Monday, September 29, 2014

靖国神社の基礎知識をチェック

島田裕巳『靖国神社』(幻冬舎新書、2014年)
本書は、靖国神社とは何かの基礎知識である。高橋哲哉『靖国問題』、大江志乃夫『靖国神社』、田中伸尚『靖国の戦後史』など多くを読んできたが、本書は「賛成か反対かどちらかの立場に立つ」のではなく、「建設的な議論をするため」の本である。知っていることが多かったが、知っているつもりで誤解していたこと、実はよく知らなかったこと、そしてまったく知らなかったこともある。歴史の大筋や、靖国をめぐる論争の多くは知っていたが、鎮霊社のことは正確には知らなかった。天皇が靖国に行けなくなった理由も一応知ってはいたが、その間の経緯もおもしろかった。本書でスタート準備をし次に本格的に復習していく予定だ。

木村三浩さん(一水会)と対話・対決するので、靖国神社の基礎知識を復習するため本書を読んだ。木村さんとは以前、北方領土、竹島、尖閣諸島をめぐって議論させてもらった。その記録は木村三浩・前田朗『領土とナショナリズム――民族派と非国民派の対話』(三一書房)として出版した。一部からはとても好評だが、一部からは「右翼と一緒にやるなんて」と非難された。民族派と対話することで自分の思考をチェックできる。今回は、日の丸君が代、靖国神社、天皇制をめぐる対話の予定だ。

Saturday, September 27, 2014

ヘイト・ロックとは何か

 ヘイト・スピーチには、ジェノサイドの煽動や人道に対する罪としての迫害のように極限的で激烈な犯罪も含まれる。他方で、ホロコースト否定や、差別的発言もヘイト・スピーチに含めて理解する例もある。ひじょうに幅の広い概念であり、ヘイト・スピーチの定義はなかなか難しい。そこでヘイト・スピーチの行為類型論が必要であり、すでに、のりこえねっと編『ヘイトスピーチってなに?レイシズムってどんなこと?』(七つ森書館)などで、ヘイト・スピーチの行為類型の整理を試みた。その関連で、ヘイト・スピーチの多様性を考えていた際に、ヘイト音楽に関する論文を目にした。
 以下では、コリン・ギルモアの論文「ヘイト・ロック――ポピュラー音楽形式における白人至上主義」を簡潔に紹介する。
 ギルモアは冒頭に「現在の白人至上主義運動には、若者のサブカルチャーが含まれ、人種主義ロック音楽の促進と流布によって組織されている。南部法律センターや反中傷連盟など、アメリカにおける人種主義右翼を監視してきた人権団体によると、『ホワイト・パワー』音楽産業は長年成長してきた。反人種主義活動家によると、ホワイト・パワー音楽の販売収益が白人至上主義運動を財政的に維持してきただけでなく、ネオナチ組織やスキンヘッド集団に若者が参加するよう促すメッセージを発してきた」という。
 ギルモアによると、アメリカでは人種的不寛容の表現が憲法上の言論の自由として保護されているため、比較的小規模のホワイト・パワー音楽が国際的に人種主義スキンヘッドに影響を及ぼし、東欧諸国に広まっている。欧州諸国ではホワイト・パワー音楽の演奏や販売が禁止されているので、特にドイツでは、ホワイト・パワー音楽のメンバーを人種憎悪の煽動ゆえに刑事施設収容する例もある。
 社会学において従来、サブカルチャーにおいて音楽が参加者のアイデンティティを形成する意義が問われてきた。音楽は諸個人にとってリアリティを形成する。ホワイト・パワー音楽家は彼らが大事に思う音楽サブカルチャーにおいて独特に地域を占める。ホワイト・パワー音楽家はその集団のイデオロギー的地位やあるべき行動を提供する。それゆえホワイト・パワー音楽は組織された人種主義集団の多くにとっての参照枠を共有する。
 こうした関心からギルモアは、ホワイト・パワー音楽にかかわる一七人の個人にインタヴューした。スキンヘッド集団、ネオナチ集団、現代白人優越主義集団などにかかわったメンバーである。

1 ホワイト・パワー音楽小史

 ギルモアによると、ホワイト・パワー・ロックは白人優越主義運動のフォークと繋がっていた。白人優越性のメッセージをもとに歴史的事件の修正を試みる語りが歌詞となった。白人優越主義にとって好ましいヒーローを描いた歌詞もある。
組織された人種主義集団が音楽を宣伝手段としたのは録音された音楽の歴史の始まりとともに起きていた。一九二〇年代、クー・クラックス・クランによって音楽シートや78ミリ・レコードが制作された。インディアナ州で設立されたKKKレコードは伝統的な宗教音楽にのせて反移民を歌った曲を発売した。アメリカ・ナチ党の創設者ジョージ・リンカーン・ロックウェルは音楽を宣伝促進手段とした。一九六〇年代にヘイテナニ・レコードから発売された。
公民権運動の時期に、隔離政治や人種憎悪を促進するためにレコードを発売するレコード会社も見られた。一九六六年~七二年、ジェイ・ミラーというシンガー・ソング・ライターがルイジアナ州でレッド・レーベル・レコード会社から人種主義カントリーを発売し、二一局を発表し、アルバム『隔離主義者ヒットパレード』を出した。
一九七〇年代、イングランドで若者音楽サブカルチャーが人種主義集団の宣伝に力を貸した。一九八三年、イギリス国民戦線という小規模政党がホワイト・ノイズ・レコードを設立し、スキンヘッドやパンクロックに力を注いだが、最初の発売はスクリュー・ドライバーというネオナチ・バンドの『ホワイト・パワー』というシングル・レコードであった。スクリュー・ドライバーの影響を受けて、一九八〇年代、イギリス各地でホワイト・パワー・バンドが結成された。一九八七年、ブラッド・アンド・オナー(血と名誉)という宣伝バンドが結成され、北米や欧州各地に出かけた。
北米でも組織されたスキンヘッド集団はスクリュー・ドライバーなどに連絡を取り、バンドを結成していった。一九八〇年代後半、アメリカ各地でホワイト・パワー・スキンヘッド・バンドが登場した。ミッドタウン・ブーツボーイ、バリー・ボーイズ、バインド・フォー・グローリィ、アグレヴァイテド・アソールト(刑罰加重された襲撃)、マックス・レジストなどがパンク・シーンに登場し、パンク・サブカルチャー内でのスタイルを確立した。
一九九〇年代には、レジスタンス・レコードが発足し、音楽雑誌も発売し、オンラインでの楽曲提供も始めた。レジスタンス・レコードは毎年六万から一〇万枚のレコード売り上げを誇った。
これまでのホワイト・パワー音楽の大半はネオナチ・スキンヘッドであるが、アコースティック・フォーク演奏のアーティストや、ヘヴィメタル・ロックも増加している。スキンヘッド集団やホワイト・パワー集団の支持によってコンサートも各地で開催されてきた。

2 ホワイト・パワー音楽への道

 ギルモアによると、アメリカでのホワイト・パワー・ロックンロールはグローバルな経済変動の波を受けて白人労働者階級の間から始まった。白人サブカルチャーの世界でホワイト・パワー音楽は、若者たちに自分たちこそ支配的地位にあったのだというファンタジーを提供する。より大きな白人優越主義運動との繋がりをつけてくれる。ギルモアのインタヴューに応じたある人物は「北米では若者の多くが何らかの白人のための活動にかかわっているのは、音楽のおかげさ。監獄の連中だって、アーリア連合のアイデンティティ文書を入手しているだろう。音楽のためじゃなかったら、こんなに多くの若者がパンフレットや歴史家の意見なんかかに魅きつけられはしないよ」と述べる。
 ホワイト・パワー運動のなかでの集団活動を提供するのが音楽ライブ・イベントであり、集団に共通の絆を作りだす。コンサートは単なる音楽会ではない。あるホワイト・パワー音楽家は次のように語る。「音楽は人びとの魂を揺さぶり、共通の関心を提供する。音楽は白人のための運動の情景を作り出す。ショーは単なるコンサートではない。ナチス党がビヤホールで結成されたのも同じことだろう」。

3 ホワイト・パワーの歌詞

 ギルモアは白人至上主義音楽雑誌である『レジスタンス・マガジン』に掲載された歌詞を取り上げている。一九九四年から二〇〇七年にかけて出版されたのは二七号である。同誌のトップ・テンに登場する曲は延べで一四二九曲であり、演奏したバンドは延べ四六三バンドである。スクリュー・ドライバーが一九七回であり、次いでバウンド・フォー・グローリィが一一八回、ラホーワが一〇四回、ノー・リモース/ポール・バーンリィが七六回、「残忍な攻撃」が七〇回、「青い目の悪魔」が四七回である。
 発売されたアルバムの表紙には典型的なデザインが施されている。筋肉派のスキンヘッドが武器を取っている姿、バイキングの戦闘シーン、暴力シーン、ナチスの写真やイラスト、第三帝国の宣伝ポスターや、強制収容所の写真をもとにしたデザインもある。
 ギルモアによると、ホワイト・パワー音楽の歌詞に頻繁に登場するのは、経済的社会的条件が低下させられたとか、政府が白人を不公正に取り扱い、迫害しているというものである。バウンド・フォー・グローリィは「俺たちは苦難と闘いを経てきた。俺たちは殺され、奴隷化され、檻に押し込められてきた」と歌う。白人占有地域が失われ、白人のヘゲモニーが減退してきたとし、失われた白人の伝統文化を呼び戻そうとする。「断固たるヘイト」というバンドは「白人は日増しに収入を得られなくなっている。俺たち白人にふさわしい仕事がなくなったのは、黒人やユダヤ人に取られたからだ」と歌う。また、ホワイト・パワー音楽の歌詞は、標的とされた集団に対する論難となり、白人の敵と名指す。近隣で何か事件が起きるのはマイノリティ住民のせいにされる。「デイ・オブ・スウォード」は「俺たちの国は新しいアーリア人の墓を持っている。殺したのは元の奴隷だ」と歌う。黒人の路上犯罪を取り上げ、黒人の麻薬売人が白人の子どもや高齢者を餌食にすると言う。バウンド・フォー・グローリィは「嫌な暮らしを耐える、路上を歩き回る、餌食にされるイノセント、援助のない者、弱き者」と歌う。移住者も犯罪者扱いされ、財政システムを蝕む「パラサイト」と非難される。スクリュー・ドライバーは「奴らに金をやれ、奴らに仕事をやれ、イギリス白人なんて無視しろ」と歌う。
 ギルモアによると、ホワイト・パワー音楽のサブカルチャーには「陰謀論」の影響を確認できる。ユダヤ人が白人から権力を奪うという陰謀論のタイプである。陰謀論の歌詞で一番取り上げられるのがユダヤ人で、次いで政府とメディアがやり玉に挙げられる。白人至上主義者が使うのは「ユダヤ人にコントロールされたシオニスト占領政府(ZOG)」である。また、ホワイト・パワー音楽の歌詞では、同性愛者も標的とされ、しばしば物理的攻撃の対象になる。歌詞の中では同性愛者はユダヤ人の支援を受けて白人社会のジェンダー秩序を破壊する者とされる。「怒れるアーリア人」というバンドは「お前はお前のライフスタイルを宣伝し、俺たちの顔に権利とやらを押し付け、平等の権利などと言って、恥ずべき同性愛者」と叫ぶ。

4 ホワイト・パワー音楽と暴力

 ギルモアによると、標的とされた集団を非人間的に描きだすだけではなく、ホワイト・パワー音楽は特定の問題を解決するための行動計画を提起する。調査した歌詞の六八・七%が、現在のalliesを含み、直接的に聴衆に行動を呼びかける。個人による暴力行為とともに、標的とされた集団に対する集団行動として物理的な暴力の呼びかけが行われる。時は今であり、即座に行動するように呼びかける。ラホーワというバンドは「今こそ立ち上がるんだ、白人よ、立ち上がれ、俺たちが結束すれば、故郷を取り戻せるんだ」と歌う。一五〇の歌詞のうち九五が白人の敵に対する暴力行為を歌っている。スキンヘッド・バンドのミッドタウン・ブーツボーイズはアフリカ系アメリカ人に対する銃撃を歌う。「撃て、撃て、奴らを死に直面させろ、ニガーを蠅のようにたたき落とせ」と歌う。
 ホワイト・パワー音楽は人種的マイノリティによる路上犯罪を取り上げ、対抗して「俺たち大衆の正義」として自警団となるよう呼びかけ、体罰としてリンチにかけるように呼びかける。白人ホワイト・パワー・バンド「凶暴な戦士」は「裁きの日が来た、アメリカ人が死刑を言い渡すんだ」と歌う。
 ホワイト・パワー音楽の歌詞では、犯罪的暴力が中立化される。ほぼ八〇%が敵に対する暴力行為を正当化している。暴力の被害を受ける者にとっての運命だと言う。
 ホワイト・パワー音楽は伝統的に男性支配的であり、宣伝もこれに対応している。歌詞の大半が男性中心的世界観に貫かれ、「兄弟たちよ」という呼びかけが多く用いられる。マックス・レジストというバンドは文字通り「白人男性」という歌をこのんで歌う。一五〇のうち白人女性を歌うのは一一曲にすぎない。白人女性には白人同士の人間関係が求められる。人種を超えた性的関係を持った女性は「売春婦」という特徴を与えられる。怒れるアーリア人は「お前の体は汚れてしまった、もう純潔じゃない、ニガーを愛する売春婦」と歌って、彼女の処刑を呼びかける。白人女性は「白人女性を守り、白人社会を守る」という白人男性の行為を動機づけるための客体として描かれる。「ファイナル・ウォー(最終戦争)」というカリフォルニアのバンドは、妻と子どもを守る「誠実な男」を主題に、「戦うべき理由があるんだ」と鼓舞し、息子に向かって「炎を持っているのは今やお前だけだ、やり抜くんだ、俺たちが勝利する日まで」と歌う。

5 ホワイト・パワー音楽の影響力

ギルモアは、音楽を通じてフラストレーションを解消するホワイト・パワー音楽が、参加者にとって「問題解決」の道筋を示す機能に注目する。仲間と共感し、兄弟愛(同志感情)を持ち、支配的な文化や社会的価値を拒絶する。伝統的社会が集団による暴力や革命によって実現されるというファンタジーが描かれる。標的とされる集団を非人間化し、モンスターであるとし、白人の生存に対して脅威となる陰謀を指弾する。それゆえ、白人至上主義者が組織する犯罪を正当化しようとする。
ギルモアによると、組織された白人至上主義には長い歴史があり、匿名の若い白人男性に影響を与えてきた。しかし、その社会の支配的イデオロギーや社会関係から独立しているとは考えられない。ホワイト・パワー音楽の歌詞がファンタジーに見えるにしても、組織された集団の白人男性は構造的政治的条件を現実に変化させようとしている。その創造的努力において、ホワイト・パワー音楽は集団的に経験された社会資源を同一化させる。結果として、政治的メッセージを流布し、他者を集団行動に駆り立てるのである。

以上は下記の論文を簡潔に紹介したものである。

Colin Gilmore, Hate Rock: White Supremacy in Popular Music Forms, in: Randy Blazak(ed.), Hate Crimes Volume 4. Hate Crime Offenders, Praeger Perspectives, 2009.

ヘイト・スピーチの法的研究を読む(4)

金尚均編『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)第Ⅱ部「表現の自由とヘイト・スピーチ」の第5章「表現の自由の限界」(小谷順子)は、ヘイト・スピーチの憲法論の基本的な整理をしている。この間、ヘイト・スピーチが話題になる中、憲法学者による思い付きコメントはいくつ見られたが、憲法論をきちんと整理した文章がようやく出たという印象だ。著者は静岡大学教授・憲法学。
小谷は、憲法21条が保障する「表現」の意味を確認したうえで、「表現内容規制」について、刑事法(わいせつ表現、脅迫表現、名誉毀損表現等々)、民事法(損害賠償)、人権法(国内人権機関)の現状と論点を整理し、「行為」規制と集団行動の規制について検討する。さらに、表現の自由の保障意義に照らして、民主主義過程(自己統治)論、個人的価値(自己実現)論、真実の発見/思想の自由市場論を踏まえてヘイト・スピーチ規制の限界を論じている。むすびで小谷は次のように述べる。
「現行法制度において一定の表現規制が許容されていることを考慮すると、ヘイト・スピーチ規制についても、なんらかの論理で正当化することが可能であるようにも思われる。とくに、表現の自由の保障意義に照らした場合、民主主義過程、個人的価値、および『思想の自由市場』という意義のいずれにおいても、ヘイト・スピーチ規制の正当化は可能であるように思われる。しかし、それでもなお規制消極論が有力に唱えられているのはなぜなのか。次の第6章でみていく。」

16ページの論文に重要論点が詰まっている。これだけの論点を整理して論じるのはなかなか大変だ。私もこの間、ヘイト・スピーチの憲法論について何度も文章を書き、発言してきた。その主要部分は憲法学への外在的批判である。内在的な批判も試みはしたが、まだできていない。これからの課題と考えていた。小谷は、これまでの憲法学の論理に従って内在的に検討しながら、ヘイト・スピーチ規制の可能性を論じている。その意味で、とても参考になる。同じ枠組みで、私なりに考える必要がある。

日本版レイシストと闘うために

韓国民団中央本部編『ヘイト・スピーチを許してはいけない』(新幹社、2014年)
安田浩一「ヘイト・スピーチを駆り立てる『在日特権』の正体――歪んだ『正義感』が作り上げた妄想」
有田芳生「ふたたび、奴らを通すな!――日本版レイシストと闘うために」
師岡康子「国際人権基準からみたヘイト・スピーチ規制問題」
金展克「2013年、新大久保で起きた出来事について」

ジャーナリスト、参議院議員、弁護士、カウンター行動メンバーとしてレイシズム、ヘイト・スピーチと最前線で闘ってきた4人の著者による報告であり、理論武装の書である。手にしやすいコンパクトな本であり、同時に国際人権基準を踏まえているので、カウンターの現場にも力になる1冊だろう。表紙には、差別撤廃東京大行進の宣伝チラシのデザイン、裏表紙にはプラカードアクション「仲良くしようぜ」。

Wednesday, September 24, 2014

ヘイト・スピーチの法的研究を読む(3)

金尚均編『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)第部「表現の自由とヘイト・スピーチ」は、3本の論文を収める。
第4章「表現の自由とは何か――或いはヘイト・スピーチについて」(遠藤比呂通)は、「アウシュヴィッツが二度とあってはならないということは、教育に対する最優先の要請です」というアドルノの言葉を引用して、この視点から「表現の自由とヘイト・スピーチ」について再検討する。それは「日本国憲法下の表現の自由を考えるとき何よりも重要なのは、民主主義と憲法9条の思想的連関を明らかにすることであろう」と述べる。実に重要な指摘である。
その具体化として、京都朝鮮学校事件について、「人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動を違法であると禁止する必要は、攻撃にさらされる立場からすれば、あまりにも当然なことなのである。/それができないのは、本当に表現の自由の観点からみて問題があるからなのだろうか。/『日本国憲法下の表現の自由』からすれば、そうではない。/日本において、アウシュヴィッツに匹敵する『南京大虐殺』や『従軍慰安婦』について、戦争責任の追及も戦後責任の追及も余りに不十分であるからなのではないだろうか。」と述べる。
遠藤はかつて差別的表現の刑事規制に消極的だったが、所説を改めて、「苦しみを受けている被害の再発がどの程度抑止できるのか」という問いに向き合い、結論として、「まず、公人による『慰安婦』に対するヘイト・スピーチを禁止することを緊急にやらなければならない」という。
遠藤は大阪の西成法律事務所の弁護士だが、かつて東北大学の若き憲法学助教授だった。切れ味鋭い理論法学者の地位を捨てて、西成で弁護士となり、人権擁護に邁進している。現実に向き合い、現場で人権論を展開してきた経験を踏まえて、ヘイト・スピーチ規制を唱えるようになった。著者の『希望への権利』も好著である。
http://maeda-akira.blogspot.jp/2014/09/blog-post_8.html
<コメント>
第1に、被害から議論を始めることの重要性に気づいたことが改説の最大のポイントであろう。被害にどう向き合うか。この当たり前のことを平然と無視する憲法学者が多い。――私が被害実態を事実根拠、憲法及び人種差別撤廃条約を法的根拠としてヘイト・スピーチ処罰を唱えつつ、欧州諸国の法律状況を紹介した論文を、ある憲法学者が批判しているが、この憲法学者は被害にまったく言及せずに「外国で処罰しているから日本でも処罰しろと言う議論にはならない」などと馬鹿げたことを書いている。被害認識が完全に欠落している。遠藤は的確に被害から出発している。
第2に、ヘイト・スピーチと憲法9条の関係を問う立場が明確であり、重要だ。賛成である。これまで、私は「ヘイト・スピーチの憲法論」として、
(1)解釈の基本原理として、憲法前文の平和主義と国際協調主義、
(2)憲法13条の人格権、
(3)憲法14条の法の下の平等、
(4)憲法21条の表現の自由と憲法12条の「権利に伴う責任」、
(5)マイノリティの表現の自由、
以上を根拠に「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰する」と主張してきた。まだ、この主張に対する賛成論文も反対論文も見ていない。市民運動の現場では好評だが、憲法学者から無視されてきた。遠藤の「憲法9条とヘイト・スピーチ」という視角は私の主張と相当程度重なっていると思う。遠藤の指摘に学びつつ、私の主張をさらに補強したい。
第3に、「慰安婦」に対するヘイト・スピーチである。2013年の社会権規約委員会の勧告を引用して、人種差別撤廃条約第4条(c)を日本は留保していないので履行すべきと言う。今年の自由権規約委員会勧告、及び人種差別撤廃委員会勧告から言っても、ヘイト・スピーチの処罰、特に「慰安婦」に対するヘイト・スピーチ処罰が必要である。私はこの論点では、「慰安婦の嘘」処罰法を作ろうという論文を書いて、日韓条約50周年キャンペーンのシンポジウムで発表した。遠藤も同じ発想であることに、勇気づけられる。
第4に、遠藤は、「表現の自由」派の第一人者である奥平康弘の議論を引用しつつ、「耐え難い人間の尊厳の侵害が行われている事実を前にすれば、奥平氏の実際の立場はともかく、規制積極論の論拠に転換しうる」と指摘している。ヘイト・スピーチ規制消極派の論述にも、積極論に転換しうる点を見出す姿勢は重要だ。私は奥平説を批判・克服の対象としてしか見てこなかったが、それでは単純すぎる。遠藤に倣って、既存の憲法学への批判の仕方を再考する必要がある。

Tuesday, September 23, 2014

ヘイト・スピーチの法的研究を読む(2)

金尚均編『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)第部「日本におけるヘイト・スピーチ」は、法的研究の前提となる現状把握である。
第1章「ヘイト・スピーチとレイシズムの関係性」(森千香子)は、「思想」としてのレイシズムと「表現」としてのヘイト・スピーチという対比はわかりやすいが、その関係はそれほど自明ではないとして、両者の関係を問い直す。そのためにレイシズムの歴史をさかのぼるとともに、草の根のレイシズムと上からのレイシズムについて論じる。レイシズムの多様性を手掛かりに、その実相に迫る試みである。実際、西欧の研究の中では「エリート・レイシズム」の研究もあり、不況やストレスに悩む民衆のレイシズムとは区別されている。国家政策としてのレイシズムが民衆を巻き込み、操作していくプロセスに光を当てることも重要だ。
第2章「新保守運動とヘイト・スピーチ」(安田浩一)は、在特会のヘイト・デモ、ヘイト・スピーチの取材経験を通じて、なぜ、彼らがヘイト・スピーチをするのかを探る。
第3章「ヘイト・スピーチとその被害」(中村一成)は、京都朝鮮学校事件を素材に、被害の多面性と広がりを確認し、民事訴訟で勝訴したが、法廷で再び差別発言を浴びせられるなどの被害もあったことを明らかにしている。
加害側を追跡する安田と、被害側を紹介する中村の論述を通じて、ヘイト・スピーチとは何であるのかが見えてくる。

ヘイト・スピーチとは何であるのかは論者の定義にもよるが、本書では、文字通りスピーチとしてのヘイト・スピーチに限定して論じているようである。本書「はしがき」でも第部でもその定義を示していない。ただ、「はしがき」や帯の宣伝文句から判明するのは、「差別的表現」とヘイト・スピーチとを区別しようとしていることである。この区別の成否は第部以下を読まないとわからない。

Monday, September 22, 2014

ヘイト・スピーチの法的研究を読む(1)

金尚均編『ヘイト・スピーチの法的研究』(法律文化社、2014年)が出た。編者を含む7人の執筆者による意欲的な研究である。社会学者1人、ジャーナリスト2人、そして法律研究者が4人である。これから各章を読んで勉強していきたい。
■執筆者紹介
千香子(もり・ちかこ) 1 章、1972年生.フランス社会科学高等研究院社会学研究科博士課程修了/博士(社会学)、現在,一橋大学大学院法学研究科准教授。〔主要業績〕『国境政策のパラドクス』(勁草書房,2014年/共編著),『レイシズムと外国人嫌悪』(明石書店,2013年/共著)
安田 浩一(やすだ・こういち) 2 章、1964年生.慶應義塾大学経済学部卒業、現在,フリージャーナリスト。〔主要業績〕『ネットと愛国』(講談社,2012年),『ルポ 差別と貧困の外国人労働者』(光文社,2010年)
中村 一成(なかむら・いるそん) 3 章、1969年生.立命館大学文学部卒業
現在,フリージャーナリスト。〔主要業績〕『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』(岩波書店,2014年),『声を刻む』(インパクト出版会,2005年)
遠藤 比呂通(えんどう・ひろみち) 4 章、1960年生.東京大学法学部卒業、現在,弁護士。〔主要業績〕『人権という幻』(勁草書房,2011年),『不平等の謎』(法律文化社,2010年)
小谷 順子(こたに・じゅんこ) 5 章・第 6 章、1972年生.慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学、現在,静岡大学人文社会科学部教授。〔主要業績〕『現代アメリカの司法と憲法』(尚学社,2013年/共編著),『表現の自由Ⅰ』(尚学社,2011年/共著)
櫻庭 総(さくらば・おさむ) 7 章・第 8 章、1980年生.九州大学大学院法学府博士後期課程修了/博士(法学)、現在,山口大学経済学部准教授。〔主要業績〕『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服』(福村出版,2012年),『歴史に学ぶ刑事訴訟法』(法律文化社,2013年/共著)

金 尚均(キム・サンギュン)*編者 9 章・第10章、1967年生.立命館大学大学院法学研究科博士後期課程中退、現在,龍谷大学大学院法務研究科教授。〔主要業績〕『ドラッグの刑事規制』(日本評論社,2009年),『危険社会と刑法』(成文堂,2001年)

「最終課題Zからの発想」展

来年3月に退職する同僚とその弟子たちの退任記念「最終課題Zからの発想」展が開催されているので、覗いてみた。沖健次は倉俣史朗の弟子だ。また、大橋晃朗や多木浩二に学んだデザイナーだ。内田繁と一緒の仕事も多いようだ。

クラマタデザイン事務所アシスタント勤務時代のことは昨年インタヴューした。デザイナーとして活躍した後、教員として学生を育て、今回、弟子たちを呼び集めての展覧会だ。Zからの課題とは、造形大のZ、零のZ、アルファベット最後のZ、座標軸のZなど、それぞれが理解するZの意味をこめて出展してもらったという。出展したのは、32デザイナーたち。小林務、天野善啓、清水桜子、丹下紘希(映像監督)、本田圭吾、酒匂克之、佐野有子(陶芸家)、伊藤雅子(舞台美術家)、宮崎祥江、高崎太介(アートディレクター)、阿部誠司、井上聖子、小泉忍、大浦雲平(ファッションデザイナー)、松本寿子(靴作家)……。建築設計、家具、インテリア、ファッション、映像など多彩な作品がずらりと並ぶ。

Sunday, September 21, 2014

大江健三郎を読み直す(29)『悪霊』が読まれるべきとき

大江健三郎『壊れものとしての人間――活字のむこうの暗闇』(講談社文庫、1972年)

1970年2月に講談社から出版された単行本を文庫化した際に<自注と付録>が追加された。単行本を読んだかどうか記憶していないが、たぶん図書館で手にしたのは単行本だっただろうと思う。もっとも、<自注と付録>を読んでいるから、学生時代に文庫版を読んだのだろう。想像力、言葉の力、言葉の恐怖、言葉による拒絶、政治と文学、「核専制王朝」、世界の終り、強制収容所……。スタイロン、ルフェーブル、アプダイク、ラブレー、ソール・ベロー、メルヴィル、サルトル、ロブ=グリエ、ノーマン・メイラー、フランツ・ファノン……。大学1年の教養ゼミで現代アメリカ文学を読みふけっていたため、当時の大江の世界に登場するアメリカの作家はかなりなじみがあったが、フランスの作家はまったく読んでいなかった時期だ。いずれにしても、本書の記憶は<自注と付録>における「核時代の『悪霊』、または連合赤軍事件とドストエフスキー経験」の部分に限られる。これは連合赤軍事件を前に、大江が埴谷雄高に向けて語った記録の抜粋だ。高橋和巳が亡くなった前後から考えていたことも含まれていて、時代を感じさせる。『悪霊』はその20数年後、オウム真理教事件の頃にも再び脚光を浴びた。世界文学を代表する作品だから、いつでも読まれて当然だが、とりわけ『悪霊』が読まれなければならないときというものがあるような気がする。グローバル・ファシズムが吹き荒れる今、まさに『悪霊』を私たちはどのように読むのか。重い課題だ。

Saturday, September 20, 2014

「大衆の原像」から「大衆の幻像」へ

竹内洋『大衆の幻像』(中央公論新社、2014年)は「超ポピュリズム時代の希望とは」と問いかける。3.11以後の日本社会に蔓延する反知性主義、排外主義、ナショナリズム、ポピュリズム、そして超ポピュリズム。かつて吉本隆明は「大衆の原像」というちゃぶ台返しによって知識人論を混乱させ、崩壊に導いた。取り残された知識人たちの動揺と混迷は戦後民主主義の限界を示すものだった。それでも「知識人と大衆」という枠組みは必然的に残る。文化人と呼び換えようが、大学人や研究者と言おうが、実質は変わらない。竹内は「大衆高圧釜社会」、「大衆御神輿ゲーム」の時代の殺伐とした風景を描くことから始める。そして、メディア知識人論として、清水幾多郎、吉本隆明、加藤秀俊をとりあげ、歴史に見る知識人として、正力松太郎、徳富蘇峰、岩波茂雄を取り上げる。また「自分史から見る」として、大学の変容、教養主義の死滅を語る。
「不定形で移り気で不気味な大衆は、メディアこそがつくっているのだ。したがって、メディアが生み出す『国民』や『民意』の大半は、メディアチックな大衆をもとにした『幻像としての』国民、『幻像としての』民意である。ポピュリスト政治家というのは、このようなメディアチック、まさしくメディオ(凡庸)チックな大衆人の幻像に振り回されながら、人々を大衆人に作り上げていくことに大きく手を貸す輩である。幻想としての大衆や民意と戯れることで利益を得る商人政治家である。/保守の指導者は、メディアが掬い上げていないし、掬い上げることもできない庶民を遠望する想像力をもって、草の根保守の心に響き合うものであってほしい。自ら身を匡し、粛々と率先垂範する姿である。その姿が草の根保守の心の習慣と響き合う。それこそが、日本型ノブレス・オブリージュの真髄というものではなかろうか。」

言わんとすることはよくわかる。ただ、著者のいう「庶民」や「草の根保守」が『幻像』でない保証はどこにもない。

福島原発かながわ訴訟団資料集

福島原発かながわ訴訟を支援する会第1回通常総会と学習会(トライアルセミナー)に参加した。「暮らしを返せ!!ふるさとを返せ!!」を合言葉に、神奈川県に避難している被災者が提訴した訴訟は、本年1月29日に第1回公判から、5月28日の第3回公判まで進んでいる。
同種の訴訟は、福島、東京、千葉、札幌、山形、新潟、前橋、名古屋、京都、大阪、神戸など各地の地方裁判所に提訴されている。まともな政府ならば、被災者がこのような訴訟を苦労して起こす必要はないはずだが。
横浜地裁での訴訟を支援するために「支援する会」が結成された(略称「ふくかな」)。支援する会結成にあたって呼びかけ人を募ったので、私も呼びかけ人に加えていただいた。呼びかけ人は、阿部浩己(神奈川大学法科大学院教授)、伊藤成彦(中央大学名誉教授)、井戸川克隆(前双葉町町長)、おしどりマコ・ケン(記者・芸人)、神田香織(講談師)、後藤政志(元原発設計技術者)、田中利幸(広島市立大学教授、原発を問う民衆法廷判事)、吉原毅(城南信用金庫理事長)など34名。
原告団は、総会に向けて、資料集を作成した。
『福島原発かながわ訴訟団資料集 暮らしを返せ!!ふるさとを返せ!!』(1000円+税)

資料集には、(1)原告9名の手記、(2)訴状及び答弁書、(3)資料が収録されている。A5版で216頁の資料集で、特に訴状は100頁あり、とても充実している。福島原発問題に関心のある方には必読書と言ってよいだろう。

Tuesday, September 16, 2014

ヘイト・クライム禁止法(86)ベラルーシ

ベラルーシ政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/BLR/18-19. 15November 2012)によると、行政刑法及び刑法が、人種、民族、宗教的憎悪に基づいて行われた行為に関する責任を定めている。行政刑法第九条二二項は、ベラルーシ 語及びその他の言語の公然たる侮辱又は中傷、その言語使用の妨害又は制約、言語を理由とする憎悪の唱道には責任が生じるとしている。行政刑法第七条三項は、人種、民族、宗教的憎悪に基づいた行政犯は刑罰加重事由としている。刑法第一九〇条は、平等を含む憲法上の権利と自由の剥奪は刑事責任を生じるとしている。刑法第一三〇条は、人種、民族、宗教的憎悪又は不和の煽動は責任を生じするとする。一項は、人種、民族又は宗教的敵意又は不和の煽動に向けられた犯罪である。二項は、人種、民族又は宗教的敵意又は不和の煽動に向けられた犯罪が、暴力を 用いて、又は公務員が権力を行使して行った場合である。三項は、一項及び二項の犯罪が集団によって行われ、人の死を惹起した場合である。人種、民族又は宗教的憎悪又は不和、一定の社会集団に対する政治的イデオロギー的敵意又は憎悪に基づいて犯罪を行った場合の責任として、ジェノサイド(刑 法第一二七条)、人道に対する罪(刑法第一二八条)、殺人(刑法第一三九条)、故意の重大傷害(刑法第一四七条)を定める。
人種差別に基づいて行われた刑法犯は、四件(二〇〇三年)、二件(二〇〇六年)、一件(二〇〇八年)、一件(二〇〇九年)である。刑法第一三〇条で有罪とされた人員は、刑法第一三〇条一項(人種、民族又は宗教的敵意又は不和の煽動に向けられた犯罪)は、一名。同条二項(人種、民族又は宗教的敵意又は不和の煽動に向けられた犯罪が、暴力を用いて、又は公務員が権力を行使して行った場合)は、一名(三年の刑事施設収容)。同条三項(一項及び二項の犯罪が集団によって行われ、人の死を惹起した場合)は、四名であり、うち二名は五年の刑事施設収容、残りの二名は八年であった。
二〇〇四年四月、ホミエルで民族紛争を煽るパンフレット五〇〇〇部を押収し、破棄した。二〇〇四年五月、「ロシア国民統合」という地方団体とその指導者が同様の嫌疑で行政犯の責任を問われた。二〇〇六年、ムスリム・コミュニティの指導者から検事局に、新聞『ゾーダ』が預言者マホメットを嘲笑するイラストを掲載したと通報があり、刑法第一三〇条に該当するため刑事手続きが開始された。二〇〇八年から〇九年にかけて、「キリスト教イニシアティヴ」という会社が、「汚い戦争」「ロシアの殺人者を裁く」「ユダヤ人と非ユダヤ人」などの書物を流布して、ユダヤ人の名誉と尊厳を侵害し、民族憎悪を煽動した。二〇〇八年一二月、ミンスクの地方裁判所はこれらの著作を過激文書と判断した。二〇〇九年反過激主義法に基づいてこれらの著作を押収し、「キリスト教イニシアティヴ」の販売所を閉鎖し、団体は解散となった。

人種差別撤廃委員会はベラルーシ政府に次のように勧告した(CERD/C/BLR/CO/18-19. 23 September 2013)。条約第四条に合致した、人種差別煽動を禁止する包括的な特別法がない。ヘイト・スピーチと戦う法律が存在しない。条約第四条に関する一般的勧告一五(一九九三年)を想起し、直接形態でも間接形態でも人種差別を禁止し、人種主義団体、人種主義ヘイト・スピーチ、人種暴力の煽動を犯罪とし、人種主義ヘイト・スピーチを刑罰加重事由とする包括的立法を行うよう勧告した。反過激主義法の解釈が非常に広汎な方法でなされている。条約の諸原則を厳格に理解して、反過激主義法の解釈と適用を行い、人種差別撤廃のために活動する人権擁護者の不利益にならないようにするべきである。反過激主義法の解釈と適用に関する具体的状況を報告するよう要請する。

Sunday, September 14, 2014

ヘイト・クライム禁止法(85)スロヴァキア

スロヴァキア政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/SVK/9-10. 27  August 2012)によると、二〇一一年六月二七日、政府の常設専門機関として「レイシズム・外国人嫌悪・反対ユダヤ主義予防撤廃委員会」が発足した。委員は三二人であり、そのうち一二人は市民社会代表、三人は独立した専門家である。政府は二〇一一年に過激主義と闘う規則三七九号を承認した。
二〇〇九年、人種主義的動機による犯罪は一三二件であった。六八件は処理済である。七九人の犯罪者が有罪となったが、うち一五人が少年であった。刑法第四二三条(国民、人種、信念の中傷)が七件である。刑法第四二四条(国民的、人種的、民族的憎悪の煽動)が九件である。刑法第四二一条(基本権と自由の抑圧を目的とした集団の支援・促進)及び刑法第四二二条(過激文書の制作、流布、所持)が一一二件である。
二〇一〇年、人種主義的動機による犯罪は七九件であった。四八件は処理済である。七九人の犯罪者が有罪となったが、うち一〇人が少年であった。刑法第四二一条(基本権と自由の抑圧を目的とした集団の支援・促進)及び刑法第四二二条(過激文書の制作、流布、所持)が七一件であった。刑法第四二四条(国民的、人種的、民族的憎悪の煽動)が二件である。刑法第四二四条(a)(人種、国民、国籍、皮膚の色、民族的出身、家族的出身に基づく人に対する煽動、中傷)が一件であった。
二〇一一年、人種主義的動機による犯罪は二四三件であった。一〇七件は処理済である。七九人の犯罪者が有罪となったが、うち一〇人が少年であった。刑法第四二一条(基本権と自由の抑圧を目的とした集団の支援・促進)及び刑法第四二二条(過激文書の制作、流布、所持)が二二七件であった。刑法第四二四条(国民的、人種的、民族的憎悪の煽動)が六件である。刑法第四二四条(a)(人種、国民、国籍、皮膚の色、民族的出身、家族的出身に基づく人に対する煽動、中傷)が一件であった。
警察はロマ、ユダヤ人、EU以外からの移住者に対する暴力の防止に努め、過激な右翼による集会を監視している。警察活動の明確化のため、過激主義を五つに分類している。①右翼過激主義(レイシズム、ファシズム、ナチズム等)、②左翼過激主義(アナーキズム、反グローバリズム等)、③宗教的過激主義、④エコロジカル過激主義、⑤スポーツにおける暴力、である。近年、スポーツ・イベント参加者による暴力や過激主義の表明が増加している。レイシスト、フーリガンと称して、フットボール・ファンの一部が右翼過激主義に加わっているが、特定の指導者や集団によるものではなく自然発生的である。

人種差別撤廃委員会はスロヴァキア政府に対して次のように勧告した(CERD/C/SVK/CO/9-10. 17 April 2013)。過激主義と人種的動機による犯罪が混合しているため、それぞれについての詳細が明らかでない。ヘイト・クライムを訴追し、人種主義団体の活動を抑制するための効果的措置を講じるよう勧告する。人種主義団体への資金援助や参加を犯罪とするよう勧告する。ヘイト・クライムの発生件数、性格、判決、年齢、ジェンダーなどの統計データを報告するよう要請する。メディアとインターネットにおけるヘイト・スピーチが増加しているという。ソーシャル・ネットワークやスポーツ分野でロマやハンガリー人、市民でない者を標的としたヘイト・スピーチが見られる。マイノリティや外国人に対する人種憎悪を煽動した個人や集団を特定し、政治家やメディアによるヘイト・スピーチを操作し、制裁を科すように勧告する。マイノリティに対するヘイト・スピーチなどを監視する独立機関がない。政治家による犯罪を捜査するための独立機関を設置するよう勧告する。人種的動機による全ての犯罪が国内法と条約に沿って訴追されるよう迅速な措置を講じるよう勧告する。

Saturday, September 13, 2014

ヴァロットン展――冷たい炎の画家

三菱一号館美術館で「ヴァロットン――冷たい炎の画家」展を観てきた。1865年にスイスのローザンヌ生まれでパリで活躍した画家(~1925年。なお、1900年にスイス国籍取得のままフランスに帰化、という)のため、ジュネーヴ美術館、ローザンヌ美術館、チューリヒ美術館などでいくつも見てきたが、まとめてみるのは初めてだ。初期にはナビ派に属したヴァロットンだが、やがて独自の道を歩む。画家としての地位を確立する前に、ジャーナルの世界で版画作品を発表しているが、そこには社会批判が込められている。モンブラン、マッターホルンや、「楽器」シリーズとは別に、「アナキスト」「学生たちのデモ行進」「暗殺」「街頭デモ」「突撃」「処刑」「自殺」、そして「これが戦争ダ!」シリーズ。今回初めて知った。
ヴァロットンの代表作と言えば、第1に、奇妙な静けさの裸婦像だ。「赤い絨毯に横たわる裸婦」「オウムと裸婦」「秋」。あるいは、「アフリカの女性」「赤い服を着たルーマニア女性」「海からあがって」。美人像ではなく、世界を見返すまなざしの女性たち。第2に、「ボール」に代表される、写真を活用した作品だ。異なる視点の写真を組み合わせて、不安定な構図の中に情景を描く。一見すると普通の光景だが、良く見ると不安になってくる。第3に神話ものだ。「竜を退治するペルセウス」「憎悪」「引き裂かれるオルフェウス」もジュネーヴで何度も見てきた。ここでも女性は美から切り離されている。
ヴァロットンが所有していた浮世絵も展示されていた。山水画や、海老蔵と団十郎、そして漫画挿絵(北斎漫画と似ている)。浮世絵の影響をどのように見るのか、型録には杉山菜穂子(同館学芸員)の解説論文「ヴァロットン――ジャポニスムの画家?」が掲載されている。

私の授業で「スイスの美術館」を始めた所なので、ここ数年、クレー展、セガンティーニ展を愉しんできたが、今年はこれからチューリヒ美術館展、ホドラー展と続く。今年は日本とスイスの国交樹立150周年だそうだ。有名どころもいいが、授業ではスイスゆかりの女性アーティストにも光を当てようと準備している。

やまとんちゅ必読! 新しい琉球独立宣言

松島泰勝『琉球独立論――琉球民族のマニフェスト』(バジリコ、2014年)
なぜいま独立なのか!
琉球人教授が書き下ろした、植民地琉球の歴史と現状、
そして独立への道。
在琉米軍基地の集中とそれによるリスクの集中。「補助金」というもので本当に琉球人は潤っているのか。
全ての日本人の問題として考えさせられる労作。
            *
8月29日に公表された人種差別撤廃委員会の日本政府に対する勧告は、琉球に対する差別の現状を前にして、琉球民族の先住民族性を検討することを要請している。
他方、スコットランドの独立の是非をめぐる住民投票が世界の話題を集め、いったんは落ち着いていたはずのカタロニアの独立運動にも火がついている。
植民地支配への抵抗、地域間格差と差別への不満、自決権・自己決定権への希求……さまざまな要因から、自分を変え、独立をめざし、世界を変えようとする動きである。
本書は、まず琉球王国と琉球処分の歴史を概説する。歴史の中に琉球独立の根拠を見るためである。次のなぜいま独立なのかとして、植民地の実態を示す。アメリカと、その属国である日本が、琉球をいかに差別し、抑圧してきたか。琉球の人々がいかに異議申し立てをしても、基地はなくならない。次に独立論との関連で、琉球のナショナリズムを論じ、これまでの独立論(居酒屋独立論を含む)を検証し、さらに独立論への批判に応答する。最後に現代国際法における先住民族、自決権、自己決定権に立ち入り、とりわけ太平洋地域における海洋小国の独立を手掛かりに、琉球独立の国際法的根拠と現実的根拠を明示する。
著者は琉球民族独立総合研究学会を立ち上げ、共同代表となっている。学会は、琉球民族による琉球独立を理論的かつ実践的に研究するので、会員は琉球民族に限定されている。これを排外主義と批判する声もあるようだが、誤解である。抑圧し、基地を押し付けているやまとんちゅが乗り込んで引き回したりしてはならない。学会に入らなくても、琉球独立論議に参加できるし、琉球独立に協力もできる。
何が何でも琉球に米軍基地を押し付けると決めているやまとんちゅの一人であることに恥を覚えつつ、私は本書に学び、その主張を支持し、本書を推薦したい。
著者は太平洋の海洋小国の研究者でもあり、『ミクロネシア』の著者であり、グアムやパラオに在住歴がある。私は『軍隊のない国家』調査のためミクロネシア、メラネシア、ポリネシアをまわってきた。ただそれだけのことだが。
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なお、後田多敦『琉球救国運動――抗日の思想と行動』(出版舎Mugen、2010年)
知念ウシ 與儀秀武 後田多敦 桃原一彦 著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』(未来社、2012年)



Friday, September 12, 2014

大江健三郎を読み直す(28)作者の想像力と読者の想像力

大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』(新潮文庫、1975年[新潮社、1969年])
『万延元年のフットボール』から『洪水はわが魂に及び』に至る過程での、中編と短編を構成してひとつながりの作品としたものだ。詩人となることを断念した大江自身が書いた「詩のごときもの」を核として書かれた3つの短編「走れ、走りつづけよ」「核時代の森の隠遁者」「生け贄男は必要か」。そして、オーデンとブレイクの詩を核とする2つの中編である「狩猟で暮らしたわれらの祖先」「父よ、あなたはどこへ行くのか?」。
障害を持って生まれた息子と大江と妻の苦闘する生活世界。核時代の狂気と絶望を前に生き延びようとする思想。外部から襲いかかる不条理。文芸評論家の渡辺広士は「大江健三郎が見つめる問題は、この時期に、ますます複雑で、内的で、難解晦渋なものとなってきたということである。人間内部の暗い深層の次元に属し、しかも一つの答えを得ることのできない両義的な問題に、足を踏みこんでいる小説家がここにいる」と言う。
さまざまな読みが可能な作品だが、現在から振り返ると、やはり父と大江、大江と息子の3代にわたる「父と子」のテーマが浮かび上がる。晩年の最新作『水死』にまっすぐつながっているからである。

学生時代に読んだ時には、本作以後の作品を読んでいなかったので、「父と子」のテーマをさほど意識せずに読んだ。むしろ、『万延元年のフットボール』に登場したシチュエーションとしての四国の森の奥や、登場人物としての隠遁者ギーに関心を向けながら読んだように思う。そして<核時代>と、<四国の森の奥>、<森の力>との対比が分かりやすかったし、それが一貫した大江世界となっていく。次への一歩を意識的に模索し、さまざまなアンテナを張り巡らした大江の実験が、読者の想像力を上回っていたことを確認できる作品だ。

Monday, September 08, 2014

ヘイト・クライム禁止法(84)ロシア

ロシア政府が人種差別撤廃委員会82会期に提出した報告書(CERD/C/RUS/20-22.6 June 2012)によると、ロシアは条約第四条(a)(b)に従って、人種的優越性に基づく思想の流布を非難し、犯罪としている。刑法第二八〇条は過激活動の公然たる呼びかけ、第二八二条は憎悪宣伝や軽蔑、第二八二条一項は過激組織の結成、第二八二条二項は過激組織の活動の組織化を、政治、イデオロギー、人種、民族的又は宗教的憎悪に基づいて、又は社会集団に対する憎悪に基づいて行う場合を規制している。二〇〇に年の過激主義と闘う連邦法を基に、過激主義活動であって憎悪を煽動する場合も処罰対象となっている。差別的動機による憎悪犯罪の規制がなされている。
二〇〇八年から一一年の統計では、刑法第二八〇条(過激活動の公然たる呼びかけ)の捜査当局の認知件数は二九件(〇八年)、四五件(〇九年)、五一件(一〇年)、六一件(一一年)である。第二八二条(憎悪宣伝や軽蔑)は一八二件(〇八年)、二二三件(〇九年)、二七二件(一〇年)、二四二件(一一年)である。第二八二条一項(過激組織の結成)は一八件(〇八年)、一九件(〇九年)、二三件(一〇年)、一七件(一一年)である。第二八二条二項(過激組織の活動の組織化)は二四件(〇八年)、二〇件(〇九年)、二七件(一〇年)、六五件(一一年)である。暗数があるため、認知件数が現実を正確に反映しているわけではない、特に被害者必ずしも迅速に届け出るわけではないし、犯行時に動機が判明するとは限らない。
二〇一一年三月三日、ヴァシリエフ、ゴルディエフ、クヒャー及びポリャコフが、コーカサス出身、アジア系、アフリカ系の人々に対する九件の襲撃事件、及び爆発物所持について有罪を言い渡された。ヴァシリエフは殺人罪及び刑法第二八〇条(過激活動の公然たる呼びかけ)により二〇年、ゴルディエフは八年、クヒャーは一〇年、ポリャコフは七年の刑事施設収容とされた。
二〇一一年七月一一日、モスクワ軍事法廷は、殺人罪及び刑法第二八〇条(過激活動の公然たる呼びかけ)により、「国家社会主義協会」メンバー五人に終身、七人に有期の刑事施設収容を言い渡した。
内務省は、ボランティア団体の協力を得て、メディアやインターネットにおける過激犯罪実行の準備の監視を続けている。
二〇一一年三月三一日、クリミア地区捜査当局は『永遠のユダヤ人』という映像(一九四〇年、フリッツ・ヒッペル制作)をサイトから削除するようカモフニチ裁判所に申立てをした。
二〇一一年八月三一日、カレリア共和国内務省は、不祥人物がインターネットのビジネス・ニュース・サイトに、性別、人種、民族的背景に基づく憎悪を助長する投稿をしたことを認知した。
二〇一一年九月一一日、バショコートスタン共和国で、バシュキル人民に対する憎悪を助長・支持する文書をインターネットに投稿したイスマイロフに対して刑法第二八〇条(過激活動の公然たる呼びかけ)違反容疑で刑事手続きが始まった。
二〇一一年一〇月二一日、「不法移民に反対するスラブ人連盟」の過激な映像をソーシャル・ネットワークに投稿した件で、刑法第二八〇条(過激活動の公然たる呼びかけ)違反容疑で刑事手続きが始まった。
二〇一一年一一月二日、モスクワで、ナチスを積極的に支持する過激な内容のインターネット投稿について、刑法第二八〇条(過激活動の公然たる呼びかけ)違反容疑で刑事手続きが始まった。
二〇一一年一一月二二日、ベレボの町でインターネットに過激な内容の投稿をした人物について、刑法第二八〇条(過激活動の公然たる呼びかけ)違反容疑で刑事手続きが始まった。
連邦・コミュニケーション情報技術マスメディア局は、民族的憎悪煽動などの監視を継続している。二〇〇六年から一一年にかけて、一九七件について、人種憎悪の煽動があると判断し、三九件(〇六年)、四四件(〇七年)、二八件(〇八年)、三三件(〇九年)、二八件(一〇年)、二五件(一一年)の警告を発した。
人種差別撤廃委員会はロシアに次のような勧告をした(CERD/C/RUS/CO/20-22. 17 April 2013)。ロシアが過激主義組織と闘っていることは承知しているが、委員会は次のことに深い関心を有する。中央アジア出身者、コーカサス出身者、アジア系、アフリカ系などの人々に対する人種的動機に基づく暴力事件、殺人事件が増加している。路上での騒乱を煽動する人種主義活動が、ネオナチやサッカーの試合で頻発している。当局がこうした人種主義活動を十分に非難していない。裁判所が人種的動機による犯罪について刑の執行猶予を認めている。不寛容、人種主義の全ての活動を明確に非難すること、人種差別を行う過激組織と闘う努力を強化すること、刑事司法当局が人種的動機による犯罪を取り扱えるよう十分に訓練を行うこと、ヘイト・クライムの統計をきちんととること。

ヘイト・スピーチに関して、委員会は次のことに強い関心を有する。排除や優越性を主張するネオナチのような集団が増加している。政治家が人種主義的レトリックを用いて、ロマ、移住者を犯罪者扱いしている。人種差別思想がインターネットを通じて拡散されている。委員会は次のように勧告する。人種的優越性の主張や人種差別の煽動を明確に非難すること、不寛容や憎悪の煽動を行う政治家に条約第四条(c)に従って適切な制裁を科すこと、メディアが寛容を促進し民族的多様性を尊重するよう促すこと、インターネット上のヘイト・スピーチと闘うために効果的なメカニズムを設立すること。

現場で鍛えられた稀有の憲法学

遠藤比呂通『希望への権利――釜ヶ崎で憲法を生きる』(岩波書店、2014年)

私は以前『9条を生きる』(青木書店)という本を出した。9条擁護のため、9条を世界に広めるため、9条の精神を実践する生き方を選んだ人々を紹介した本だ。著者が「憲法を生きる」とは、どういう意味なのだろうと思いながら本書を手にした。
著者は、東京大学法学部助手を経て、27歳になる年に東北大学法学部助教授になり、新進気鋭の憲法学者としての道を歩み始めながら、36歳にして宣教師になるために職を辞し、釜ヶ崎の現実に取り組むために弁護士になり、法律相談を続けながら、現場で理論を組み立てながら、自らの独自の憲法学を生きている。『不平等の謎』や『人権という幻』に続く著書である。権利の主体として認められていない人々、人間扱いされていない人々、住民としても認められていない人々、ホームレス、在日コリアン、日雇労働者の側に立って闘い続けている。釜ヶ崎の絶望的な状況で闘い続けている人々の絶望と希望――本書は憲法学の恩師である芦部信喜、部落差別に取り組み続ける沖浦和光、釜ヶ崎の人々と共に生きた牧師・金井愛明、釜ヶ崎の公民権運動を闘い抜いた南美穂子。これらの人々との出会い、想い出を語りながら、その時々の事件――人権侵害、人間性の無視、人間の尊厳への攻撃との闘いを紹介するそれは同時に著者の闘いの記録である。
京都朝鮮学校襲撃事件に直面した著者は、ヘイト・スピーチへの対処の必要性を説き、正当にも次のように述べている。
「確かに、日本においてヘイト・スピーチを規制することは困難でしょう。しかし、その理由は、憲法の保障する表現の自由と規制に抵触するからではありません。アウシュヴィッツに匹敵する『南京大虐殺』や『従軍慰安婦』について、戦争責任の追及も戦後責任の追及も余りに不十分であるからなのではないでしょうか。」
「日本ではヘイト・スピーチが繰り返され、『慰安婦』の苦しみを卑小化するような政治家の発言が後を絶ちません。人種差別撤廃条約四条(c)の公の当局又は機関による人種差別の禁止には、『留保』はありません。まず、公人による『慰安婦』発言を禁止することを緊急にやらなければならないのです。」

実は著者はかつてヘイト・スピーチ規制に否定的な論文を書いていた。『自由とは何か――法律学における自由論の系譜』(日本評論社、1993年)だ。私も読んだ。優れた研究書だが、現実とは関係のない学者の頭の中だけの研究書だ。本書では、その中から引用して、「見解の変更」と明言している。しかも、「私は部落差別とは何かについて何の経験もないまま、『もし差別的表現がまったく用いられない状態になったとして、差別感情はなくなるのだろうか』という問いを発していたのです」と反省し、「本当に問われるべきであったのは、『差別感情にもとづく差別的表現によって、被害者はどのような苦しみを受けるだろうか』という問いであったはずです」と続ける。その上で、ヘイト・スピーチ規制の必要性を唱えている。的確だ。釜ヶ崎の現場で現実と格闘した著者は、自分自身の思想の練り直しに大変なエネルギーを注いだことだろう。信用できる本物の憲法学が、ここにある。今後も著者の思索に学びたい。