/田口の怪物的思考が、250年の歳月を越えて蘇り、再録され、変容しながら、牙を研ぎ澄ましている。

論理的思考を促すために論理学、心理学その他さまざまな方法論が提起されてきた。法学分野では、文理解釈、拡大解釈、縮小解釈、勿論解釈、反対解釈、類推解釈、目的論的解釈がよく知られる。それぞれの分野によって表現の仕方は異なるが、発想法や論理的思考の基本はそう違わないだろう。田口の言う怪物的思考もそうした多様な思考方法と重なるが、合理主義や経験論の幅や射程を広げるために、意識的に提示されている。新たな知見に基づいて思考の射程を広げ、自らの思考の限界を発見するためにも、怪物的思考という観点を知っておくことは重要だ。
田口は、宇都宮大学国際学部准教授。専門は、18世紀フランス思想・文学。著書に、『ディドロ 限界の思考』(風間書房、2009年。第27回渋沢・クローデル賞特別賞)ほか。共著に『脱原発の哲学』(人文書院、2016年、佐藤嘉幸と共著)、訳書に、ディドロ『運命論者ジャックとその主人』(共訳、白水社、2006年)、『ディドロ著作集』第4巻(共訳、法政大学出版局、2013年)ほか。
佐藤嘉幸との共著『脱原発の哲学』(人文書院、2016年)は、昨年夏に読んだ。
根源的民主主義への変革を求める脱原発の哲学
佐藤嘉幸『権力と抵抗――フーコー・ドゥルーズ・アルチュセール・デリダ』(人文書院、2008年)
佐藤と田口、二人は、これからも目を離せない研究者だ。

Monday, August 21, 2017

実践国際人権法講座第4回 人種差別撤廃条約の日本への勧告

市民のための実践国際人権法講座第4回

人種差別撤廃条約の日本への勧告

日時:9月23日(土)18時~20時30分(開場17時40分)
場所:吉祥寺南町コミュニティセンター・多目的ホール
(吉祥寺駅から徒歩10分)
講師:前田 朗
参加費:500円

主催:沖縄と東アジアの平和をつくる会


「人種差別」とは人種、皮膚の色、民族的,種族的出身などに基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先のことで、政治的、経済的、社会的、文化的などの分野における人権及び基本的自由を享有、行使することを妨げ、害する目的や効果を持つ差別のことです。人種差別撤廃条約は1965年、国連総会で採択され、日本は1995年にこれを批准しました。
しかし、今なお日本には在日コリアン、アイヌ民族や沖縄/琉球、部落に対する差別、ヘイトスピーチなど、さまざまな人種差別が存在しています。
日本政府はこれらの人種差別をなくすための施策について終始消極的です。これに対して、人種差別撤廃条約の下で作られる人種差別撤廃委員会はこれらの差別をなくし、人種差別を日本の国内法で禁止し、処罰するとともに、マイノリティの権利を保障することを勧告してきました。
日本国内の状況を見てみると、7月28日には、大阪地裁が大阪朝鮮高級学校を無償化の適用対象外とした国の処分を取り消し、無償化の適用を義務付ける判決を出しました。判決では、教育の機会均等とは無関係な、外交的・政治的意見に基づき、無償化から外した行為を違法としました。
この判決を足がかりにして、在日コリアンや朝鮮学校に対する差別や今なお続く植民地主義を日本社会から清算していかなくてはなりません。そのためにも、人種差別撤廃条約を活用することができるでしょう。
 今回の講座を通じて、人種差別撤廃条約とその委員会の勧告を学び、人種差別のない社会を実現するために何ができるかを一緒に考えましょう。



最先端テクノロジー・アート創造企業の世界

宮津大輔『アートxテクノロジーの時代』(光文社新書)
IT、AI、SNSなどめざましい技術革新を前に、アートに何ができるか。技術革新はアートやデザインにどのような影響を与えるか。その最先端の具体例が紹介されている。
作家、画家、彫刻家、デザイナー。時に集団作業がなされるにしても、特定の個人名で語られてきたアートだが、いまやアート創造企業が大胆にして意欲的な特筆すべき作品群を生み出している。アートとテクノロジーを総合するには、個人よりも企業の方が利点があるからだ。
チームラボ
タクラム
ライゾマティクス
ザ・ユージーン
いずれも世界的に活躍するアート創造企業で、目の覚めるようなアイデア、夢と感動の美、伝統と現代と未来の総合、マクロからミクロまで世界への挑戦を続ける。その作品群は、多彩であり、驚きであり、偶然と必然の産物である。
著者はアート・コレクター、横浜美術大学教授。広告代理店で広報や人事を担当しながら、現代アートを収集し、独自の学問分野を切り開いてきた。内外の最先端のアート事情を紹介し、さらに先へと進む推進力ともなってきた。小さな新書にたまらない魅力がギュッと詰まっている。


Sunday, August 20, 2017

ローザンヌ美術館散歩

「ヤエル・バルタナ――震える時間」展(Yael Bartana, TREMBLING TIMES)を見た。
初めて知る名前だが、バルタナは、1970年イスラエル生まれ、イェルサレムのベザレル美術デザイン学校、ニューヨークのビジュアルアート学校で学び、ドキュメンタリー映像作家になった。現在ベルリン、テルアヴィブ、アムステルダムを拠点に活動している。実際の歴史をフィクショナルに再構成し、政治的ユートピアを模索しているようだ。代表作は「Profile」(2000年)、「Trembling Time」(2001年)、「And Europe Will Be Stunned」(2007~11年)、「True Finn」(2014年)など。
バルタナの問題意識を端的に示すのが、写真作品「Stalag: The Photographer」シリーズだ。バルタナ自身が被写体として登場する(他の作品では登場したことがないと言う)。1枚の写真はイスラエル女性兵士の制服を着てカメラを構えてこちらを向いて、まさにシャッターを押そうとしている。もう1枚の写真はナチス・ドイツの親衛隊の制服を着てカメラを構えてこちらを向いて、まさにシャッターを押そうとしている。そういうシリーズで、その容姿はリニ・リーフェンシュタールを想起させる。バルタナは兵士、市民、アーティストの責任を問う。日本では森村泰昌を思い出すことになるが。
展示の柱は「And Europe Will Be Stunned」3部作である。
第1作の「Mary Koszmary(Nightmares)」は、ポーランドにおけるユダヤ人ルネサンス運動を扱う。左翼運動家シエラコフスキーが「ユダヤ人はポーランドに帰還し、ポーランド人とともに、反セミティズムとホロコーストのトラウマを克服、新しい社会をつくるべきだ」と主張したという。その運動の呼びかけを映像化しているが、それは1930年代のナチスのプロパガンダ映像に類似していく。
第2作の「Mur I wieza(Wall and Tower)」はシエラコフスキーの呼びかけに答えた若者たちが、ワルシャワの元ユダヤ人居住地の公園にキブツを建設する。参加者全員で、木材を持ち寄り、家屋2棟と見張り塔を建設する。建設作業の中で精神的コミュニティができていく。が、それは第二次大戦時のゲットーに類似していく。あるいは、強制収容所に似ていき、さらには戦後の占領期の検問所に似ていく。
第3作の「Zamach(Assassination)」は、ポーランドに帰還したユダヤ人たちが、暗殺されたシエラコフスキーの追悼式を行う。シエラコフスキーの巨大な胸像が置かれる。人々が追想し、象徴的死を悼む。その参加者たちが徐々に表情を失い、真っ白な顔になっていく。個性を失った人々の前で、2人の若者が最後の追悼の辞を朗読する。その最後の言葉が、”Join us, and Europe will be stunned.”
かなり骨のある作品で、全部見るととても疲れた。イスラエル出身のバルタナがポーランド、ヨーロッパに向けて政治的パロディによる告発をしている。解釈の幅はかなり広いので、悩みながら、まだ結論が出ない。宿題が増えた。

Clemence, Cabernet Franc, 2015, Geneve.