Wednesday, July 15, 2015

大江健三郎を読み直す(45)骸骨に連なる死と危機のイメージ

大江健三郎『表現する者――状況・文学**』(新潮社、1978年)
前著『言葉によって――状況・文学*』に続く本だが、前半は『大江健三郎全作品』第期全6巻(1966~67年)に収録された文章なので、前著よりも古い。後半は『大江健三郎全作品』第期全6巻(1977~78年)に収録されたもの。
内容面では、前著でラブレー、金芝河、ポール・ラディン、山口昌男、バフーチン。トリックスター、グロテスク・リアリズム、祝祭などを取り上げ、形成中だった大江文学の、文学理論が、本書ではあまり目立たない。本書前半では、ギュンター・グラス、ガルシア・マルケス、ノーマン・メイラー、ジェームズ・ボールドウィン、フォークナー、ハックルベリー・フィン、ル・クレジオ等に言及していたが、後半では、教員としてメキシコ在留中であったことから、メキシコを中心にしてラテン・アメリカの情報、『ピンチランナー調書』関係の文章、詩についての考察(オーデン、レイエス)などが取り上げられている。

もっとも、初読時にどのように感じたかは記憶していない。記憶しているのは表紙だけだ。というのも、表紙には、ホセ・ガダルーペ・ポサダ(1851~1913年)の版画が使われているが、骸骨がテンガロンハットをかぶり、アルコール壜を持って歩いている様子で、司修が彩色を加えている、大江の著書にしては珍しいどぎつい絵であり、印象に残る。その印象だけがあった。骸骨に連なる詩のイメージ、銃殺のシーン、そして「民衆芸術」――ここから始まる文学。

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4月から週8コマの授業で、多忙だったため、大江文学の読み直し作業が中断していた。