Sunday, September 27, 2015

赦しの可能性と不可能性をめぐって

ジャック・デリダ『赦すこと――赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの』(未來社)

1997~98年にクラクフ、ワルシャワ、アテネ、ケープタウン、イェルサレムの諸大学で行われた講演を基にした赦しpardonをめぐるテクスト。ジャンケレヴィッチ、ハイデガー、ツェランの議論を取り上げ、ナチズムのもとで行われたホロコーストのように、赦し得ない罪をそれでも赦し得るのかと、究極の問いに挑む。例によって難解な文章で、容易には理解できない。お約束の語源探索的な理論の組み立て自体は決して難解ではないが、問いを問い直し、転換していく議論が立ちはだかる。訳者・守中高明による解説「不―可能なることの切迫――来るべき赦しの倫理学のために」を手がかりに、なんとか読み終えた。ヘーゲル、ハンナ・アーレント、そしてデリダの議論の流れが整理されている。日本の植民地支配責任や、死刑制度について考える手がかりとして理解すると、何とか議論についていける。

安野光雅の世界展

八王子夢美術館で「安野光雅の世界」展を見た。最終日、日曜の午後だったのでわりと客が多かった。
ABCの本、ふしぎな絵、騙し絵、『平家物語』の原画、そして欧州の風景画。優しい気持ちになれる素敵な風景画がたくさん。ゆったりした時間を過ごしてから、帰りは浅川の遊歩道の散歩。
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1926年に島根県津和野町に生まれた安野光雅は、幼少より絵を得意とし、画家になる夢を抱いて少年時代をすごします。上京し美術教師となると、教員をしながら本の装丁など出版関係の仕事を手掛け、1968年に絵本を出版して絵本作家としてデビューしました。科学や数学、文学、歴史など幅広い分野に造詣の深い安野は、その卓越したセンスと独創性で国際的にも高い評価を得ています。国際アンデルセン賞画家賞をはじめ内外の数々の賞を受賞、2012年には文化功労者として顕彰され、最高級の賛辞を受けました。
本展は安野光雅の故郷、島根県津和野町にある安野光雅美術館の協力を得て、初期の文字を題材にした作品や空想画、ヨーロッパの風景画、近年取り組んでいる歴史画などバラエティに富んだ安野光雅の世界を紹介します。

Thursday, September 24, 2015

大江健三郎を読み直す(51)フォークナー文学の影響

大江健三郎『核の大火と「人間」の声』(岩波書店、1982年)
大江文学のテーマである核時代に関する講演記録を中心としてまとめられた1冊。80年前後は西欧における反核運動が高まった時期であり、核軍縮の始まりを予感させた時期であった。もっとも、日本では「ソ連が攻めてくる」式のヒステリックな政治キャンペーンが展開され、国防教化、非核三原則の骨抜き化が進んでいた時期でもある。後智恵で考えると、日米安保反対の声が徐々に弱体化し、自衛隊容認論が高まって行った時期でもある。つまり、戦後民主主義と平和主義の衰退が顕著に進んだ時期であると言えよう。
大江は「核時代を生き延びる道を教えよ」とストレートに問い、「核状況のカナリア理論」を説く。

他方、「ドストエフスキーから」「作家としてフォークナーを読む」「子規・文学と生涯を読む」などの文学講演を収める。大江は本書でも文学方法論としてロシア・フォルマリズムや文化人類学の成果に触れているが、それとは別にドストエフスキー、フォークナーを取り合えている。ドストエフスキーについては埴谷雄高らとの共著もあり、フォークナーについては後の文学講演で繰り返し語っているが、両者を合わせて論じたのは本書が最初ではないだろうか。一般に文芸評論家による大江健三郎論を見ても、フォークナーに注目したものは必ずしも多くはないような気がする。ところが、小谷野敦は、大江文学はフォークナーの影響で成立したと述べていた。なるほど、と思う。もっとも、私は『響きと怒り』『八月の光』『サンクチュアリ』しか読んだことがない。

Sunday, September 20, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(38)

山本崇記「部落問題と差別規制の課題に関する予備的考察――ヘイト・スピーチを中心に」『世界人権問題研究センター研究紀要』20号(2015年)
これまでの部落差別と、最近話題のヘイト・スピーチとを、その共通性と差異を踏まえて検討し、差別行為の規制について、特に自治体レベルの対応と地域社会における対応に焦点を当てて分析している。

部落差別の規制については、国レベルの人権擁護法案や、地方レベルの人権条例の現状を明らかにしている。部落差別の理解については、「実体から関係へ」の視点移動を強調し、ヘイト・スピーチも「三者関係としての差別」と把握できる。そこから部落差別事象の変遷をたどり、2003~08年の連続大量差別はがき事件と、2011年の水平社博物館差別街宣事件を分析し、ヘイト・スピーチ対策について検討する。

大江健三郎批評を読む(5)クスッと笑える小噺伝記

小谷野敦『江藤淳と大江健三郎――戦後日本の政治と文学』(筑摩書房)
著者の本をほとんど読んでいない。これといった理由があるわけでもないが、なぜか読まずに来た。『現代文学論争』は便利そうなので買ったが、一部しか読んでいない。『谷崎潤一郎伝』『川端康成伝』『久米正雄伝』などを書いていると言う。
本書は、同じ時期に颯爽とデビューし、ライバルであった文芸評論家と作家のダブル伝記だ。江藤が亡くなった後の大江の伝記部分は簡略だが、一応現在までをカバーしている。記述は単純明快で、ひたすら年代順に出来事を並べると言う方法であり、方法論的な特徴はない。江藤と大江のそれぞれの活動、発言、作品を順に並べて、若干コメントを付している。作家論も作品論も避けて、2人の辿った道のりを追いかけ続ける。

そうした伝記だが、随所で笑える。ショート・コントの連続と言ってもよいような書きっぷりである。江藤にはやや厳しいが、著者は大江を「日本文学史の三大文学者を、紫式部、曲亭馬琴、大江健三郎」とまで言っているくらいだ。とはいえ、大江に笑わされ、大江を笑いながら、楽しく執筆したと言って良いだろう。江藤と大江を中心にした「戦後文学史」であり、かつ、と言うよりも、それにもかかわらず、お笑い集だから、タメになり、楽しい。と言っても、大江が云う異化、トリックスター、パロディ、哄笑とは違う。文壇政治や奇行をネタに、クスッと笑える小噺集である。

Saturday, September 19, 2015

クーデタと侮辱を前に、新しい民主主義の一歩を

神奈川新聞「時代の正体」取材班『時代の正体――権力はかくも暴走する』(現代思潮新社)
戦争を平和と呼ぶ狂った政治家による憲法破壊のクーデタを目撃させられた9月、この国に生きる私たち市民は、自らを侮辱しながら底なしの泥沼で溺れながら、沈もうとしている。立憲主義、民主主義、平和主義といった原理原則が、あまりにも無造作に踏みにじられ、信頼や連帯や共感が死滅させられようとしている。
神奈川新聞の記者たちは、「時代の正体」という言葉で、アベシンゾー的世界を多面的に描き出している。
「「安全保障」の暴走」
「抑圧の海――米軍基地を問う」
「ヘイトスピーチの街で」
「戦後70年――扇動と欺瞞の偉大に」
「熱狂なきファシズム(想田和弘、内田樹、高橋源一郎、辺見庸)」
おびただしいウソを連ねて、権力を私物化する卑劣漢の正体を暴く作業は、アベシンゾー的世界の空気と実態を追跡することになる。それは侮蔑にしか値しない腐敗に覆われた「美しい国」の末路である。

憤慨し、怒り、そして悲嘆にくれる日々だが、ここから次の一歩を進めるしかない。国会前で、全国各地の路上で、ひたむきに叫び、論じあい、行動した人々が、いま、新しい民主主義のスタートラインに立っている。立憲主義を、平和主義を、私たち自身の手で再獲得するために。

Thursday, September 17, 2015

核をめぐる数々の欺瞞を暴く

核をめぐる数々の欺瞞を暴く

木村朗・高橋博子編著『核時代の神話と虚像――原子力の平和利用と軍事利用をめぐる戦後史』(明石書店、2015年)
http://www.akashi.co.jp/book/b208054.html
<広島・長崎へ原爆が投下されてから70年。その後も第五福竜丸事故、3.11福島第一原発事故、そして劣化ウラン兵器などにより、国内外で被ばく者は増加を続けている。戦後の核問題について深い洞察を続けてきた第一人者らが、核の平和利用と軍事利用の密接な結節点を指摘し、核をめぐる欺 瞞を撃つ。戦争と核のない世界を希求する言霊。>
1    核時代の幕開けの意味を問い直す――忍び寄るグローバルヒバクシャの影[木村朗]
2    軍事・防衛研究としての放射線人体影響研究――第二次世界大戦・冷戦・対テロ戦争[高橋博子]
3    核兵器と原発で歪められた放射線被曝の研究[沢田昭二]
4    占領期における原爆・原子力言説と検閲[加藤哲郎]
5    住民はなぜ被曝させられたのか――広島・長崎からマーシャル諸島へ[竹峰誠一郎]
6    「原子力の平和利用」の真相――原発導入の背景と隠された米国の意図[戸田清]
7    掣肘受けざるべく――核燃料サイクル計画の裏に潜む闇[藤田祐幸]
8    原子力と平和――福島第一原子力発電所事故と原子力の内実[小出裕章]
9    原子力政策空回りの時代[吉岡斉]
10    劣化ウランの兵器転用がもたらすもの[山崎久隆]
11    アメリカ新核戦略と日本の選択――核兵器をめぐる現状と課題[湯浅一郎]
12    朝鮮半島における「核問題」と朝鮮人被爆者に関する歴史の一考察[李昤京]
13    軍事攻撃されたら福島の原発はどうなるか――「平和を欲すれば軍事力・軍事同盟を強化せよ」論の落とし穴[藤岡惇]
14    核軍縮と非核兵器地帯――北東アジア非核兵器地帯構想を中心に[中村桂子]
15    日米〈核〉同盟――その軌跡と隠された真実[太田昌克]
           *
目次を一瞥するだけで本書の凄さがわかる。しかも、上記の15本の論文に加えて、コラムが15本。充実の1冊だ。原爆と原発の両輪によって構築された現代日本の核体制が正面に掲げてきたおびただしい神話と虚像を徹底解剖し、歴史の闇を明るみにだし、現在の虚妄を撃つ。どこから読んでも発見 の連続だ。著者はいずれも理論と実践の現場で闘い続けてきたつわものたちだ。平和運動、反核運動、脱原発運動、それらの一翼を担ってきた裁判闘争、情報戦、あらゆる場面に著者たちの姿があったし、いまも、ある。研究者にして運動家、歴史家にして闘士――真実を求める闘いと人権を求める闘いが見事に融合し、鍛えられている。

Thursday, September 10, 2015

戦争法案と闘う憲法学

森英樹編『別冊法学セミナー 安保関連法総批判』(日本評論社)
http://www.nippyo.co.jp/book/6912.html
目次
1 序論 ……森英樹(名古屋大学名誉教授)
2 総論 ……愛敬浩二(名古屋大学教授)
「武力攻撃事態+存立危機事態」対応法制 ……浦田一郎(明治大学教授)
「重要影響事態」対応法制 ……塚田哲之(神戸学院大学教授)
「国際平和共同対処事態」対応法制 ……大河内美紀(名古屋大学教授)
PKO等協力法」改定案 …… 秀孝(神田外語大学非常勤講師)
「平素」対応+「グレーゾーン」対応法制 ……小澤隆一(東京慈恵会医科大学教授)
「国会承認」制度 ……植松健一(立命館大学教授)
 新々ガイドライン ……倉持孝司(南山大学教授)
10 資料

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憲法学による戦争法批判はすでに何冊も出ているが、9人の憲法学者による本書はその決定版と言ってよいだろう。編者を中心に集団的自衛権批判の本も2冊出ているが、それらも踏まえた最新の批判書である。本文100ページほどのコンパクトな本だが、主要論点をカバーしている。本書を武器に、戦争法案反対運動を盛り上げたい。







Wednesday, September 09, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(37)北海道新聞・月曜討論

「月曜討論 ヘイトスピーチ規制法は必要か」『北海道新聞』2015年9月7日
「万能ではなく副作用も」尾崎一郎
「刑事罰と教育 包括的に」前田朗
尾崎一郎さん(北大大学院教授)と私の意見を左右に並べて、読者が読み比べる形式である。

「札幌西高卒」の私は、法規制必要論、というよりも法規制必須不可欠論だ。「日本は1995年に国連の人種差別撤廃条約を批准しており、今回の法案は本来ならば20年前に作るべきだった」とし、「ヘイトスピーチは人間の尊厳を侵害する実害行為であり、犯罪であると捉えるのが世界の常識です」とし、「ヘイトスピーチの規制が、真の表現の自由を守ることにつながると思っています。/さらに言えば、マイノリティー(少数派)の表現の自由こそが重要なのです」とし、「教育も刑事罰も行政指導も必要なのです。人種差別に対して包括的に対処する必要があるのです」と述べている。
尾崎さんは、冒頭で「法的対応が必要なことは明らかです」としているが、次に「しかし、法規制は万能ではないことも理解しておく必要があります」と述べ、さらに「万能でない法規制には、思わぬ副作用が伴うことにも注意する必要があります」とし、「規制すればするほど、加害者の思うつぼになりかねない」とし、最後に「ヘイトスピーチを正面から規制するのではなく、いわば少し横にそらして何とか無効化する方法はないかと研究しています」と述べている。
というわけで、尾崎さんと私とでは、意見は異なるようで同じであり、同じようで異なる。「法規制は万能ではない」、そのとおりである。万能だと主張している人はどこにもいない。「副作用が伴う」、そのとおりである。副作用のない法律はない。「加害者の思うつぼになりかねない」、そのとおりである。それでも被害者の救済と権利保障が不可欠である。法規制よりも、「少し横にそらして何とか無効化する方法はないかと研究しています」、ヘイトスピーチを無効化するというのは重要な研究なので期待したい。で、それはいつごろ成果を上げる研究なのだろう。100年後だろうか、200年後だろうか。

Tuesday, September 08, 2015

しなやかな闘い、懐かしいひたむきさ

しなやかな闘い、懐かしいひたむきさ

崔善愛『十字架のある風景』(いのちとことば社、2015年)
指紋押捺拒否闘争のピアニスト。おそらくいまもなお、このような視線を受けながら、著者は生き続けている。指紋押捺拒否は著者の闘いであり、人格の一部をなしているだろうし、ピアニストとして生きてきた著者であるが、それだけが著者ではない、ことは言うまでもない。人はさまざまな属性を有し、さまざまな歴史を受け継ぎ、経験を積み重ね、さまざまな思いを内面化していく。そうしてつくりあげられた崔善愛という名の精神と身体は、日本という名の差別と抑圧を受け止め、ひたむきに抗しながら、しなやかな闘いを続けている。だが、著者の人生を「闘い」に切り縮めてもいけない。
本書は故郷「小倉」を見つめ直し、心象風景をつづったエッセイ集である。軍都であり工業都市であった小倉には、日本近代の歴史が凝縮している。原爆投下予定地でもあった。朝鮮戦争時は米軍の後方基地でもあった。と同時に、在日朝鮮人の歴史も深く刻み込まれている。父・崔昌華の記憶がいつも 漂っている。足立山のふもとには、朝鮮半島を向いてメモリアルクロスが立っていた。その下に著者は住んでいた。関門海峡、小倉城、工業地帯、入国 管理局、西南女学院、カトリック小倉教会・・・著者の子ども時代。指紋押捺拒否、アメリカ留学、「強制帰国」というべき闘い。いま、ヘイトあふれる日本にふたたび直面しながら、人道に対する罪について考え、うた(君が代)の強制を語り、参政権と帰化について考える。エピローグでは、ポー ランドからフランスにさすらったショパンが取り上げられる。ショパンについては、崔善愛『ショパン――花束の中に隠された大砲』(岩波ジュニア新書)。


Monday, September 07, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(36)

前田朗「ナチス賛美やサイバーレイシズムとの闘い――国連人種差別特別報告書の紹介」『部落解放』714号(2015年9月)

連載「ヘイト・スピーチを受けない権利」の3回目である。国連人権理事会第二九会期に提出されたムツマ・ルテエレ人種差別特別報告者の報告書(A/HRC/29/47. 13 April 2015)の紹介である。特別報告者の正式名称は「人種主義、人種差別、外国人嫌悪および関連する不寛容の現代的諸形態に関する特別報告者」。ルテエレ特別報告者はケニアの法律家で、二〇一一年に任命された。

Sunday, September 06, 2015

大江健三郎を読み直す(50)再生への願いを

大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』(講談社、一九八三年)
『「雨の木」を聴く女たち』に続く連作短篇集で、出版時かなり話題になったように記憶している。長篇主流だった大江が、短編集で大佛次郎賞を受賞している。私は大学院博士後期課程三年目にもかわらず、研究テーマが分裂気味で方向性を見出せずにいた時期だった。博士前期課程に進学した時のテーマは「権力犯罪と人権」だった。現在に至るもライフワークなのだが、その中で具体的に何をやるかとなると、当時は右往左往していたように思う。国家刑罰権そのものを批判的に考察するか、対極としての人格権を主題に据えるか(修士論文では人格権を論じた)、それとも刑法学の方法論を鍛えるべきか、近代刑法原則の歴史的研究に力を注ぐか。いずれも重要なテーマだが、院生が抱えるには大きすぎる。もっと絞り込まないと、論文も書けない。そんな時期に、本書を読んでいた。もっとも、思い起こすと、当時一番熱心に読んでいたのは、ミステリーだった。鮎川哲也、土屋隆夫、泡坂妻男、都築道夫、斎藤栄、森村誠一などを読んだ時期だ。島田荘司『占星術殺人事件』が登場し、島田が新本格宣言をすると、新本格ばかり読むようになったが。

『新しい人よ眼ざめよ』は、ブレイクの詩を引き寄せ、手繰り寄せながら書かれた連作である。「無垢の歌、経験の歌」「怒りの大気に冷たい嬰児が立ち上がって」「落ちる、落ちる、叫びながら・・・」「蚤の幽霊」「魂が星のように降って、骨のところへ」「鎖につながれたる魂をして」というタイトル自体が不思議な魅力をたたえていた。障害を持った子どもイーヨーとの暮らしの中で訪れる平安と危機をつづりながら、核時代の危機の中で「再生」への願いを紡ぎだす姿勢は、大江文学の主題そのものだ。数十年にわたって、繰り返し、繰り返し、まさに執拗に繰り返し問い直し、語り続け、書き直し、紡ぎ直し、ひたすら描いてきた主題だ。読者は特に倦み、疲れることもあるが、この時代から逃れることなく、自分に向き合い続けるために、必要な作業を大江はいまもなお続けている。