Thursday, March 13, 2014

大江健三郎を読み直す(11)知識人は絶滅危惧種か?

大江健三郎『「話して考える」と「書いて考える」』(集英社文庫)                                                                               2002年から2004年にかけての講演録で、単行本は2004年10月に集英社から出版され、2007年6月に文庫化された。                                                                            冒頭の「中野重治の美しさ」と「佐多さんが『おもい』と書く時――『夏の栞――中野重治をおくる』にそくして」は、前者が「中野重治生誕100年行事講演会」、後者が「佐多稲子生誕100年の集い」における講演の記録である。                                                                                    中野と佐多という、戦中の苦難を乗り越えて、戦後文学で活躍した2人を、その「後継者」でもある大江が語った、とても印象的な講演だ。中野についても佐多についても全集を手にしたことはなく、わずかの代表作を文庫で読んだだけの読者にも、味わいながら、噛みしめながら読める。                                                                                                               大江は中野の「転向」の、党派的運動論的意味ではなく、日本社会論的意味でもなく文学的意味を語る。中野が呼びかけるものに答えられていない日本を生きる文学者として、中野の廉恥心を共有するために。大江は佐多の「戦争協力」にもちろん批判的であり、戦後、佐多が新日本文学会発起人から外されたことを肯定するが、「イデオロギーではなく、『おもい』のかたまりを持っていた人」としての佐多をどう読むべきかを考え続ける。                                                                                  大江の「おもい」は本書の随所に垣間見ることができるが、終わりの方の講演「タスマニア・ウルフは恐くないか?」にはかなりの焦燥感で表明されている。                                                                                   大江は、サイードを媒介として、日系アメリカ人知識人マサオ・ミヨシの日本文化論を手掛かりに議論を進める。すなわち「日本文化の国際的影響力のほぼ完全な欠如」。                                                                                                              大江の問いと答えは簡明である。「いま死に絶えようとしている日本の知識人の伝統を、土壇場でよみがえらせねばなりません。それは、書き手としても読み手としても、若い知識人を要請することです」。「若い世代からおうほとんど死滅したとみなされていることにおいてタスマニアオオカミにくらべられる私ら日本の知識人の生き残りに、やるべき仕事はある、と私は考えるのです。/そしてその具体的な手がかりとして、私は日本の近代の見なおしが必要であり、かつ有効だといいたいのです。日本人が近代において行なった侵略戦争の、とくに新世代による再認識の努力を、それはふくみます」。                                                                                               言うまでもないことだが、この課題は政権やそれを支える日本主義者たちによって妨害され、徹底的に忌避され、嫌悪されてきた。若い時代から周縁意識を表明してきた大江は、戦後文学の代表作家となり、ノーベル賞を受賞してなお、孤高の存在であり続けねばならず、良くても敬して遠ざけられ、ファナティックなナショナリストからは「非国民」と罵倒される位置にいる。                                                                                                                            大江の言う知識人にはほど遠いとしても、何らかの意味で知識人たろうという志を持つ一人として、思想の荒野にニホンオオカミを探す努力をしなければと痛感する。