Thursday, October 30, 2014

クマラスワミ報告書について(5)

10月26日に韓国YMCA(東京・水道橋)で開催されたシンポジウム「FIGHT FOR JUSTICE 「性奴隷」とは何か」において、「国際法における軍の性奴隷制度」について報告した。
25分の報告のため十分な話はできなかったが、(1)クマラスワミ「女性に対する暴力」報告書をめぐる経緯、(2)奴隷制とは何か、に絞って報告した。
そのレジュメを以下に貼り付ける。
資料<文献>の1が1996年の人権委員会の際にNGOが作成し、各国政府に配布した資料集である。2が日本政府が国連人権委員会に提出したが、各国政府から批判されたために撤回した「秘密報告書」である。今年になって一部メディアが「スクープ」と称して紹介しているが、実際には当時、私たちが日本国内でもコピーを配ったし、国会質問も行われたものである。

**********************************

国際法における軍の性奴隷制度

前田 朗

報告の趣旨

(1)  日本における議論の特徴
――ナショナリズムと、法の無視
      ・「強制連行」論議――誘拐罪、強制移送の無視  ➔文献19,20,21
      ・「性奴隷制」論議――奴隷条約、奴隷の禁止の無視

(2)国際人権法における議論の特徴
      ・冷戦終結後の世界像との関連での歴史の見直し
➔ダーバン宣言、欧米における歴史の再審  ➔文献24
      ・国家--法における国際人権法の形成と展開
           ➔個人被害者の救済と賠償問題(個人の法主体性)
・とりわけ女性の権利、女性に対する暴力問題の浮上
           ➔ウィーン世界人権会議、北京世界女性会議
           ➔国連人権機関における女性に対する暴力特別報告者
           ➔国連安保理事会決議
      ・国際刑事司法制度の形成と発展
           ➔旧ユーゴ法廷、ルワンダ法廷
           ➔国際刑事裁判所規程における戦時性暴力規定

(3)  課題の限定
・クマラスワミ報告書への道――軍隊性奴隷とは(本報告2)
      ・国際法における奴隷概念の定義の追跡(本報告3)
      
      

2 クマラスワミ報告書への道――軍隊性奴隷とは

*1996年の国連人権委員会のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」の「日本軍慰安婦報告書」が作成された過程を振り返る。
*1996年4月、国連人権委員会に際してNGOが作成し各国政府に配布した資料集、及び、日本政府が1996年の国連人権委員会に提出したが撤回に追い込まれた文書を紹介。      ➔文献5,6,7,11,12

1988年12月 世界人権宣言40周年記念集会
1989年 4月 在日朝鮮人・人権キャンペーン
1990年 4月 在日朝鮮人・人権セミナー(実行委員長・床井茂)➔文献9,10,映像1~4
1990年 6月 JR定期券問題国会質問、労働省答弁  ➔文献8、映像5
           *朝鮮人強制連行、従軍慰安婦、南方方面派遣団
1991年 8月 金学順カムアウト、以後韓国、朝鮮、台湾などで証言始まる
1991年12月 金学順ら、日本政府相手に提訴
1992年 2月 国連人権委員会、NGO発言(IED)
1992年12月 日本の戦後補償に関する国際公聴会
1993年 2月 国連人権委員会、NGO文書提出(IFOR
1993年 5月 ウィーン世界人権会議、女性に対する暴力論議
1993年 7月 テオ・ファン=ボーベン重大人権侵害報告書
1993年 8月 河野談話
1993年12月 国連女性に対する暴力撤廃宣言
1994年 2月 国連人権委員会、NGO文書提出(IFOR)
1994年 2月 日本政府(細川政権)に勧告文提出(IFOR)
1994年 2月 国連人権委員会、NGO発言(IFOR)
1994年 8月 国連人権委員会・人権小委員会、NGO文書提出(IFOR)
1994年10月 国際法律家委員会「慰安婦」報告書
1995年 2月 国連人権委員会、NGO文書提出2通(IFOR)
1995年 3月 ラディカ・クマラスワミ特別報告者、予備報告書
1995年 7月 リンダ・チャベス組織的強姦・性奴隷制特別報告者作業文書
1995年 8月 国連人権委員会・人権小委員会、NGO発言(IFOR)
1995年 8月 国連人権委員会・人権小委員会、組織的強姦・性奴隷制決議
1995年 8月 国連人権委員会・人権小委員会、現代奴隷制作業部会
1995年10月 北京世界女性会議
1996年 2月 ラディカ・クマラスワミ特別報告者、日本軍慰安婦報告書
1996年 3月 日本政府秘密報告書
1996年 4月 国連人権委員会、クマラスワミ報告書を全会一致で採択   ➔文献22

*簡明な事実の確認――国連人権委員会での議論のベースは国際法である。日本が国際法に違反したか否かが問題である。
*クマラスワミ報告書における軍事的性奴隷制度の定義
 「特別報告者は、戦時、軍によって、または軍のために、性的サービスを与えることを強制された女性の事件を軍事的性奴隷制の慣行ととらえている」
 「特別報告者は『慰安婦』の慣行は、関連国際人権機関・制度によって採用されているところによれば、性奴隷制および奴隷類似慣行の明白な事例ととらえられるべきであるとの意見を持っている」
*クマラスワミ報告書における「慰安婦」事件の捉え方
  ・徴集
  ・「慰安所」における状態



3 国際法における奴隷概念の定義

(1)  奴隷条約への道    ➔文献1,2

1885年 ベルリン一般協定
1890年 ブリュッセル一般協定・宣言
1905年 White Slave(醜業)協定
1906年 英仏伊アビシニア協定
1910年 White Slave(醜業)条約
1919年 サンジェルマン条約
1922年 国際連盟、アビシニア奴隷問題
      ルガード・メモ
1923年 国際連盟、アビシニア奴隷問題再論
1924年 国際連盟・奴隷制委員会、人間搾取の諸形態の文書化
1925年 セシル提案(条約第1条1項)――搾取から所有へ
1926年 奴隷条約
1930年 リベリア国際調査委員会報告書

(2)  奴隷条約における奴隷制と奴隷取引の禁止

奴隷条約第1条1項 奴隷制とは、その者に対して所有権に伴う一部又は全部の権能が行使される個人の地位又は状態をいう。 
2項 奴隷取引とは、その者を奴隷の状態に置く意思をもって行う個人の捕捉、取得又は処分に関係するあらゆる行為、その者を売り又は交換するために行う奴隷の取得に関係するあらゆる行為、売られ又は交換されるために取得された奴隷を売り又は交換することによって処分するあらゆる行為並びに、一般に、奴隷を取り引きし又は輸送するすべての行為を含む。

(3)  「所有権に伴う権能」

*ジーン・アレイン『奴隷制の法的理解――歴史的理解から現代的理解へ』(オクスフォード大学出版、2012年)より
ジーン・アレイン(クィーンズ大学教授、国際法)「21世紀に至る奴隷の法的定義」ロビン・ヒッキー(ダーラム大学講師、所有権法)「奴隷の定義を理解するために」
J.E.ペナー(ロンドン大学教授、所有権法)「所有概念と奴隷概念」
   

(4)  奴隷概念の拡大・変容――現代的諸形態へ

*国連人権委員会・現代奴隷制作業部会の議論      ➔文献12,13
*アレイン「21世紀に至る奴隷の法的定義」、オーランド・パターソン(ハーバード大学教授、社会学)「人身売買、ジェンダー、奴隷」

1949年 人身売買禁止条約
1956年 奴隷制補足条約
1990年代 国連における議論――1989年(人身売買の禁止、売春からの搾取)、1990年(子どもポルノ)、1991年(子ども兵士)、1992年(臓器売買)、近親姦(1993年)、1994年(移住労働者、セックス・ツーリズム)1997年(早期結婚、拘禁された少年)
2000年 デヴィド・ワイスブロット報告書


4 おわりに

(1)  国際人道法における奴隷と性暴力
・旧ユーゴスラヴィア法廷ICTY
・ルワンダ法廷ICTR
  

1998年 アカイェス事件ICTR判決
        カンバンダ事件ICTR判決
        ムセマ事件ICTR判決
        フルンジヤ事件ICTY判決
2001年 フォーツァ事件ICTY判決

(2)  国際刑事裁判所規程ICC
    ・人道に対する罪としての性奴隷制

(3)国連における戦時性奴隷への取り組み
・女性に対する暴力特別報告者の活動継続
・国連安保理事会決議




<文献>
1.  Selected Papers on the Legal Issues Concerning Military Sexual Slavery, edited by Etsuro Totsuka, IFOR.(1996年、国連人権理事会の際に各国政府に配布した資料)
2.  Views of the Government of Japan on the addendum 1.(E/CN.4/1996/53/Add.1)to the report presented by the Special Rapporteur on violence against women.(1996年、国連人権理事会に提出しようとしたが撤回に追い込まれた日本政府文書)
3.  Jenny Martinez, The Slave Trade and the Origins of International Human Rights Law, Oxford University Press, 2012.
4.  Jean Allain (ed.), The Legal Understanding of Slavery, From the historical to the contemporary, Oxford University Press, 2012.
5.  戸塚悦朗『日本が知らない戦争責任』(現代人文社、1999年[普及版2008年]
6.  国際法律家委員会(ICJ)『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』(明石書店、1995年)
7.  ICJ国際セミナー東京委員会編『裁かれるニッポン――戦時性奴隷制 日本軍「慰安婦」・強制労働をめぐって』(日本評論社、1996年)
8.  本岡昭次『「慰安婦」問題と私の国会審議』(本岡昭次東京事務所、2002年)
9.  床井茂編『いま在日朝鮮人の人権は』(日本評論社、1990年)
10. 在日朝鮮人・人権セミナー編『在日朝鮮人と日本社会』(明石書店、1999年)
11. 荒井信一・西野瑠美子・前田朗編『従軍慰安婦と歴史認識』(新興出版社、1997年)
12. 前田朗『戦争犯罪と人権』(明石書店、1998年)
13. 前田朗『戦争犯罪論』(青木書店、2000年)
14. 前田朗『ジェノサイド論』(青木書店、2002年)
15. 前田朗『民衆法廷の思想』(現代人文社、2003年)
16. 前田朗『侵略と抵抗』(青木書店、2005年)
17. 前田朗『人道に対する罪』(青木書店、2009年)
18. 前田朗「旧ユーゴ、ルワンダ国際法廷で戦時性暴力はいかに裁かれてきたか」『女たちの21世紀』26号(2001年)
19. 前田朗「『慰安婦』強制連行は誘拐罪」『統一評論』528号(2009年)
20. 前田朗「『慰安婦』誘拐犯罪の証明――静岡事件判決」『統一評論』564号(2012年)
21. 前田朗「『慰安婦』誘拐犯罪」「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター編『「慰安婦」バッシングを越えて』(大月書店、2013年)
22. ラディカ・クマラスワミ『女性に対する暴力』(明石書店、2000年)
23. ゲイ・マクドゥーガル『戦時・性暴力をどう裁くか』(凱風社、1999年[増補新装2000年版]
24. ダーバン2001編「反人種主義・差別撤廃世界会議と日本」『部落解放』502号(2002年)

<映像>
1.  『なぜ? 90年5月・外国人登録法違反事件』(1990年)
2.  『空白の四五年――新たな日朝関係へ』(1991年)
3.  『朝鮮人元従軍慰安婦の証言――ピョンヤン1992』(朝鮮人強制連行真相調査団、1992年)
4.  『定期券の話――朝鮮学校に通う』(1993年)
5.  『生きている間に語りたかった――日本の戦後補償に関する国際公聴会の記録』(同実行委員会、1993年)
6.  『癒されぬ傷跡――「従軍慰安婦」問題はいま』(朝鮮人強制連行真相調査団、1996年)




Saturday, October 25, 2014

大江健三郎を読み直す(31)最初期の全エッセイ

大江健三郎『厳粛な綱渡り』(文藝春秋、1965年)
高校時代に図書館で手にしたが、なにしろ上下2段組み500頁、22歳から29歳の大江の全エッセイだ。分厚いし、内容も高校生には歯が立たない。読んだのは大学3年ごろ、図書館の開架式書庫だった。全6部で、第1部が戦後世代のイメージ、第2部が強権に確執をかもす志、第3部が文学とは何か、第4部が性的なるもの、第5部がルポルタージュ論、第6部が芸術・ジャーナリズムに関するコラム、だ。大江小説のテーマと直接関連することは言うまでもない。
戦後世代のイメージをめぐる考察は、1960年代すでに「過去と現在」をめぐる争点だったが、その後も戦後民主主義をめぐるこの社会の分裂が続く。それは今日まで姿を変えて継続している面がある。「戦後は終わった」と政治的に決定しても、終わらない戦後が終わった、という表象がつきまとってきた。そして、大江は現在に至るまで戦後民主主義のチャンピオンである。大江の影響を受けた多くの青年たちが、いまなお戦後民主主義の実現と克服の課題に取り組んでいる。
「強権に確執をかもす志」ではじめて啄木のエッセイの意味を知った。それまで啄木は故郷を謳った歌人でしかなかったが、大江を通じて「時代閉塞の状況」をはじめとする啄木世界を知った。おかげでいまだに啄木の世界を彷徨っている。私の『非国民がやってきた!』及び『国民を殺す国家』(いずれも耕文社)の「非国民群像」の中心は啄木だ。秋水、啄木、多喜二、スガ、文子、テルをつなぐラインの中に私の非国民論がある。


Sunday, October 19, 2014

ヘイト・スピーチの憲法論(6)

6 表現の自由と責任――憲法第二一条と一二条
 日本国憲法第二一条第一項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とする。憲法学は表現の自由の保障を持ち出してヘイト・スピーチ規制に消極的である。しかし、この解釈は憲法の基本精神に反する疑いがあるのではないだろうか。
 第一に、憲法第一三条の人格権や第一四条の法の下の平等を無視する根拠がない。憲法学は第二一条の表現の自由を「優越的地位」と称して、事実上絶対化する議論を展開してきたが、不適切である。憲法第二一条をいくら強調しても、憲法第一三条及び第一四条を覆す理由にはならない。まして、憲法第二五条の生存権を無視することは許されない。
 この点で注目されるのは、憲法学の大家・芦部信義が法の下の平等を「人権総論」ではなく「人権各論」に位置づけていることである。法の下の平等を人権各論に位置させることにより、同じく人権各論に位置する表現の自由と同等の位置にあることになり、表現の自由には人格権に加えて民主主義という根拠ゆえに優越的地位が認められるので、法の下の平等よりも表現の自由が優越するという仕組みになっている。
しかし、芦部説には根本的に疑問がある。憲法第一四条の法の下の平等は、その内容からみて「人権総論」に位置するはずである。個別の自由や権利とは異なる。条文の位置付けから見ても、憲法第一一条から第一四条までは「人権総論」と見るべきである。憲法第一三条と第一四条は人権総論の中核である。
 第二に、表現の自由の根拠は人格権と民主主義に求められる。その人格権とはまさに憲法第一三条である。憲法第一三条の人格権を破壊するヘイト・スピーチを、人格権を根拠にもつ表現の自由を口実に許容するのは論理矛盾である。
 第三に、民主主義についても同じことが言える。ヘイト・スピーチはターゲットとされたマイノリティの社会参加を阻み、民主主義を否定する行為である。刑法学者の金尚均は「ヘイトスピーチの有害性は、主として、社会のマイノリティに属する個人並び集団の社会参加の機会を阻害するところにあり、それゆえ、ヘイトスピーチを規制する際の保護法益は、社会参加の機会であり、それは社会的法益に属すると再構成すべきである」と主張している。社会参加の機会と言うのも民主主義にかかわるだろう。
 民主主義を根拠に表現の自由の優越的地位を唱えながら、表現の自由を口実に民主主義の破壊を擁護するのは論理矛盾である。人格権と民主主義に根拠を有する表現の自由を根拠に、他者の生存権や生命権を危険にさらすことが許されないことは言うまでもない。
 第四に、「マジョリティの表現の自由」と「マイノリティの表現の自由」を考える必要がある。憲法第二一条は表現の自由の主体を特定したり、区別してはいない。しかし、憲法の基本精神から言って、マイノリティの表現の自由を強く保障するべきことは当然である。マイノリティの表現の自由をマジョリティの表現の自由より優先する理由はないかもしれない。だが、マジョリティの表現の自由を口実にマイノリティの表現の自由を否定することは許されない。ヘイト・スピーチはマイノリティを沈黙させる「沈黙効果」を有する。憲法の基本精神に立てば、マイノリティの表現の自由を保障するために何をすべきかを検討するべきであるのに、憲法学はそれを怠ってきた。
 第五に、憲法第一二条は「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」としている。自由と権利には責任が伴う。表現の自由には責任が伴わなくてはならない。表現の自由とは何をやってもいいということではあり得ない。憲法第二一条を根拠にヘイト・スピーチの規制に消極的な憲法学者は誰一人として憲法第一二条に言及しない。
 第六に、憲法学は、治安維持法の歴史を持ち出して表現の自由の保障をほとんど絶対化する議論を展開してきた。しかし、この解釈は憲法の基本精神に反する疑いがある。第二次大戦とファシズムの歴史的教訓は、アジア諸国に対する侵略と差別を煽動した表現の濫用を戒めることでなければならない。表現の自由を口実に侵略を煽り、植民地支配を行った歴史を振り返り、表現の自由を濫用して民族差別を煽り、植民地人民を奴隷状態に置いた歴史を反省することこそ「優越的」である。表現の自由の優越的地位を理解するためには、表現の自由の歴史を正しく認識するべきである。歴史を無視して、表現の自由を口実にヘイト・スピーチを規制できないなどと主張するのは無責任である。表現の自由の歴史的教訓こそ、ヘイト・スピーチ規制の根拠なのである。
<表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するべきである。>

 

Friday, October 17, 2014

クマラスワミ報告書について(4)

クマラスワミ報告書がクローズアップされたために、日本政府が情報操作のためにまた奇妙な言い訳を流している。いい加減な情報を横流しするマスコミもあり、ネット上でも同じことが繰り返されている。
クマラスワミ報告書は、「1996年の国連人権委員会で正式に採択されていない」とか、「決議は「歓迎welcome」ではなく「留意take note」だったから本当の採択ではない」とか、「採択されたが事実上否定された」とかいう嘘が次々と並べられている。
こういうデマを相手にするのは本当に時間の無駄である。世界中でこんなことを主張しているのは日本政府だけである。
(1)経過
1996年の国連人権委員会で、決議案を準備したのはカナダ政府である。委員会の本会議場ではクマラスワミ報告書を絶賛する政府発言が続いた。その後、NGOも続々と絶賛発言をした。その間、別室で決議案の準備が行われていた。カナダ政府の決議案、それに対する各国政府の意見が寄せられていた。ただし、そこにはNGOは入れないので、私は詳細を知らない。いくつかの政府から又聞きした程度である。
決議案は、最初は一括でwelcomeだったのを、日本政府があくまでも拒否した。そうなると、多数決で決めるか、それとも、表現を変えてコンセンサスを得るかの2つの選択肢になる。当時は、人権委員会ではコンセンサス重視であった。安保理事会なら、見解が分かれた場合に、最後は決議に持ち込んで、数の勝負になる。しかし、人権委員会は、特に90年代はコンセンサス重視であった。人権問題で、数で押し切るのは、それこそアフガンとか、イラクとか、シリアのような場合くらいである。欧米諸国や日本に関するテーマで数で押し切ることはあり得ない。人権問題の場合は、相手国の反対を押し切って採決してもあまり意味がないと言われていた。そのため、人権委員会の審議の外(別室)で、秘密協議が行われ、日本政府の主張も入れながら、かなり時間をかけて調整していた。そこは秘密協議のため、私たちNGOは入ることが出来ない。時々刻々と流れてくる情報を集めていた。その一部は戸塚悦朗『日本が知らない戦争責任』に書かれている。
そうした協議の結果、クマラスワミ特別報告者の<活動をwelcome、報告書をtake note>という表現に落ち着いて、コンセンサス、つまり全会一致で採択された。カナダ政府が日本政府に配慮した形である。落胆した日本政府外交官は、決議の時は肩を落としてフラフラあるいていた。ところが、その後に日本政府がジュネーヴで日本の記者に記者会見して「クマラスワミ報告書は否決された」とガセネタを流した。直後に私たちは「take noteという表現で採択された」と記者会見し、日本メディアも「採択された」と報じました。日本の記者たちも決議の時に会場にいたのだから当然である。ところが、その後、日本政府と一部のメディア(ジュネーヴに記者のいないメディア)が東京で「take noteは事実上否決と同じ」などと訳の分からないことを主張し始めた。
以上が当時の、些末な議論である。まったく意味がない。ネット上でもずっと長い間、同じことを繰り返している人たちがいるが、無意味なので相手にしなかった。その議論が復活してきた。日本政府はここにこだわるしかないのだろう。
(2)重要ポイント
1.もし否決されたのなら、クマラスワミ報告書が国連のウェブサイトに掲載されるはずがない。クマラスワミ報告書はすべて掲載されている。
2.take noteの対象は、日本軍慰安婦報告書だけではなく、家庭における暴力報告書なども一括であり、それらが採択されたことに異議を唱える国は一つもない。家庭における暴力報告書(96年)は、社会における暴力(97年)、国家による暴力(98年)に関する報告書とともにすべてクマラスワミ報告者の主要な活動業績として高く評価されている。
3.take noteだから採択されていないとか、採択されたが軽視されたなどという主張をしているのは、日本政府だけである。人権委員会の、日本以外の52か国の政府はそのような主張をしていない。朝鮮、韓国、中国などは「クマラスワミ報告書に従え」と要求している。人権委員会53か国の中で、日本政府の馬鹿げた主張に同調している国があると聞いたことがない。
4.もし否決されたり、特に軽視されたのなら、クマラスワミ報告者は辞任せざるを得ない。にもかかわらず、その後も数年間、同様の活動を続け、同様の報告書を出し続けた。『女性に対する暴力の10年』(明石書店)参照。
5.クマラスワミ特別報告者の活動は評価が高く、「女性に対する暴力特別報告者」の任期が切れた後も、国連に招かれ、様々な役職を担っている。日本政府が敵視し、妨害し続けたにもかかわらず、現在も国連で特別の役職についている。
6.クマラスワミ報告者の報告書は、その後も人権委員会で実際に「引用」され続けた。日本軍性奴隷制報告書も、人権委員会における韓国、朝鮮、中国など政府発言の中で引用され続けた。正式に採択された報告書だから引用することが出来る。
7.人権小委員会の下部機関であった国際法専門家による人権小委員会(差別防止少数者保護小委員会)でもクマラスワミ報告書は重視された。人権小委員会のゲイ・マクドウーガル戦時性奴隷制報告者の報告書もクマラスワミ報告書に全面的に依拠している。マクドウーガル『戦時性暴力を裁く』(凱風社)--これも私たちが翻訳した。
8.もし、クマラスワミ報告書がきちんと採択されていないとか、軽視されたのであれば、その後、日本政府は安心して、これを無視すればよい。にもかかわらず、長年にわたって非難・中傷を続けているのはなぜか。日本政府の行動そのものが、クマラスワミ報告書が正式に採択されたことを裏付けている。


Wednesday, October 15, 2014

クマラスワミ報告書について(3)

日本政府がクマラスワミ特別報告者に吉田証言引用部分の撤回を申し入れたと言う。ニューヨークで大使が面会して、申し入れをしたそうだ。「恥の上塗り」とはこのことである。日本政府自身が認めた内容を、18年後の今になって「撤回申し入れ」する神経が理解できない。
(1)事実経過
まず事実経過を確認しておく必要がある。日本のメディアでは、クマラスワミ報告書がどのようにして作成されたかを報じないため、クマラスワミ報告者が独断で勝手に報告書を作成したかのような誤解が生じている。
1993年、ウィーン世界人権会議で、国連人権委員会に「女性に対する暴力特別報告者」を設置することが決定される。
1994年、国連人権委員会でラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」が任命される。
1995年、クマラスワミ予備報告書提出。「慰安婦」問題を調査する意向を表明。これを受けて、日本政府がクマラスワミ報告者の訪問を受け入れる意思を表明。
1995年7月、クマラスワミ報告者、日本訪問(7月22日~27日)。日本政府、歴史学者、NGOなどから情報入手。
1996年1月、クマラスワミ報告者、「日本軍性奴隷制報告書案」を国連人権委員会事務局に提出。同報告書案は関係各国に交付された。もちろん、日本政府、韓国政府などに交付された。この時点ではまだ秘密文書である。
1996年4月、クマラスワミ報告者「日本軍性奴隷制報告書」、国連人権委員会で正式に公表され、審議の結果、満場一致で採択された。
(2)解説
国連人権委員会の特別報告者(死刑問題、拷問問題、人種差別問題など多数いた)は、そのテーマの調査に必要な場合に、相手国の招待を受けて調査のために訪問し、政府等から情報を入手して、報告書を作成する。クマラスワミ報告者は日本政府の招待を受けて、日本を訪問した。同様に韓国も訪問し、助手が朝鮮にも訪問した。
特別報告者が報告書案を国連人権委員会事務局に提出すると、事務局は関係国に交付して意見を求める。関係国とは、その報告書で批判的に言及されている国など利害関係国である。1996年1月には、国連人権委員会は日本政府にクマラスワミ報告書案を交付した(はずである)。私はその日時を知らないが、1月だったはずである。と言うのも、当時、1月に、報告書が出た、と言う情報がNGOにも伝わってきたからである。現在ならジュネーヴからすぐに情報が伝わるが、当時は、もっと時間がかかった。
C 報告書案を受け取った関係国は意見を述べることができる。日本政府は、本ブログで公表した秘密の「反論書」を作成し、人権委員会に提出しようとしたが、各国政府から批判を受けて撤回に追い込まれた。代わりに別の意見書を提出した。正式の日本政府意見書は吉田証言に言及していない。
D 国連人権委員会は、以上の手続きを経て確定した報告書を公表し、報告者がプレゼンテーションを行い、委員やオブザーバーの政府やNGOによる討論を経て、最後に決議案の採択を行う。1996年4月、クマラスワミ報告者がプレゼンテーションを行い、カナダ政府、韓国政府、日本政府など多数の国家代表が発言し、多数のNGOも発言するなど討論が行われ、その結果、クマラスワミ報告書は全会一致で採択された。
E 以上のことから明らかに言えることは、第1に、クマラスワミ報告書は、日本政府とクマラスワミ報告者の対話を通じて形成されたものだということである。クマラスワミ報告者が勝手に作成したものではない。
第2に、日本政府には反論の機会が与えられた。当時、吉田証言は採用できないことは明らかにされていたし、日本政府はそのことを熟知していた。それにもかかわらず、国連人権委員会の場で、吉田証言の削除を求めなかった。
第3に、日本政府は、吉田証言を含む報告書に関する決議に賛成した。決議は全会一致で採択された。日本政府は当時、国連人権理事会の理事国であったから、日本政府の賛成によって全会一致で採択されたのである。人権委員会は53か国であり、議長国を除くと52か国の賛成である。
F なお、手元に資料がないので正確な引用はできないが、報告書案が明らかになった時点で、吉見義明教授が、吉田証言の信ぴょう性には疑問が付されているので記述を削除した方が良い、吉田証言を削除しても結論に影響がない、という趣旨の手紙をクマラスワミ報告者に送ったと記憶している。
G 以上の事実について、どう考えるべきか。裁判をモデルに考えればわかりやすいだろう。民事裁判では、原告が主張した事実について被告が異議を唱えず、認容すれば、それが事実とされる。刑事裁判では、被告人の自白である。日本政府は、国連人権委員会で、自白したのである。自白を強要されたわけではない。日本政府の意思として、2か月以上の時間をかけて慎重に検討した結果として自白したということになる。
H 報告書案公表から採択までの間に、記述の訂正をアドバイスすることには意味がある。吉見義明教授の手紙は、決議採択以前に出されたものであり、的確と言えよう。しかし、国連人権委員会の採択の後に、時宜に遅れた抗弁をしても、笑われるだけである。日本政府自らが決議採択に賛成しておきながら、事後に些細なミスをあげつらっても意味がない。

I 18年後の今になって吉田証言部分の撤回を求めるのは、常識はずれであり、恥知らずである。事後になって新たな事実が判明した場合に、事情が変わったから、ということはありうる。しかし、本件に「事情変更の原則」は適用できない。なぜなら、吉田証言の信ぴょう性に疑問があることは、1996年当時、日本政府も知っていたからである。クマラスワミ報告者も、吉田証言とは別に、秦郁彦博士の見解を長々と引用したうえで、検討している。事情変更がないのに、日本政府の勝手な都合で撤回を求めるなど、ありえないことである。決議は52か国の賛成によって成立したものであり、クマラスワミ報告者個人が勝手に書き換えることもできないだろう。