Thursday, August 06, 2015

刑事訴訟法理論の探求(2)強制処分と任意捜査

斎藤司「強制処分概念と任意捜査の限界に関する再検討」川﨑英明・白取祐司『刑事訴訟法理論の探求』(日本評論社)
捜査における強制処分概念について判例や通説を踏まえつつ、志布志事件や足利事件を考えるならば、判例や通説と言っても問題解決には至っていないことを確認し、強制処分法定主義の意味を再検討する。通説と、新しい強制処分説を対比しつつ、強制処分法定主義が民主主義との関係でどのように理解されるべきかを問い、それゆえ議会の「自己決定義務」、議会による「意識的・自覚的な決断」という強制処分法定主義を再考する。
そして、そこから任意捜査の限界を論じる。任意同行や宿泊を伴う取調べの問題を取り上げ、最二小決昭59・2・29の2段階判断枠組みに対する学説からの批判、学説相互の関係を問い返し、議論のポイントが、被疑者の側の「同意」の有無や内容や程度、意思決定の自由があったか否か、ではなく、捜査機関の側の客観的条件を明確に論じることにあると言う。
「任意同行やその後の取調べといった捜査手法の本質的な危険性を前提としながら、被疑者の同意以外の根拠から規制する論理が検討されるべきである。・・・被疑者の行動に対する現実の制約や心身の苦痛・疲労といった負担や不利益は、被疑者の同意によってその発生自体が消し去られるものではない。このような負担や不利益は当該捜査手法に本来的に内在するものといえる。」
「議会が自己決定義務を果たしたと評価できるほどの規律密度で要件や手続きが規定されていること、すなわち権限濫用の危険のある捜査手法について捜査機関の独断に委ねていないことが必要だということである。」
かくして、捜査機関の義務違反は、捜査の違法性を裏付けることになる。説得的な議論である。詳細は後日とされているが、基本線が明確なので、おおよその想像はつく。次稿を期待したい。

一点だけ、言葉尻の印象だが、「議会の自己決定義務」の「自己」は気にかかるところだ。なぜ「自己」なのだろうか。議会と国民の同質性を前提としているからだろうか。