Monday, August 10, 2015

チューリヒ美術館散歩

先日、東京で開催されたので行ったが、以前チューリヒで見た作品がなかったので、改めてチューリヒ美術館を覗いてきた。チューリヒ駅を出て、聖母ミュンスターと大聖堂をめぐる。聖母ミュンスターのステンドグラスはシャガールの作品だ。大聖堂のステンドグラスはジャコメティとポルケだ。ステンドグラス、何度見ても感動。
チューリヒ美術館の常設展は、15~6世紀のスイス圏の宗教画に始まり、ドラクロワ、プッサン、フュスリ、トリポリ等、そして印象派がずらり、さらにスイス出身のベックリンが多数(ベックリンはバーゼル美術館とチューリヒ美術館で満足できる)。ホドラー、ジャコメティ、ロダン、ピカソ、ミロ、シャガール、カンディンスキー。ロイ・リキテンシュタインとアンディ・ウーホル。チューリヒ・ダダの作品がなかったが、売店の絵葉書にいくつかダダ・ポスターがあったので買ってきた。カタログは以前購入したが、絵葉書は今回のもので授業に使える。
企画展は不確かさの感覚Sense Uncertaintyというタイトルだった。60年代から2000年代の絵画、写真、立体など多数の作品で構成され、確かなものと不確かなものを対比させていた。時代、風潮の変化、人間関係、意識の変化、身体の変化が扱われているが、多くがセックスを題材としている。ありきたりというか、お約束というか、陳腐な作品群だ。60~80年代辺りには「斬新な表現」「挑戦」だったのだろう。
世の中には感違い芸術家が多くて、今だにセックスを扱って「表現の限界への挑戦だ」などといきがっているし、それを支える蓄音機状態の美術評論家が掃いて捨てるほどいる。性表現ほど、長いこと取り組まれ、延々と執拗に繰り返されてきた「陳腐な挑戦」はない。しかも、その多くが、「男」の視点で「女」の「身体」を対象化し、美化し、あるいは汚し、切り刻む表現である。あまりに凡庸だ。性についても、表現についても、ろくに考えていない。画家も彫刻家も写真家も映像作家も、セックスさえ取り上げれば、みんなが注目してくれるという、幼稚な下心だけだ。モダン・アートと称しても、このレベルが多すぎる。日本のモダン・アートで評価されているアーティストは、セックス売り物業者に過ぎない例が多い。才能がないアーティストが認められる唯一最大のテーマがセックスだ。同じことの繰り返し。
そんな時代に、チューリヒ美術館に置かれた荒木経惟、森山大道、中平拓馬、なんだか哀れで無惨だ。常設展だけで良かった。