Saturday, August 29, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(35)人種差別撤廃法の制定を

師岡康子「私の視点:人種差別撤廃法案 今国会での成立をはかれ」朝日新聞2015年8月29日

国会に提出されている「人種差別撤廃施策推進法案」の基本内容と審議経過を少し説明して、「言論を委縮させるという懸念については、ヘイトスピーチをより厳格に定義したり、何がヘイトスピーチにあたるかを具体的に例示するガイドラインを策定したりと工夫すれば、解決できると考える」とする。外務省によると、OECD加盟国34カ国のうち30か国以上にヘイトスピーチ規制法があるという。著者は、人種差別撤廃委員会も日本政府に立法を勧告していることを受け、「国と社会が差別の被害者を放置してきた歴史を早く終わらせるべきだ」と結論付ける。

戦争をさせない1000人委員会の戦争法批判新書

戦争をさせない1000人委員会編『すぐにわかる戦争法=安保法制ってなに?』(七つ森書館)
1冊で4度おいしい本だ。
7人委員会とか、15人委員会と言うのは聞いたことがあったが、1000人委員会と言うのは初耳だった。「1001人目以下を排除するのか」と冗談を言ったこともあったが、憲法学者、弁護士をはじめさまざまな市民が協力して、戦争法案批判の論陣を張り、集会を開き、声明を出してきた。今回はコンパクトな新書サイズの本を出した。みなで読んで、運動の力にしようと言えるサイズだ。
第1章「戦争法ってなに?」は解説編で、戦争法(飯島滋明)、グレーゾーン、集団的自衛権(清水雅彦)、ガイドライン(前田哲男)、沖縄の問題(高良鉄美)、アフガニスタンの状況(清末愛砂)などを分かりやすく提示する。
第2章「私たちも戦争法に反対します!」では、青井美帆、雨宮処凛、上野千鶴子、小山内美江子、鎌田慧、小室等、佐高信、菅原文太、なかにし礼、山口二郎の発言を収録している。レディーファーストかと思ったら、アイウエオ順だった。菅原文太のラストメッセージ、心して読んだ。
さらに、第3章「憲法と平和を考えよう」では、高橋哲哉、浦田一郎、高良鉄美、落合恵子が平和について論じている。平和をつくると言う観点があればもっと良かった。
第4章「最高裁判決Q&A」では内田雅敏が論じている。最後に内田は、民衆の安全保障を説き、日本の「平和資源」を壊すなと訴えている。



Monday, August 24, 2015

同和教育・解放教育の「発展」「衰退」を追いかける

上原善広『差別と教育と私』(文藝春秋)
これまでも『日本の路地を旅する』などで部落差別問題を取り上げてきた著者だが、解放教育を受けた体験、そして取材に基づいて、1970年頃には盛んだった解放教育・同和教育を振り返る。
著者は大阪府松原市の出身で、崩壊しかけた過程に悩みながら少年時代を過ごしたが、松原三中での解放教育をきかっけに立ち直った。自分の経験を詳しく披露するとともに、当時の解放教育を実践した教師にも取材して、解放教育のいきさつも紹介する。さらに部落解放運動全体の中に位置づけるとともに、特に八鹿高校事件と、広島・世羅高校長自殺事件に絞って、背景、経過、当事者たちの現在の声を伝える。そして、同対法・地対法に次元が切れた2002年以後、解放教育がしぼんでいった経過を追いかけ、どこに限界があったのかを呈示する。
被差別部落出身であることをカムアウトしての部落ルポだが、何かと軋轢を生んでいるようだ。特に橋下徹・大阪市長の件でも、批判を受けている。
解放教育・同和教育の実践報告は多数出ているが、本書のように、解放教育を受けた側の体験記は参考になる。当時の解放教育の限界、そして02年以後、解放教育がしぼんでいったことを、「人権の季節」という表現で説明している点は、あまり説得力がない。
70年当時の「人権の季節」というのは、実は「政治の季節」のなかでの一局面でしかない。人権よりも政治の論理が先行し優越していた時代であり、「人権」の理解には大きな限界があった。後智慧で言うのも何だが、当時の人権観念は残念ながら低水準と言わざるを得ない。著者が云うように「人権の季節」だから、ではなく、「人権が理解されない季節」に「政治の季節」の中で申し訳程度に「人権の季節」と呼称したことに問題がある。
一方、解放教育が法的根拠をもって推進されたことが、同時に権力による政策遂行の一環となったことが、積極的な意義を有するものの、法的根拠が失われたとたんに衰亡していった遠因となっているのは当たっている面もあるのかもしれない。それは部落解放だけでなく、他の多く分野にも共通だ。現行憲法の自由と平等の下、四半世紀かけてようやく70年前後に花開いた自由や平等や民主主義の発展を求める運動が、いまや高齢化し、後継者が十分ではなく、運動を支えた団体もかつての力を失っている。どの分野でも共通の悩みだ。
このため、近年の逆行現象が目につく。安倍政権の歴史認識が典型だし、ヘイト・スピーチ流行という事態を許してしまっているのも同じ性格の問題だろう。人権擁護どころか、「人権屋批判」のように露骨な反動と人権軽視が日本社会を覆っている。著者はそうした事態にはあまり関心を示さないようだ。日本の現実を踏まえつつ、より普遍的な反差別と人権の教育を構築していく必要は明らかなのだから、同和教育・解放教育の実践を基に、その成果と限界を的確に解明しつつ、継承させていくことこそ重要だろう。現在の日本国家と社会では、ひじょうに厳しい課題だが、あきらめるわけにはいかない。

ベルン美術館散歩

ベルン美術館は「光の石」展が開催されていた。ガラス工芸か何かかなと思いながら行ってみると、近代絵画の展示だった。光る石、輝く石、輝石、クリスタル、氷河などを描いた作品だ。第1の視点は「クリスタル――秩序、力、愛、死」。エルンスト・ヘッケル、ユタカ・ソネ、アルフレド・エルハルト。第2の視点は「山脈のクリスタル」。フォン・ヘラー、カスパー・ヴォルフ、カラーメで、アルプス風景画。第3は、「クリスタルの構築物」。ブルーノ・タウト、ハンス・シャロウン、ヴェンツェル・ハブリク。第4は「抽象イメージのデザイン」アドルフ・ヘルツェル、ライオネル・ファイニンガー、パウル・クレー。第5は「現代アートにおけるクリスタル」。ヨーゼフ・ボイス、マリーナ・アブラモヴィック、アウグスト・ジャコメティ、メレト・オッペンハイム。学芸員の工夫が良くわかる展示だった。
もちろん、常設展も見てきた。何度も見ているが、ドガ、ベックリン、ヴォルフ、バロットン、ホドラー、アンカーをはじめ、スイスを中心に西洋絵画。ベックリンが3点あるのは忘れていた。人魚と死をモチーフにした作品は重要。クーノ・アーミエ、シャガール、マルクも。

ポルトコロニアル・アート(2)君はヤスクニズムを知っているか

拡散する精神/委縮する表現(53)
君はヤスクニズムを知っているか
*『マスコミ市民』2015年8月号

この夏、「東アジアのYASUKUNISM(ヤスクニズム)展」が開催される。七月二五日(土)~八月二日(日)、会場は西武新宿線武蔵関駅北口六分の「ブレヒトの芝居小屋・東京演劇アンサンブル(TEL: 〇三-三九二〇-五二三二)」で、展示は洪成潭(ホン・ソンダム)の連作<靖国の迷妄>である。
 東アジアのYASUKUNISM 展実行委員会によると、「<ヤスクニズム>とは、ダグラス・ラミス氏(沖縄国際大学教員)が日本の保守派の軍国時代のロマンを『靖国(ヤスクニ)+イズム=ヤスクニズム』として、ドイツの『ナチズム』と比して皮肉った造語です。つまり、私たちの日常に潜む『国家主義、国家暴力』と言いかえることができる」という。
 戦争症候群の安倍政権のみならず、日本社会がミリタリズムに飢えている現状は、まさに<ヤスクニズム>という魑魅魍魎の跋扈する光景といえよう。侵略と植民地の歴史を否定し、あるいは美化し、次の戦争を目指す意識。アジアに対する敵意と蔑視をむき出しにして、日本の歴史や文化を誇る卑劣な虚妄のナショナリズム。にもかかわらず、ナショナルな日本主義と、アメリカ追随の「属国主義」が奇妙に同居し、「美しい国」「日本をとり戻せ」と呼号しながら国土を破壊する原発再稼働政策を推進する。「3・11」後のフクシマと沖縄にヤスクニズムの矛盾が集中的に表現されている。
 実行委員会は<ヤスクニズム>に潜む美化の作用を、まさにその美によって見つめ直し、表現する展覧会を開催することにした。一〇年をかけ完結した洪成潭の連作<靖国の迷妄>の展示を軸に、トーク、詩の朗読、パフォーマンス、映画上映等を繰り広げ、東アジアの歴史的課題<ヤスクニズム>を浮き彫りにしていくプロジェクトである。
 洪成潭は、一九五五年全羅道生まれの画家である。一九八〇年、軍の武力弾圧によって多数の市民が犠牲となった光州民衆抗争で文化宣伝隊として活動し、その後、韓国民衆美術運動の最先鋭の担い手となる。二〇〇五年から連作<靖国の迷妄>に力を注ぎ、二〇〇七年、東京GALLERY MAKI で初の<靖国の迷妄>個展を開催。二〇一四年、光州ビエンナーレ二〇周年の特別展で《セウォル五月》(洪成潭と視覚媒体研究所の共同制作)が、「直接的な政治批判」という理由で展示を拒否された。二〇一五年四月、ベルリンでの「禁止された絵」展に招聘。著書に『光州「五月連作版画- 夜明け」ひとがひとを呼ぶ』(夜光社、二〇一二年)など。
併設展示されるのが、大浦信行の連作<遠近を抱えて>全一四点、および金城実<沖縄から世界を彫る>光州ビエンナーレ出品抗議作・新バージョン(初公開)である。
 実行委員会は「芸術と運動があわせてその力を花開かせたとき、『靖国史観』を凌駕する『私たちの東アジアの歴史』が始まるのではないでしょうか」と呼びかける。
また、会期中、連日イベントが予定されている(イベント中は作品のみの鑑賞はできない)。例えば八月一日は、映画『“記憶” と生きる』 上映+トーク:土井敏邦(映画監督)・洪成潭(画家)。八月二日は、ダグラス・ラミス(政治学、沖縄国際大学教員)の話。
 さらに、八月五日~三〇日、一部作品の巡回展が「原爆の図・丸木美術館」(埼玉県東松山市下唐子一四〇一、TEL:〇四九三-二二-三二六六)で開催される。八月一一日には、トーク:洪成潭× 岡村幸宣(同館学芸員)も行われる。
 美術界では、いまだに非政治的なポーズの芸術至上主義が支配しながら、他方で横山大観やレオナール・フジタのほとんど無条件賛美による復権が目論まれている。ご都合主義的な政治主義が美術も政治も歪めていることに気づこうとしない。
東アジアの民衆が共有しうる美術観とはどのようなものであるのか。それは歴史や政治を超越したものではありえない。ヤスクニズムを知ることが日本と日本美術を知ることにもつながるはずだ。

大江健三郎を読み直す(49)大江文学における子ども性

大江健三郎『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮社、1985年[新潮文庫、1989年])
本書は文庫になって初めて読んだ。主な部分は新潮社の『波』に連載され、後に単行本になっている。4~5年遅れで読んだので、少しずれがあるのがよくわかった。
一つには、主な部分が大江がカリフォルニア大学バークレーに招かれて滞在していた時期に書かれているので、そこでのエピソード、その時期の読書に規定されている。
また、米ソの核対立が激しい時期であり、欧州だけでなくアメリカでも反核運動が盛り上がった時期であることが反映している。国際ペンクラブ大会が日本で開催された時の大会声明を巡る、大江と江藤淳の対立は、他でも書かれていたが、「懐かしい」話ではある。吉本隆明の反核運動批判も少しだけ登場する。
もっとも、本書の特徴は『小説の方法』をより平易に、短いエッセイの中で解説し直しながら、次の一歩を模索している様子を描いている点が当時の読みどころだったはずだ。ロシア・フォルマリスム、バシュラール、エリアーデ、山口昌男。他方で、ヴォネガット、アーヴィング、マラムッド、チーヴァー、スタイロン、ケルアックなどアメリカ現代作家たち。その点では、『同時代ゲーム』と対をなすはずだった長篇小説『女族長とトリックスター』がなぜ実現しなかったかの楽屋話が一番興味深かった。すっかり忘れていたが、今回読み直してみて、思い出した。デビュー間もなくの時期は別として、長編作家として作家人生を歩んできた大江は長篇小説を準備びしていたが、この時期続いた『「雨の木」を聴く女たち』から『新しい人よ眼ざめよ』に至る中・短篇集に転用したために、当時の方法論の適用と言う点では中・短篇集で目的を達成したために、長編をお蔵入りにした、ということだった。
もう一つ、川本三郎の解説が、大江文学における「子ども」性に着眼し、「ハックルベリ経由大江健三郎行き」と称していることが面白かった。当時読んだはずだが、すっかり忘れていた。確かに初期短編群も少年たちの物語であり、息子・光をモデルとした『個人的な体験』以後の作品群も、子どもを中心に置いた構図が貫かれている。

Sunday, August 23, 2015

冤罪を生む法医学、再審を実現する法医学

押田茂實『法医学者が見た再審無罪の真相』(祥伝社新書)
専門書以外には『医療事故』『法医学現場の真相』を出してきた法医学者の刑事再審への関与の経験を踏まえた著作。日本の刑事裁判が誤判・冤罪だらけになる理由の一つとして、いい加減で非科学的な法医学があり、その誤りを明らかにする科学的な法医学をしっかり確立する必要があることを打ち出している。著者が関与した事件は、再審無罪事件では、袴田事件(正しくは再審開始決定まで)、東電女性会社員殺人事件、足利幼女殺害事件、布川事件、氷見事件。再審請求中の事件では、福井女子中学生殺人事件、飯塚事件(死刑執行され、遺族が起こしている再審)、姫路郵便局強盗事件。他にも各種のわいせつ事件。これらの事件の法医学鑑定上の問題点を適宜示して、問題点を明らかにしている。
再審無罪に関する問題点として、特にDNA型鑑定を取り上げ、日本におけるDNA型鑑定の進歩と問題点を解説する。具体的なDNA鑑定の恐るべき事例として、宮崎県警「資料を被害者に返したとする警察」、神奈川県警「証拠資料を抹消してしまう法医科長」、山口県警「科学捜査研究所員の証言に驚愕」、鹿児島県警「死刑が無罪」などの例を紹介し、法医学の悲惨な実態を厳しく批判している。全体として法医学者や科学捜査研究所員のいい加減な証言を徹底批判しているが、個人攻撃ではなく、法医学に関する認識、体制の在り方、裁判と法医学の関係などの改善を目指している。他方、誤判を量産する裁判官への批判は控えめで、瀬木比呂志『絶望の裁判所』を紹介する程度なのは、法医学者として発言するべきことを踏み越えず、自制しているのであろう。もっとも、きちんと読めば随所で裁判官の異常ぶりが明らかになる本だが。

死刑事件は袴田事件、飯塚事件、鹿児島老夫婦殺人事件(死刑求刑、裁判員裁判で無罪)。

詩の凄味、詩人の凄味を教えてくれる名著

河津聖恵『闇より黒い光のうたを――十五人の詩獣たち』(藤原書店)
心が震える本だ。
詩の力を思い知らされる本だ。
せつなさ、はかなさ、やさしさ、いとしさ、つらさ、そして激しさが、溢れ、立ちあがり、もつれあい、時に真綿のように柔らかく、時に鋼のように厳しく迫ってきて、心を揺さぶられ、締めつけられる。
心が晴れやかになる本だ。
詩の怖さを教えてくれる本でもある。
河津聖恵という「詩獣」とは、朝鮮学校無償化除外問題で少しだけ縁がある。お目にかかったことはないが、メールのやり取りをしたことがあった。彼女が呼びかけてつくった詩集『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』(同刊行会、代表河津聖恵、二〇一〇年)の件でのことだった。私が知った時にはすでに品切れになっていたのだが、関西のある方に連絡したところ、ご本人に連絡がつき1冊譲ってくれた。それを雑誌で紹介したことがある。さらに、その副産物ともいえる詩集、広島朝鮮初中高級部生徒『私たちも同じ高校生です――朝鮮学校への無償化適用を願うアンソロジー』(二〇一〇年)とともに、私の本『ヘイト・スピーチ法研究序説』の註にもあげておいた。法律書に詩集を注記させてもらった。それだけの縁に過ぎないと言えば、過ぎないかもしれないが、私にとっては重要な出来事であった。朝鮮学校差別に抗して詩人たちがアンソロジーを編んでくれたこと自体、驚きだった。その後、河津聖恵は自らの詩集『ハッキョへの坂』を出版した。それ以前に遡って河津の詩集を取り寄せたことは言うまでもない。
本書は詩集ではなく、詩人論集である。東柱、ツェラン、ロルカ、リルケ、石川啄木、立原道造、小林多喜二、宮沢賢治、原民喜、石原吉郎などを取り上げて、彼らの詩獣ぶりをつかみ出す。詩人の特徴や本質や、詩の内容や形式ではなく、彼らはなぜ、いかに詩獣であるのか、詩獣以外の何者にもなりえなかったのかをつかみ出す。詩論ではなく、詩人論だが、詩人論と言っても普通の詩人論ではない。
「すぐれた詩人とは、恐らく詩獣ともいうべき存在だろう。危機を感知し、乗り越えるために根源的な共鳴の次元で他者を求め、新たな共同性の匂いを嗅ぎ分ける獣。言い換えれば詩人とは、そのような獣性を顕現させ、人間の自由の可能性を身を挺し示す者である」という。
あるいは、「詩には、人知れず被った暴力によって傷ついた者たちの呻きがひそむ。私たちが聞き届けようと身を乗り出す時、闇から光へ、あるいは闇からさらに深い闇へと身をよじる獣たちがいる」という。
いずれも素人でも知っている著名な詩人たちだが、河津は詩人たちの新たな相貌を見せてくれる。闇を引き裂いたその先にさらに現れる闇の中で、もがき、あがき、苦しみながら、呻き、あえぎ、叫ぶ詩獣たちを呈示してくれる。読者は本書を手掛かりに再度、彼らの詩集に立ち戻って行けるだろう。
一つだけ気になることを指摘しておかなくてはならない。
河津は宮沢賢治について「さびしさと悲傷を焚いて」として、原罪意識の闇から詩の光へ、「私」を解放する旅へ、と描き出す。「十八歳の時法華経に出会い感動」した事実を踏まえ、二六歳の時、「上京後すぐ日蓮宗派の国柱会を訪ねる」と書いている。そして、三七歳の時、法華経を友人知人に配布するようにという「遺言を残し、銀河へ旅立った」と書く。すべてその通りだ。だが、河津は国柱会が何であったのかを書かない。法華経一般であるかのごとく書く。国柱会の指導者・田中智学があの「八紘一宇」の発案者であったことを書かない。国柱会の機関誌が、朝鮮人差別と迫害を続けていたことを書かない。賢治が、実家の宗教を捨てて国柱会に走り、田中智学に忠誠を誓い、死後には骨まで捧げたことを書かない。
大逆事件を前に「強権」と格闘して亡くなった啄木、「強権」そのものに虐殺された多喜二、強権に翻弄されて自ら命を絶ったツェランと、八紘一宇の国柱会・田中智学に忠誠を誓った賢治を同列に並べることで、河津は何をしているのだろうか。権力に殺された東柱と、断固として殺す側に立った賢治を同列に並べることで、河津は何をしているのだろうか。

賢治が法華経に出会って感動したと書くのではなく、朝鮮人差別の国柱会に入り、八紘一宇の智学に忠誠を誓った賢治だが、それでも詩獣として啄木や多喜二や東柱と同列であるべきだと、なぜ書かないのか。小さな隠蔽は本書の「闇」にもう一つ別の闇を付け加えていないだろうか。

憲法制定過程論の充実・発展

古関彰一『平和憲法の深層』(ちくま新書)
日本国憲法制定過程の研究はそれ自体長い歴史があり、資料が公開されるたびに新たな発見があり、徐々に深められてきた。憲法研究者として、その先頭を走ってきたのが著者である。以前は日本民主法律家協会の会合でお目にかかったりしたが、このところあっていないと思ったら、著者は既に名誉教授になっている。月日のたつのは速いものだ。
本書の特徴をごくごく簡潔に一言で言うと、平和主義と戦争の放棄をいちおう区別して、平和主義が日本国憲法に取り入れられた過程と、戦争の放棄が取り入れられた過程のそれぞれをていねいに検討し、両者がいつ、どのようにして、誰によってとなえられ、日本国憲法の中で合体したのかを解明している。
なるほど、従来は、平和主義と戦争の放棄を一つのものとして把握して、それが日本国憲法にどのように登場したのかと考えてきた。しかし、著者が云うように、両者の来歴は異なる。それぞれの軌跡をきちんとトレースしないと日本国憲法制定過程論として不十分である。
9条については、周知の幣原説、マッカーサー説などをていねいに検討し、芦田修正も確認している。ここで重要なのは、9条だけに視線を送るのではなく、東京裁判との関係で天皇の地位の帰趨と照らし合わせることである。もう一つ重要なのは沖縄の基地である。日本本土は9条により非武装になったが、同時に沖縄は日本から「分離」され、基地の島にされていく。沖縄の基地化がなければ、本土の9条は不可能だったのではないか。つまり、最初から沖縄を犠牲にしての9条だった。
平和主義、平和国家については、森戸辰男、宮沢俊義らの議論を踏まえつつ、実は昭和天皇の勅語において使われていたことを強調している。平和国家の含意は異なるだろうが、言葉としては勅語、その大々的新聞報道によって、当時の社会意識の中に平和国家がしっかり存在していた。
本書のもう一つの柱は憲法研究会と鈴木安蔵だ。私は学生時代にたまたま『憲法制定前後』『憲法学三十年』を読んだし、鈴木安蔵門下の金子勝さん(立正大学教授)に何かとご指導いただいたので知っていたが、かつてはあまり知られることがなく、憲法学者の中でさえ十分知られていなかったのが、最近は映画で有名になった。
憲法制定過程論の研究が深まり、論点も増えてきたためか、新書1冊に収めるのも大変なようだ。本書は充実した1冊である。
細かな点では疑問も残る。
比較憲法的な方法論がないため、議論が単純化しすぎて説得力に欠けるように思われる。一例だけ挙げると、「第1章 平和憲法を見直す(三つの憲法の外見、三つの憲法と人権規定、内側から見た三つの憲法)」は、A大日本帝国憲法、B日本国憲法、Cアメリカ合州国憲法の3つを並べて比較する。そうすると、憲法の構成や用語がAとBが共通で、Cはまったく異なることがすぐにわかる。GHQはアメリカ憲法のスタイルを押し付けるのではなく、日本流の思考を一定程度尊重したといえる。だが、なぜABCの3つなのか。他方、著者は表現の自由(憲法21条)について、A大日本帝国憲法、B日本国憲法、Cアメリカ合州国憲法の3つを並べて比較する。
A「日本臣民は法律の範囲内に於いて言論著作印行集会及結社の自由を有す。」
B「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(21条1項)
C「連邦議会は、・・・・言論または出版の自由、平和的に集会し、苦情の救済を求めて政府に請願する人民の権利を制限する法律を制定してはならない。」(修正第1条)
誰が見ても、AとBの形式が類似し、Cはまったく異なる。ところが、著者は、Aには「法律の範囲内に於いて」とあるが、BとCにはそれがないことを強調する。そして憲法研究会案を間に挟むことで、BからAを志向した日本政府と、Cの観点をBの中に織り込んだGHQの交渉の結果としてBが成立したと見る。
疑問点をはっきりさせるためには、次の例を対比すればすぐにわかる。
Dフランス人権宣言第11条「思想および意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる。」
E国際自由権規約第19条第2項「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。」
D1789年のフランス人権宣言、B1946年の日本国憲法、E1966年の国際自由権規約――これらの共通点は、表現の自由を個人の権利としての性格を明示して保障していることである。Cアメリカ合州国憲法は、連邦議会の権限の制約を明示する法形式であり、まったく異なる。
フランス人権宣言と日本国憲法の類似性などを主張しようと言うのではない。ここで一番重要なことは、日本国憲法制定過程論における比較法研究の不在である。なぜ、アメリカ合州国憲法だけを比較対象とするのか、理由がない。GHQの中心スタッフはすべてアメリカ人、アメリカの法律家だったからアメリカ憲法に学んだのは当たり前と言うのは、およそ理由にならない。憲法前文も、第一章天皇も、第二章戦争放棄も、議院内閣制も、ことごとくアメリカ憲法とは違うのだ。共通点は例外にすぎない。

文献資料とは別に、映像記録では、GHQ案作成にかかわったベアテ・シロタ・ゴードンが、憲法草案作成の資料を探すために焼け跡の東京で図書館をまわって世界各国の憲法を集めたと話している。その中身は不明であるが、当時の日本の図書館(日比谷や大学図書館)に会った世界各国の憲法の情報を確認するべきだろう。

Saturday, August 22, 2015

ポストコロニアル・アート/ローザンヌ美術館散歩

ローザンヌ美術館はカダー・アティアKADER ATTIA展「傷者がここに」をやっていた。どこかで聞いた名前だと思いながら、中に入る。9つの部屋ごとに展示があったが、3番目の部屋の「恐怖の文化、悪魔の発明」を見ていて、思い出した。「恐怖の文化、悪魔の発明」は聞いたこともないし初めて見たが、この作風と名前を重ね合わせて、「DEMO(N)CRACY」のアティアだと思いだした。DEMOCRACYならぬDEMONCRACYというタイトルのこの作品を見たことはないが、話に聞いたことがある。そのアティアの主要作品をスイスで初めて一挙展示だ。もっとも、残念ながらDEMONCRACYは含まれていなかった。
「恐怖の文化、悪魔の発明」(2013年)は、一部屋に大きな書架が10台ほど並べてあり、多数のポスターと書籍が置いてある。書架に貼り付けられたポスターのほとんどが19世紀以後に西欧における新聞・雑誌の挿絵記事で、イスラム教徒を野蛮、暴力的、非理性的に描き出している。西欧の白人が理性的で知的で合理的な行動をしているのに、野蛮なイスラム教徒は…という構図が満載である。書架の棚には、ここ10数年の西欧における著書が並べられている。ビン・ラディンやイスラム国を批判した著書である。100年の歳月をまたいで、同じことが行われている。極端なオリエンタリズムの果てに、野蛮なイスラムを「恐怖と暴力」――悪魔として描き出す文化である。
「略奪DISPOSSESSION」(2013年)は、西欧世界が非西欧世界から略奪した文化財を取り上げ、特にキリスト教が果たした役割に焦点を当てる。バチカンが保有する8000点以上の文化財は植民地時代に宣教師たちが収集したものだという。バチカンで撮影した40点ほどの略奪文化財の写真と、歴史家や宣教師へのインタヴューの映像を並べて見せる。
「石油と砂糖」(2007年)はビデオ映像とインスタレーションから成る。映像は単純だ。真っ白な角砂糖がたくさん積み上げられている。その上から石油がそそがれ、砂糖が徐々に黒くなっていく。やがて、濡れて崩れ始める。どんどん崩れて、溶けていく。白と黒が醜く崩れ、溶け合い、無惨な様子になっていく。観客が立つ位置と、映像の間に、映像とは逆の関係で、粉の砂糖が床にまかれ、いくつも正方形に切り取られている。それだけの映像インスタレーションだ。壁の所に少し補足があって、「真っ白な角砂糖はモスクのイメージ」とあった。つまり中東のモスク、イスラムに対する、石油目当ての侵略が続いてきたことを示している。
その他、いくつもの展示があったが、消化しきれなかった。

アティアは1970年、パリ近郊の生まれだが、フランスからアルジェリアに渡り居住した時期があり、成人になってからはベネズエラとコンゴに暮らしたことがある。そうした経験から、西欧的思考と非西欧的文化の間の関係を解読する作品が多い。侵略は、侵略する側にもされる側にも傷を残す、というコンセプトの作品が第2の部屋だった。他の作品でも、無惨に崩れた顔が侵略者を表現している。歴史、傷、修復と和解を必要とする関係。2003年のヴェネチア・ビエンナーレで大きな話題になったようだ。2005年リヨン・ビエンナーレ、2012年カッセルのドクメンタ。これまでボストン、ベイルート、ベルリン、パリ、ニューヨーク、ロンドンなどで個展が開かれている。スイスでは今回が初めて。

ヘイト・クライム禁止法(101)マケドニア

政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/MKD/8-10. 22 November 2013)によると、憲法第九条は性別、人種、皮膚の色、国民的又は社会的出身、政治信念、宗教的信念、財産及び社会的地位にかかわらず、権利と自由において平等とされている。二〇一〇年四月、差別予防・保護法を制定し、二〇一一年一月に発効した。同法第三条は、性別、人種、皮膚の色、ジェンダー、周縁的集団への所属、民族的出身、言語、国籍、社会的出身、宗教、その他の形態の信念、教育、政治的見解、社会的地位、心身の障害、年齢、家族的状態、財産状態、健康状態その他の理由に基づく、直接差別、間接差別、差別の煽動・助長、差別的取り扱いの援助を禁止する。差別の煽動・助長には、ハラスメント、被害者化、隔離が含まれる。
刑法には次の犯罪が規定されている。市民の平等侵害(第一三七条)、安全の危殆化(第一四四条)、国民的人種的宗教的憎悪、不和、不寛容の惹起(第三一九条)、コンピュータ・システムを通じた人種的排外主義的文書の流布(第三九四条d)、人種的その他の差別。結社・財団法は結社の自由を保障しているが、同法第四条は、憲法秩序の暴力的破壊、国民的人種的宗教的憎悪を燃え上がらせること、テロ行為を目的とする結社を禁止している。同法第六五条は、国民的人種的宗教的憎悪を燃え上がらせることを目的とする活動を行う組織を禁止している。二〇〇九年の刑法修正法は第三九条五項は、犯罪に人種差別が伴った場合を刑罰加重事由としている。
二〇一一年、差別保護委員会は六三件の申立てを受理し、うち一六件は手続きが進んでいないが、差別を認定したのが四件、和解が二件、手続き中が五件、差別でないと判断したのが二〇件であった。二〇一二年、委員会は七四件の申立てを受理し、一四件は手続きに乗らず、二六件は差別でないと判断した。
憲法裁判所は、二〇〇八年、六件を受理し、五件を差別からの保護案件と認定した。うち一件は終局判断として差別でないとした。二〇〇九年、一四件受理し、九件が差別からの保護事案だったが、最終的には却下された。二〇一〇年、六件のうち三件が差別からの保護事案だったが、却下された。
オンブズマン事務所は、二〇〇七年~二〇一二年に、新規受理が一三一件、前年からの引き継ぎ事案が五四件、合計一八五件を扱い、差別被害を認定して勧告を出したのが三五件、法的措置を講じたのが一二件、措置を取らなかったのが四件であった。


戦争法案と闘う渾身の理論書

拡散する精神/委縮する表現(52):『マスコミ市民』2015年7月号

 集団的自衛権を柱とする戦争法案と闘う渾身の理論書が出た。水島朝穂『ライブ講義徹底分析 集団的自衛権』(岩波書店)である。
集団的自衛権の解説書や批判的検討の書は既に数冊出ているが、一人の著者が徹底分析を加えた著書としては質量ともに本書が群を抜いている。
 安倍政権がなりふり構わず成立を急ぐ戦争法案(「安全保障関連法制」)をめぐる国会審議は、言葉を破壊し、常識を捻じ曲げることの繰り返しである。戦争を平和と呼び、戦闘地域を非戦闘地域と呼び、違憲を合憲と呼ぶのは自民党政権の十八番だ。
それどころか、安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を唱えながら、ポツダム宣言をつまびらかにしないと平気で述べる。安倍政権の政策は対米追随の「戦後レジーム」そのものである。戦争法案を国会に提出する以前に、米議会で夏までの成立を約束すると発言したことに象徴的に表れているように、安倍政権の政策は日本のためではなく、対米追随のために策定されている。
憲法調査会に招かれた憲法学者たちが、自民党推薦学者も含めて、戦争法案を違憲と断じた。戦争法案を違憲とする共同声明には二〇〇名を超える憲法学者が賛同している。水島は共同声明の呼びかけ人でもある。かつての自民党の大物政治家たちも今国会での成立を断念して、検討し直すようにと記者会見を行った。
しかし、安倍首相は国会審議においてさえ、幼稚なヤジを飛ばすありさまである。自公政権が数の力で押し切ることを予定し、理念なき維新の党がふらついてすり寄って来ることも見込んでいるからである。一部の翼賛マスコミだけでなく多くのマスコミが及び腰の批判に終始していることも、安倍政権を強気にさせている。
水島は自衛隊違憲論者であるが、本書では自衛隊違憲論を展開するのではなく、「現状をまず『専守防衛』ラインに引き戻そうという見地」に立つ。昨年七月一日の閣議決定で政府の憲法解釈を恣意的に変更し、安保法制の整備、自衛隊海外派遣恒久法の制定を目指す安倍政権は、軍事を突出させ、対米追随一辺倒の政策を猛烈に推進している。
水島は「いま、これ以上『病』を進行させないために最低限、1954年の政府解釈のライン(「専守防衛」)にまで引き戻すことは、立憲主義と平和主義の崩壊を阻止するという観点から重要な意味をもっています。このラインで一致できる政党ないし政治家や個人が、『護憲』『改憲』を超えて、集団的自衛権の行使は認められない、さらには、憲法9条2項削除に『賛成はできない』というところで何らかのかたちで共同歩調をとることが真剣に求められています」と言う。従来の政府解釈が「屁理屈」であったとすれば、安倍政権の閣議決定は「無理屈」であるからだ。
本書は六つの講義にまとめられている。第一は「憲法と平和を考える『モノ』語り」であり、「集団的自衛権行使による死傷者、その家族の痛みを想像したことがありますか?」と問う。第二は「集団的自衛権行使が憲法上認められない理由」。第三は「集団的自衛権の事例を徹底分析」で、いかなる「結果」がもたらされるかを解明する。第四に集団的自衛権以外の「武力の行使」についても論じている。PKO派遣や駆けつけ警護などの問題である。第五にいわゆる「グレーゾーン」の諸問題を究明している。最後に憲法政策としての「武力なき平和」において、平和の「守り方」と「創り方」を説いている。

  本書はすでに国会審議やメディアの報道においても活用されているようだが、まだまだ十分とは言えない。平和運動に加わる市民も本書に学んで、安倍政権の大いなる嘘と闘う理論を身につけることが必要である。平和憲法学を「驚きと発見の憲法学」として構築してきた水島のライブ講義は「戦争とたたかう」市民の必読書である。

ファシズムを冥府から呼び戻す意欲作

千坂恭一『思想としてのファシズム――「大東亜戦争」と1968』(彩流社)
<目次>
     I
中野正剛と東方会──日本ファシズムの源流とファシスト民主主義
内田良平と黒龍会──アジア主義の戦争と革命
世界革命としての八紘一宇──保守と右翼の相克
     II
1968年の戦争と可能性──新左翼、アナキズム、ファシズム

連合赤軍の倫理とその時代──「軍」と「戦争」の主張
蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜──戦後思想と保守革命
     III
ロングインタビュー──21世紀の革命戦争──ファシズム・ホロコースト
     *
「未だ『ファシズム』は牢獄に幽閉されたままである」と著者は言う。巧みなレトリックかと思うと、そうではなく、著者の歴史認識、思想の基本的構えから言って、「ファシズムの可能性」を正面切って問いかえすことなしに、現代を生き延びることはできないと見ている。
1930年代ファシズムを、戦後的視点から決めつけるのではなく、当時の位相に即してみるならば、資本主義批判、帝国主義批判の文脈が浮かび上がる。反帝反スタは、1960年代に登場した新左翼思想と言う前に、1930年代ファシズムの基本的立場だった。それが悲惨な歴史を生み出し、戦争に敗れたことによって「牢獄に幽閉」されることになった。このためファシズムに対する本格的な内在的批判はなされていない、という。
そこで著者は、1930年代ファシズムの断面を中野正剛、内田良平、蓮田善明に見て、その限界と可能性を再考する。さらに、1968年に焦点を当て、全共闘時代・新左翼の意義と限界、連合赤軍とは何だったのか、そしてこれに対する三島由紀夫の位置を探る。
著者紹介は次のようになっている。
 
1950 年生まれ。高校在学中からアナキズム運動に参加し、「アナキスト高校生連合」や「大阪浪共闘」で活動。70 年代初頭、新左翼論壇において最年少のイデオローグとして注目され、『歴史からの黙示』(田畑書店)を著すも、次第に隠遁生活へ移行。長期にわたる沈黙を経て、08 年頃から再び雑誌などに精力的に論文を発表しはじめ、「アナキスト的ファシスト」とも評される異端の過激論客として劇的な復活を果たした。
 
バクーニン的アナキズムに発したが、やがてアナキズムの限界を悟り、思想の翼を広げたが、一時は隠遁し、近年「復活」し、本書に至る。経歴に見合って、1968年の記述は、東京中心、年長世代の全共闘論を批判し、大阪の、若年世代の問題意識に即した運動論と世界認識を紹介し、現在の問題につなげようとするところはおもしろい。
団塊世代が1946~49年を中心とすると、著者はその最後の時期に当たり、当時は高校生・浪人生として運動に参加していた。運動の中で自己形成をした年代と言う。そのことが持つ意味にこだわっている。東京中心、年長世代が残した全共闘イメージを覆す試みでもある。当時、中学生で、全共闘運動に批判的だった私から見れば、その違いは些末でどうでもいいことだが、著者にとっては、そこにこだわり続ける必要があるのだろう。
アナキズムに始まり、資本主義、帝国主義を批判し、乗り越える思想を模索してきた著者は、大東亜戦争と1968年という2つの歴史的転換に着目し、そこから次の思想を展望する。その際に、ファシズム論は避けて通ることはできない。
私は著者とは立場も考えも異なるが、著者の問題提起はユニークであると同時に、必然でもあると思う。いかなる立場であれ、ファシズム論抜きに現代を語ることはできない。
木村朗・前田朗編『21世紀のグローバル・ファシズム』(耕文社)

パウル・クレー・センター散歩

爽やかな青空の日が続いている。スイス連邦議会前広場では、噴水で子どもたちがおおはしゃぎ。時計塔の前ではいつにもまして多い観光客。のんびりのどかなベルン郊外に静かにたたずむパウル・クレー・センター、この夏は「クレーとカンディンスキー」展だ。
ロシア出身のカンディンスキーのほうが13歳年長だが、国籍も年齢も関係なく、「青騎士」時代からの盟友だ。日本の美術評論文献では、クレーは「青騎士」ではなかったなどと書いているものもあるが、当時の「青騎士」文献にはクレーの名前があるし、出品している。何より、ここからカンディンスキーとの生涯の交流が始まった。バウハウスでは数年間、同僚教師だったばかりか、デッサウに移転した時期には、グロピウス設計の教員住居で数年間隣人だった。クレーのアトリエで一緒に写した写真なども残っている。展示では、時代順に、両者の作品を並べているのでわかりやすい。1910年代、カンディンスキーは既に次々と大作を仕上げているが、クレーは小さなスケッチが多い。クレーは生涯、あまり大きな作品を残していないので、当たり前だが。バウハウス時代の相互影響関係は、作品を並べると一目で分かる。1933年、ナチスが政権を取ると、クレーはデュッセルドルフ・アカデミー教授の地位を追われてスイスに逃げ帰った。カンディンスキーはパリに逃げた。苦難の時代の作風も少し似ている。ナチスに追われ、さらに病気に苦しんだ時期のクレーの作品からは、チュニジア旅行以来の鮮やかな色彩が消えうせ、失望、悲嘆が画面を覆い、幽霊、秘密審問が取り上げられる。カンディンスキーの奔放な画面構成はバランスを失い、茶色に染まっていく。カタログも充実しているので購入してきた。後日ゆっくり読もう。

気分のいい日はARABESQUE, Chateau Constellation, Valais-Sion, 2012.

Wednesday, August 19, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(34)南欧における反差別教育・文化政策

前田朗「差別と闘う教育(三)南欧における反差別教育・文化政策」『解放新聞東京版』865号(2015年8月)
北欧、西欧に続いて、南欧諸国が人種差別撤廃条約第7条の「差別との闘い」をいかに実践しているかの紹介である。ポルトガル、スペイン、マルタ、イタリア、ギリシア。紹介したのは2010年頃までの情報だが、最近、いずれも外国から、特に北アフリカ地域からの移住者、経済不況などによって排外主義がいっそう高まっているため、苦しい状況にある。特にギリシアは排外主義政党とその支持者による暴力事件が社会を引き裂いている。北欧、西欧、南欧ともに共通なのは、一貫して差別と闘う教育や文化政策を模索していること、しかし実際には難しい問題を抱えていて差別が噴き出すことがあること、である。
日本の議論との関係で重要なのは「教育」の内実である。日本では「ヘイト・スピーチの処罰ではなく、教育を」などという非常識で無責任な言葉が飛び交う。
第1に、現に起きているヘイト・スピーチを教育で解決することなどできない。目の前の現実を無視した教育重視論は暴論にすぎない。
第2に、教育で、いつまでに、どのような効果を上げるのかを明示するべきだが、そうした論者はいない。果たして教育でヘイト・スピーチを解決できるのか。ならば、なぜ人種差別撤廃条約4条がつくられたのか。
奥平康弘は、1980年代からヘイト・スピーチ処罰反対論者だが、2010年代になっても、「処罰ではなく、ヘイト・スピーチを許さない文化力の形成を」などと間抜けなことを言っていた。日本国憲法の下で70年もかけて「文化力」を形成できなかったことをどう見るのか。差別とヘイトを放置してきた自分の責任をどう考えるのか。どのような方法で、いつまでに文化力を形成するのか。肝心なことは一切述べない。あまりに無責任だ。

第3に、「教育」というが、誰に対する、どのような教育なのかを誰も語らない。教育について真面目に考えたことがないから、「ヘイト・スピーチの処罰ではなく、教育を」などと無責任なことを言えるのだ。
欧州諸国の実践は、(1)義務教育(初等中等教育)、高等教育、社会人教育、専門家教育(警察官教育、検察官教育、裁判官教育)、軍隊教育、(2)教科書改革、研修プログラム開発(特に教員向け研修)、(3)メディア対策、(4)情報戦略など、多様な内容を持っている。このことを見ずに議論するべきではない。

ヘイト・クライム禁止法(100)チェコ

ブログ上の連載100回目である。
論文で紹介した例も多数あり、『ヘイトスピーチ法研究序説』でも110カ国ほどの状況を紹介しているので、実際にはすでに120国を越える事例を紹介してきた。
「100か国紹介する」と宣言したのは2010年のことだった。2009年12月の京都朝鮮学校襲撃事件の後、某新聞社の記者から電話取材を受け、「世界の多くの国ではヘイト・スピーチを処罰している。処罰するのが当たり前」と話した。ところが、この記者はその後、憲法学者に電話をして「表現の自由があるからヘイト・スピーチの処罰はできない。民主主義国家ではヘイト・スピーチを規制する法律はありえない」と聞いて、そちらを信用し、私の話を嘘だと決めつけた。とんでもない嘘だ。2010年頃のメディアは、こうした過ちを犯していた。多くの憲法学者が嘘を振りまいたからだ。頭に来て「100カ国調べて紹介する。ヘイト・スピーチを処罰する法律は100か国以上にあるはずだ」と宣言した。当時、具体的に知っていたのはドイツ、フランス、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、オーストリア、スイスなど10数か国だったが、100か国以上あると確信していた。
既に120は紹介したので、多分150か国以上にヘイト・スピーチがあると推測している。今後も紹介を続ける。とにかく日本の憲法学者は無責任な嘘が多すぎる。表現の自由の理解も基本ができていない。異常だ。「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰する」という当たり前のことをなぜ理解できないのだろうか。
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チェコ政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/CZE/10-11. 31 March 2014)によると、二〇〇九年に反差別法が制定され、差別行為は軽罪として五〇〇〇~二〇〇〇〇CZKの罰金とされた。二〇〇九年、新刑法が制定され(二〇一〇年発効)、条約第四条の規定に従っている。二〇一三年、犯罪被害者法が制定された。刑法は、集団や個人に対する暴力犯罪(三五二条)、危険な脅迫(三五三条)、ストーキング(三五四条)、国民、人種、民族その他の集団の中傷(三五五条)、人の集団に対する憎悪の煽動又は人の権利と自由の制限の煽動(三五六条)を犯罪とした。最も深刻な犯罪は人道に対する罪、人道に対する攻撃、アパルトヘイト、迫害(四一三条)、人の権利と自由を抑圧する目的の運動(四〇三条)などである。殺人、重大傷害、拷問などの犯罪に人種的動機があれば刑罰加重事由となる。刑法は、被害者が当該集団構成員であったことを必要としていない。犯行者が、被害者がその構成員であると考えたことで足りる。犯行者の主観的推測によって動機づけられた攻撃を処罰する。

個別事案の犯罪捜査に加えて、政府は「過激主義と闘う戦略」を採用し、年次報告書を作成している。過激主義の抑制、予防、特に若者への影響に焦点を当てている。二〇一二~一五年の戦略は、人種、国籍、宗教を動機とする犯罪の根絶を掲げている。人種主義の予防、メインストリーム社会と民族的マイノリティの共存に力を入れている。二〇一二年、「サイバー犯罪報告」のための警察ホットラインが始まった。ウェブサイトから誰でも報告できる。二〇一二年八月~一二月、申立は一六〇九件、そのうち犯罪と認定されたのは二四二件であった。過激主義の事例が三九件あり、二七件で人の集団に対する憎悪の煽動又は人の権利と自由の制限の煽動が見られた。事案は捜査中である。人種的動機による犯罪は個人だけでなく法人による場合も規制する。政党などの団体は登録されるが、平等を抑圧したり、市民の権利と自由を脅威に曝したり、他人の人格権を否定する目的を持った場合、登録が拒否される。違法な活動を行えば団体解散もありうる。二〇一〇年二月一七日の最高行政裁判所判決は、労働者党を解散させる判断をした。最高行政裁判所は、違法性の状況、違法活動の責任の状態、具体的危険、政党の結社の自由への介入の均衡性の四つを考慮した。すべての条件を満たせば団体解散となる。

シオン美術館散歩

シオンは雨だった。丘の上のヴァレール教会、歴史博物館、トルビヨン城址、魔女の塔。びしょぬれになって。ヴァレーのお祭りの期間で、市役所近くの目抜き通りのパブでは、ギター・デュオが楽しいうたを歌っていた。美術館は3度目だろうか。第一の塔の常設展はヴァレー地域の絵画が。カスパー・ヴォルフ、フランソワ・ディデーのようにスイスでよく知られた画家がヴァレーを描いた作品、そしてエルネスト・ビーラー、エドアルド・ヴィレ、グスタヴ・セルッティなど地元ヴァレー出身の画家たち。古典派から印象派を経て現代絵画まで。第二の塔はモダン・アートで、やはり地元の画家や彫刻家たちの作品群。2年ほど前とはかなり違った作品が展示されていた。ダンボールを切り抜いて褶曲を作り出した作品が抜きんでていた。

地元の女性画家マルゲリーテ・ブルネ-プロヴァンス(1872~1952年)のカタログを購入してきた(フランス語だが)。アンジェリカ・カウフマン、アリス・ベイリーなど、スイス(地域出身)の女性美術家の資料も少しずつ集めている。

ヘイト・スピーチ研究文献(33)『ヘイト・スピーチ法研究序説』書評

垣花豊順「書評 前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』憲法の根本規範を啓蒙」琉球新報8月16日

Tuesday, August 18, 2015

増田都子は闘いを選んだ!

増田都子『昭和天皇は戦争を選んだ!』(社会批評社、2015年)
押し売り商法で無理やり買わされた(笑)。でも、その後で著者は私の本を買ってくれた。ぶつぶつ言いながら、物々交換だ。何しろ物議を醸す本だ。物故した天皇をぶつ切りにして、酢の物にしてしまう本だ。ぶつくさ言っているが、酢の物は「すのぶつ」とは読まない(どうでもいいが)。物騒だなあ。今日は仏滅じゃないだろうな。この本は物理的には270頁で、物量作戦ではない。資料豊富だが仏器種ではない。仏器種って意味不明なのは、ブッキッシュと打ち込んだ際の誤変換。ブツは2200円+消費税だ。裏表紙には「定価[本体]2200円+税」と表記されている。奇妙な表記だ。2200円のなかにも税金が含まれているのに(どうでもいいが)。この本は仏壇に供えるのには適さない。仏式にのっとってないし、お釈迦様とぶつかってしまう。ぶっきらぼうに見える著者だが、物欲もなく、物理の教師ではなく、生徒をぶつわけでもなく、不適格ぶっとび教師との評判にはプチ疑問がある。ちょっと異物で異質だっただけだ。遺物じゃないけど、汚物のシンタローには目の上のたんこぶだったかも。それにしても270頁、ぶっ通しでヒロヒト君の悪口を続ける精神のタフさには感銘する。Make Hirohito lick his boots(ブーツ)。念仏、ぶつぶつ。
   *
「本日拝謁の際、御話、増田の問題に触れたるが、我が国は歴史にあるジャンヌ・ダルクや柳寛順のような行動、極端に云えばオランプ・ド・グージュの様なことはしたくないね神代からの御方針である八紘一宇の真精神を忘れない様にしたいものだねとのお言葉あり。自分としては免職女性教師の立場の弱さに乗じ要求を為すが如きいわゆる火事場泥棒式のことは大いに好むのであるが、『騒擾の塵』を為すが如き結果になるのも面白くないので、あの本は認めておいたが、増刷については慎重を期する。」
   *
<『冥界通信』2015年8月15日号に掲載された特別インタヴュー記事からの引用>
――これはこれは、増田先生。こんなところまでよくぞいらっしゃいました。(感慨深げに)生者がここまでやってきたのは、何千年ぶりのことだろう。
増田――いくら探しても見つからないので、とうとう地獄の一番奥底まで来てしまったわ。
――増田先生が生きたまま三途の川を渡って以来、地獄は大騒ぎですよ。早く捕まえて、地上に強制送還すべしと。
増田――私だって地獄に来たくなんかなかったのよ。でも、奴に直接インタヴューして本当のことを言わせないといけないから(と言いながら、周囲を見渡す)。
――焦熱地獄では、次々と亡者を捕まえて自白を迫ったので、ヒデキ君とかノブスケ君とか、みんな悲鳴を上げてましたね。
増田――(肩をすぼめながら)小物ばかりで、どうしようもない連中。
――極寒地獄では、氷河までひっくりかえしてしらみつぶしにして、イワネ君やセイシロウ君の奥歯をガタガタいわせてましたね。
増田――だって、みんな、奴の居場所を吐かないんだもの。
――アベ地獄、じゃなかった、阿鼻地獄ではアドルフ君やベニート君が「いや~~あの先生にはまいった。死ぬかと思った」と笑い泣き。
増田――亡者がいまさら死ぬわけないじゃない。
――「死んだ方がましだ」と叫びながら逃げるのを増田先生が追いかけるものだから、閻魔さまも困って苦笑いしていました。
増田――(不思議そうに)叫喚地獄にはジョージ親子がいるかと思ったら、いなかった。
――親子大統領はそろって存命中ですよ。
増田――極悪大統領だから、片足はこちらかと思ったけど、まだなのね。
――とにかく、そろそろ地上にお帰りいただけませんか。
増田――そうはいかないわ。奴の首根っこ捕まえてインタヴューするのよ。
――ここにはいないとあきらめてください。
増田――そんなはずないわ。人類史上最低最悪の極悪人がここにいるのは間違いないのよ。
――全部調べたじゃないですか。
増田――まだよ。もう一カ所調べなくちゃ。
――(驚愕して)えっ、ということは、もしかして・・・
増田――その、もしかして、よ。あなたの後ろの扉を開けて頂戴。
――駄目です。ここだけは。地獄の奥の奥、底の底で、名前もない、「地獄の地獄」です。生者の入れるところではありません。
増田――焦熱地獄だって叫喚地獄だって、生者の入れるところじゃないでしょ。
――ですから、早くお帰り・・・
増田――私の本に文句をつけるチンピラ・ウヨクたちを黙らせるには、本人に喋らせるのが一番なのよ。文献資料は調べ尽くしたんだから、あとは本人に吐かせるだけ。地上に引きずり出して、生き返らせてやる。
――あっ、やめてください。あっ、だ、だ、駄目・・・(と言いながら、身体を半身にしてよける)。・・・あ~あ、本当に行っちゃった。        
*  *
という訳で、地獄編にふさわしく、赤い悪魔のラベルの、NOIR DIVIN, Domaine du Paradis, Satigny GE, 2013.