Monday, March 31, 2014

国際司法裁判所の捕鯨中止命令に思う

3月31日、国際司法裁判所(ICJ)が、日本による調査捕鯨には科学的目的が認められないとして、南極海における捕鯨を中止する命令を下した。日本の調査捕鯨は国際法違反としてオーストラリアが訴えて、日本がこれに応訴した訴訟だ。                                                                                                         クジラ大好き人間の私としては大変残念だ。せせり・さえずり、さらしクジラ、百尋、刺身ステーキ、本皮、鹿の子、ベーコン、コロ・・・。食べられなくなってしまう。尾の身の刺身はとうの昔になかなか食べられなくなった。ICJに行ったのが間違いだ。100%負けるとわかっていたのだから。                                                                                                 元グリーンピース・ジャパン事務局長の星川淳さんの本『日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか』を読んで、捕鯨反対の理屈に全面反論できなかったのを覚えている。現在の国際法と、環境保護思想と、日本の捕鯨の実態を前提とすると、残念ながら「くじら、おいしいのに」という反論しか残らなかった。                                                                                                       と思っていたら、朝日新聞4月1日2面に驚愕の見出しを発見。                                                                                                     「日本捕鯨まさかの完敗」。                                                                                                                         何、これ?という感じだ。出るところに出れば100%負けると決まっていたのに、「まさかの完敗」などと書いている。これは外務官僚の感想だと言う。朝日によると、「日本政府内では、日本に有利な判決が出るとの見方が強かった」、「首相周辺は『売るほどは捕るな、と言いつつ、調査捕鯨自体は認める形に落ち着くのではないか』と楽観的な見通しをかたっていた。ある外務省関係者は『日本が勝ちすぎると、欧米などの反捕鯨感情を刺激するのではないか』と余裕を示していたほどだ。」という。                                                                                                                                                 開いた口がふさがらない。首相周辺と外務官僚は底抜けのおバカさん。何もわかっていない。私のような素人でもわかることだ。第1に、捕鯨をめぐる国際世論・国際感情が国際捕鯨取締条約制定時よりも厳しくなっている。捕鯨だけではなく、他の環境保護、自然保護とつながって、現代思想の一翼にさえなっている。第2に、科学目的の調査捕鯨と称して大量に殺害し、その大半を海に捨ててきたことが発覚している。証拠写真までそろえられている。一方で、おいしい部分だけ日本に持ち帰り、闇で横流しして市場に出してきた。こんなことが発覚していては勝てるはずがない。第3に、2008年のグリーンピース事件だ。闇の横流し不正を告発するために現場を押さえて公表したグリーンピースメンバーを、なんと処罰してしまった(2011年最高裁で確定)。不正を告発した人間を捕まえて犯罪者に仕立てて処罰し、不正を隠蔽したのだ。日本政府が意図的に不正の「共犯者」になった。この件は国内でも大きく報道されたが、国際社会でも知られている。ICJの審理に直接取り上げられてはいないかもしれないが、背景事情としては極め付きに大きい。完全にアウトだ。この件によって、日本の捕鯨の実態が世界に知られてしまったからだ。 こんな状況でICJに行くこと自体間違っている。応訴せずに、ひたすら逃げ回るべきだった。その間に、調査捕鯨の枠を徐々に狭めて、なんとか国際世論の容認する範囲にとどめて行けば、なんとかなったかもしれない。                                                                                                                                               何一つ根拠もなしに「勝てる」などと妄想を膨らませ、国際法も国際情勢も読めない無能な外務官僚のせいで、クジラが食べられなくなる。情けない。

Friday, March 28, 2014

映画『遺言――原発さえなければ』

映画『遺言――原発さえなければ』(監督・豊田直巳・野田雅也)を観た。東中野のポレポレで先週までの上映だったので、観ることができないと思っていたが、延長になったおかげで観ることができた。同じような人が多かったようで、昨夜の東中野ポレポレには知り合いが多かった。上映前の監督トークで原発訴訟弁護士の河合裕之(弁護士)も紹介されていた。                                                                                   3.11から3年間、250時間のフィルムから厳選された4時間弱のフクシマ物語。飯館の酪農家たちの原発被害、放射能との闘い、牛を処分せざるを得ない苦悩、避難、仮設住居。家族が離れ離れになり、コミュニティが消えていく不安。何と闘っているのかが見えない。いつまで闘えばよいのかもわからない。恐怖と不安と悲嘆のなか自ら命を絶つ人も。本当の敵は霞が関や永田町にいるのだが、向き合うこともできない。被害者の言葉は届かない。底抜けの無責任と頽廃こそ、この国の中枢の特質だ。国民を殺す国家の棄民政策はいまだに変わらない。言葉にならない思いが、さまざまに映し出された映画だ。                                                                    あまりの悲劇に涙が出る。何度も何度も涙に襲われる。この涙は何だろうか。映画を観て涙を流すことほど簡単なことはない。飯館の被災者たちは、泣いて、泣いて、泣いて、その挙句にまだ泣いて、生きている者は生き続けているのだ。必死に、決意を込めて、プライドを保って、それぞれの人生を生き抜いている。観客は、心を痛めて涙を流しつつ、立ち上がった酪農家たちに励まされて、再びともに闘う決意を固めるしかない。                                                                  ジャーナリストとしての意地と覚悟と勇気をもってこの作品をつくり上げ、世に送り出してくれた豊田直巳と野田雅也――お2人に感謝。                                                                                                                 ジュネーヴから帰国の飛行機でエコノミー症候群状態なのに、ポレポレで4時間座っていたので、身体的には辛く、重たい映画に精神的にも辛い気分だが、観て良かった、間に合ってよかった。

Thursday, March 27, 2014

映画『BOX』が提起するもの 

映画『BOX』が提起するもの                                                                                                                                   法の廃墟(34)『無罪!』2010年7月                                                                                                                                                                                                                                袴田事件の深層                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     映画『BOX――袴田事件 命とは』(二〇一〇年、監督・高橋伴明)は、死刑冤罪・袴田事件を、無実の罪で死刑囚とされた袴田巌の側だけではなく、無実と思いながらも心ならず死刑判決を書かなければならなかった裁判官・熊本典道の側の視点を重ね合わせて、刑事裁判の「闇」を見事に描き出している。高橋伴明監督は、三菱銀行人質事件を題材とした『TATOO<刺青>あり』以来、一般映画を撮り始め、『光の雨』『禅ZEN』『丘を越えて』を送り出してきた。裁判官・熊本典道を演じたのは、『月はどっちに出ている』『マークスの山』『カオス』『光の雨』『樹の海』『力道山』『旅立ち――足寄より』『鑑識・米沢守の事件簿』の萩原聖人。死刑囚・袴田巌を演じたのは、『GO』『青い春』『血と骨』『ゲルマニウムの夜』『松ケ根乱射事件』『蟹工船』『ヴィヨン妻』『クヒオ大佐』『蘇りの血』の新井浩文。いずれも秀逸な役者であり、できばえは素晴らしい。他にも、石橋凌、岸部一徳、葉月里緒奈、塩見三省、保阪尚希、雛形あきこなどが出演している。                                                                                                                                                                              映画は、袴田巌と熊本典道が同年の生まれとし(事実は異なるが)、まったく異なる境遇の二人の人生を意外な形で交錯させる。一方はアマチュアからプロボクシングへの道を進み、期待されながらも挫折し、静岡県清水市の味噌工場で働くことになり、他方は司法試験に合格し将来を嘱望された裁判官となり静岡地方裁判所に赴任した。袴田巌は、味噌工場専務宅の強盗放火殺人事件で被告人とされた。理由は、従業員の中で巌だけが遠州生まれのよそ者だったこと、元プロボクサーであったことだ。巌を犯行と結びつけるような証拠は実際はなかった。強引な身柄拘束と拷問による自白強要が続き、巌はついに自白調書を作られる。公判で犯行を否認する巌に驚いた熊本判事は、供述調書を精査し、供述の異様な変遷に疑問を抱く。さらに、取調べ時間の異常な長さにも驚く。強引に自白を強要した様子が想像できる。ところが、犯行から一年余り経過した時期に、突如として味噌工場の樽から血染めの犯行着衣が発見され、検察官は犯行着衣を当初のパジャマから変更した。だが、新証拠には数々の疑念があった。熊本判事は、自白調書も新証拠も巌の犯罪立証にはつながらず、それどころか警察による不可解な作為の産物であることを見抜く。                                                                                                                                                だが、地方裁判所の裁判体は三人の裁判官による合議だ。他の二人の裁判官は有罪を主張する。熊本の必死の説得にもかかわらず、多数決で判決は死刑と決まる。しかも、判決は主任判事が書く慣例になっている。ただ一人有罪に反対した熊本が死刑判決を書かなければならない。映画は、無実と確信しながら死刑判決を書かねばならなかった熊本の苦悩を描く。捜査批判を展開した「付言」を盛り込むのが精一杯の抵抗であった。判決後、熊本は裁判官を辞職し弁護士となり、大学で刑事訴訟法の講義も担当した。その間、巌の無罪を立証する証拠を作成して、弁護団に送り届けた。しかし、東京高裁でも最高裁でも死刑判決は覆ることなく、巌の死刑が確定した。                                                                                                                                                                                                                                                                                                           二つの地獄か                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  弁護士となり一時は羽振りを利かせた熊本だが、その後の人生は転落の一途だったという。自殺未遂、放浪、家庭の崩壊。見る影もない人生を歩み、妻や子どもたちも「被害者」となった。だが、二〇〇七年二月、紆余曲折を経て、熊本は、自分が無罪と確信しながら死刑判決を書かねばならなかった事実を公表した。世間に衝撃が、刑事司法に亀裂が走った。合議の秘密をあえて侵してでも真実を語り、無実の死刑囚を救おうという熊本の闘いが始まった(山平重樹『裁かれるのは我なり――袴田事件主任裁判官三十九年目の真実』双葉社、二〇一〇年)。                                                                                                                                                                                   獄中の巌、再審請求に力を尽くしてきた姉と救う会の人々、そして袴田弁護団は、熊本証言の新局面のもとに再審の扉をこじ開けるために奮闘した。ところが、二〇〇八年三月、最高裁は第一次再審請求を棄却してしまった。熊本の口を封じようとするかのように。現在、第二次再審請求審が進行中である。獄中の巌は七三歳。拘禁症状のため精神状態に困難を抱えている。                                                                                                                                  熊本も平穏ではいられない。合議の秘密を破ったことへの社会的指弾を受け止め、自らをさらし者にしてでも闘い続ける。長い転落の人生から立ち直るのも容易ではない。一方では、熊本証言を「美談」にしようとするジャーナリストがいる。熊本は自分の話を「美談」にするなと述べる。それでも「美談」であることに違いはない。では、いかなる真実がそこにあるのか(緒方誠規『美談の男――冤罪・袴田事件を裁いた元主任判事・熊本典道の秘密』鉄人社、二〇一〇年)。                                                                                                                                           ある映画評は、無実の罪で獄中に捕らわれている巌の「地獄」と、心ならずも死刑判決を書かされ生涯苦悩に追い込まれた熊本の「地獄」を「二つの地獄」と評している。映画もそのように描いているといってよい。しかし、この評価には疑問がある。なぜなら、巌と違って、熊本判事には他に選択の余地があった。「無責任な死刑判決を書くよりも、裁判官を辞するという選択肢があった」のだ(本連載12「砕かれた『神話』――袴田事件」本紙二〇〇七年四月)。裁判官を辞職しても弁護士になることができる。現に熊本は死刑判決を書いた後に辞職して弁護士・大学講師になった。熊本が「法と良心」に忠実であったならば、死刑判決を書く前に裁判官を辞するべきであった。そうすれば自身、四〇年も苦悩し家庭を崩壊させることにもならなかったのではないか。「二つの地獄」を対比するのは適切でない。                                                                                                                                                         それでは巌はどうだろうか。熊本が辞職した場合に、巌の一審判決がどうなったかはわからない。他の二人が死刑意見だったのだから、合議体を編成し直したとしても死刑が待っていたかもしれない。                                                                                                                                                                 しかし、再審請求についてみるなら「付言」の有無が一つの問題になる。熊本付言は厳しい捜査批判を展開しているため、一審合議体が死刑対無罪に割れたであろうことが想像できた。だが、同時に、熊本付言があるがゆえに(熊本の意に反して)「慎重審理の結果として死刑が選択された」と言うことが可能となっている。付言を上級審が読めば真実を見抜いてくれるはずだという熊本の主張には説得力がない。一審で三人のうち二人が真実を見抜くことができない事実を眼にしながら、上級審に期待したというのは世間知らずでしかないだろう。付言は、熊本の甘い期待に反して、事態を悪化させたと見るべきかもしれない。                                                                                                                                                                ラストシーンで、一面の銀世界の中、それでも真実を追い求め、自分を求めて歩む熊本の後ろに、「うしろのしょうめんだあれ」の歌声に呼び寄せられたように、巌の幻影が姿を現す。ファイティングポーズで向き合う熊本と巌――繰り出される巌のパンチ。そして巌の「BOX」の一言。真っ白な世界をどこまでも走り続ける二人・・・。映画が問いかける、二人の、真実――誰もが、そう、誰もが願っている。

砕かれた「神話」――袴田事件

法の廃墟(12)『無罪!』2007年4月                                                                                                            砕かれた「神話」――袴田事件                                                                                                                                                                                                                                                                                                    無罪心証で死刑判決                                                                                                                                                                                                                                                                                                            三月二日の日刊スポーツ(ウェブサイト)は、袴田事件・死刑再審請求審に関して、「袴田事件、元判事『無罪の心証だった』」との見出しで、次のような事実を報道した。                                                                                                                                                                        「静岡県で一九六六年に一家四人を殺害したとして死刑が確定した袴田巌死刑囚(七〇)が再審を求めている『袴田事件』で、一九六八年の静岡地裁の一審で死刑判決を書いた当時の裁判官が『無罪の心証を持っていたが合議の多数決で敗れた』と告白していたことが分かった。袴田死刑囚の支援団体(静岡市)が二日、公表した。/裁判官は合議体で行う裁判の議論内容などを漏らしてはならないという『評議の秘密』が裁判所法で規定されており、こうした告白は極めて異例。/支援団体によると、元裁判官は九州在住の熊本典道さん(六九)。六六年の第二回公判から、合議の裁判官三人のうちの一人として主任裁判官を務めた。/熊本さんは自白や証拠などに『合理的な疑いが残る』として合議の前に無罪の判決文を書いていたが、裁判長ら二人は有罪を主張。多数決で死刑判決が決まり、熊本さんが死刑判決を書いたという。/昨年末、熊本さんからメールが団体に寄せられ、メンバーが三回にわたり面会。うち一回に同行した袴田死刑囚の姉秀子さん(七四)に対し、熊本さんは『力が及ばず、申し訳なかった』と涙を流して謝罪した。/熊本さんは『私と袴田君の年齢を考えると、この時期に述べておかなければならない』とし、支援活動への協力を申し出ている。/袴田死刑囚は六六年に静岡県清水市(現静岡市清水区)でみそ製造会社の専務一家四人を殺害したなどとして八〇年に最高裁で強盗殺人罪などで死刑が確定したが、冤罪を訴えて再審請求を続け、最高裁に特別抗告中。」                                                                                                                                                                                             つまり、熊本元判事補は、袴田事件の主任裁判官として無罪の判決文を準備していたが、裁判長など二人の判事の多数意見によって二対一の多数決で有罪と決まったため、死刑判決を書いた。自分では無罪と思いながら有罪判決を書いた。しかも、それが死刑判決だというから驚きである。                                                                                                                                                                                         いったん起訴されたら、無実の人間が無罪を獲得するのが非常に困難な有罪率九九・九%の日本の刑事裁判では、裁判官も右から左へ有罪判決を乱発しているのではないかとの「疑い」はずっと指摘され続けてきた。とはいえ、それは外部からの「疑い」の指摘であって、いやしくも裁判官たる者、有罪の確信を持って初めて有罪判決を書いているのだという建前は揺らぐことがなかった。しかし、熊本証言は「神話」を打ち砕いた。「無罪と思いつつ死刑判決を書いた」と本人が言っているのだ。とんでもない裁判官もいたものである。問題は、これが熊本元判事補だけなのかというところにある。裁判所は認めないであろうが、ますます「疑い」が強まる。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   再審請求審への影響                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        十亀弘史は、熊本元判事補がテレビ朝日「報道ステーション」に登場して「あの事件は無罪だった」と語ったことについて、「四〇年後であるにしろ元裁判官が冤罪事件について自己の誤りを告白するというのは希有な事態であり、それとして勇気を要したであろうことは十分に想像できます。しかし、その四〇年の間に袴田巌さんその人が蒙った、また今も蒙り続けているいいようのない惨苦を思うと、どうしても、当の四〇年前の時点で熊本判事補にもっと何かができなかったのか、と思わずにいられません」と述べる(本誌第二三号)。                                                                                                                                                                                                 もちろん、できることはあった。無責任な死刑判決を書くよりも、裁判官を辞するという選択肢があった。熊本判事補は、その決断ができなかったが、死刑判決を下した後に苦悩を抱えつつ辞職したという。                                                                                                                                                                                                           熊本元判事補は「これからは袴田さんの再審活動を共に進める」という。他に誰も知らず、沈黙を守り通すことができたのに、あえて自らの誤りを公表し、あらゆる非難を覚悟で袴田再審に協力しようという勇気ある姿勢には、敬意を表したい。                                                                                                                                                                                                     問題は熊本証言が再審請求審に与える影響をどのように見るかである。言うまでもなく、第一の可能性は、熊本証言を再審請求事由に組み入れることであり、再審弁護団が十分に検討しているであろう。死刑判決の有罪認定に至る心証形成過程を再検討する必要がある。                                                                                                                                                                                                                                  しかし、逆の可能性が懸念される。熊本証言を受け容れることは、無罪心証にもかかわらず死刑判決を書いた裁判官が実在したことを認めることである。このような「ありえない事態」を一つ認めてしまえば、刑事裁判に対する社会的信頼が喪われてしまう。他の裁判でも・・・との疑いが続くことになる。このようなことを現職裁判官が正面から認めることができるだろうか。                                                                                                                                                                      免田・財田川・松山・島田死刑再審四事件は、いずれも三〇年という長期にわたる凄絶な闘いを経て、ようやく再審請求事由の存在を裁判官に認めさせ、それによって原判決の事実誤認を認めさせ、無罪判決を勝ち取った。原判決の誤りが正されたが、あくまでも新証拠による事実認定の変化という事態であった。袴田事件における熊本証言の衝撃は、質が異なる。刑事裁判官のプライド(アイデンティティ)そのものへの衝撃となりかねない。「精密司法」と称して優秀さを誇ってきた日本刑事司法の担い手にとって、あくまでも認めがたい事実である。                                                                                                                                                                                            熊本証言の衝撃を抑え込む方法はいくつもありうる。第一に、今になって再審請求のためにこのような証言をしているが、四〇年前に果たしてそのような事実が本当にあったのか疑念を付すことである。第二に、熊本証言が真実であったとしても、他の二裁判官は有罪心証で死刑判決に関与したのだから、事実認定には何ら問題がないと判定することである。熊本元判事補が特異な人物であったかのように描き出せれば、なおよい。                                                                                                                                                                                            再審請求審担当判事にとって、熊本証言を正面から受け容れることは多大な心理的困難を伴う。さらに、熊本証言を除外して客観的証拠による再審開始事由があったとしても、再審開始を認めてしまえば、世間は熊本証言によるものと推測するであろう。熊本証言の衝撃は、裁判官に、いかなる事由であれ袴田事件の再審を認めてはならないという決断を惹起しかねない。こうした懸念を踏まえて、再審請求弁護団と支援者の闘いをいっそう強化しなければならないだろう。

Sunday, March 23, 2014

ヘイト・クライム禁止法(69)モルドヴァ

政府報告書によると、過激活動と闘う法律が制定されているという。過激活動と闘う法律によると、過激活動とは公然たる団体又は宗教団体、マスメディアその他の機関を通じて、人種的、国民的及び宗教的憎悪、並びに社会的憎悪の煽動の目的を持って活動を計画、組織、準備、実行する目的をもった活動である。それには次のものが含まれる。暴力又は暴力の呼びかけ。国民の尊厳の侮辱。イデオロギー的、政治的、人種的又は宗教的憎悪又は敵意を動機とする大衆的騒動、フーガリニズム、蛮行。及び人種、国籍、民族的出身、言語、宗教、性別、意見、政治姿勢、財産又は社会的出身に依拠した市民の排除、優越性、劣等性の促進が含まれる。                                                                           過激活動と闘う法律によると、過激文書とは記録や匿名の公開情報その他の情報であって、過激活動を呼びかけ、過激活動の必要性を正当化し、戦争犯罪や、民族的、社会的、人種的、国民的又は宗教的集団の一部または全部の殲滅に関連する犯罪の実行を正当化するものをいう。                                                                                           公然教唆とは、文書又は電子的マスメディアを通じて、国民的、人種的、宗教的不調和、国民の名誉と尊厳の損壊、人権の直接又は間接的制限を唆すことである。                                                                                               過激活動と闘う法律第六条は、過激活動を行う目的を持った団体の設立を違法としている。司法大臣は検事総長に過激活動団体への警告を要請することが出来る。警告を受けた団体は不服があれば裁判所に提訴することができる。法律第七条は、マスメディアを通じた過激文書の流布を禁止している。検事総長は過激文書流布に警告を与えることができる。不服があれば裁判所に提訴できる。法律第八条は、過激活動のために公共テレヴィ放送を利用することを禁止している。法律第九条は、過激文書の出版と流布を禁止している。過激文書か否かは裁判所が認定する。団体が一二か月の間に二回過激文書を流布すれば、裁判所は当該団体の出版権を終結させることができる。法律第一〇条は、過激文書の記録を作成・保管するとしている。法律第一二条は、外国人が過激活動を行った場合を定め、一定の権利の停止が認められることがある。法律第一三条は、集会における過激活動を禁止している。大衆集会の組織者は集会法に基づいて過激活動をさせないようにしなければならない。法律の適用事例は紹介されていない。                                                                                                 人種差別撤廃委員会はモルドヴァ政府に次のように勧告した(CERD/C/MDV/CO/7. 16 May 2008)。過激活動と闘う法律があるが、人種的、国民的及び宗教的憎悪を含む過激活動をする組織が実際に違法と宣言されず、捜査事例が報告されていないことに留意する。委員会は法律を条約第紙上に完全に合致させて適用するよう勧告した。委員会は警察官、検察官、裁判官その他の法執行官に人種的憎悪や差別に関する研修を義務付けるべきだと勧告した。次回の報告書では、法律適用状況、捜査や犯行者に課された制裁、被害者への補償について報告するよう要請した。

町のつくり直しコミュニティデザイン

山崎亮『コミュニティデザインの時代』(中公新書)                                                                                                          いま「自分たちで『まち』をつくる」というサブタイトルの本がなぜ出ているのか、一体何だろうと思ったが、孤立死、無縁社会の現在、コミュニティをいかにして取り戻すのかを問いかける本だ。設計、建築、都市プランナーの世界に生きてきた著者(京都造形芸術大学教授))が、いまはデザインしないデザイン」を唱え、建物や広場をつくることではなく、人々のつながりをいかに恢復するかに力を注ぐ。有馬富士公園、鹿児島のマルヤガーデンズ、宮崎の延岡駅周辺整備、大阪の近鉄百貨店新本店、姫路のいえしまプロジェクト、島根の海士町プロジェクトなどの実例を紹介しながら、まちづくりワークショップ、市民参加型パークマネジメントの手法を解説する。面白い本だ。                                                                                                                     冒頭の「人口減少先進地」には驚きとともに納得させられた。著者は「人口増減についての空想」として、地方都市で人口減少を嘆く声に対して、急速に人口が減少していると言うが、江戸時代から長い目で見れば、近代日本において急速に増加して、いま元に戻っていると見ることができると言う。日本の総人口は長い間3000~4000万人だったのだから。日本の適正人口は3500万ではないかという「暴論」をさりげなく提示する。視点を変えるということはこういうことだ。                                                                                                      そして著者は「人口減少先進地」という。日本はこれからどんどん人口が減っていくのだから、いますでに減っているところでどのように町づくりができるのか。それが30年後、50年後に他の町の参考になる。人口減少先進地とは例えば秋田県、山形県、和歌山県、島根県、山口県、長崎県である。東京や横浜は後進地だ。「過疎」などと悩まずに「適疎」を目指すという。そのためのプロジェクトを中山間離島地域で試みる。その実践が豊富に紹介されている。

Saturday, March 22, 2014

ヘイト・クライム禁止法(68)アメリカ合州国

政府報告書(CERD/C/USA/6. 24 October 2007)によると、条約第四条の要請は、アメリカ憲法の表現の自由、結社の自由に抵触するので、条約批准時に条約第四条には留保を付したという。暴力を引き起こそうとする言論を制約することができるのは限定的な条件の下でのみであるとして、一九九二年のR.A.V.事件連邦最高裁判決を紹介している。ただし、二〇〇三年のヴァージニア対ブラック事件では、ヴァージニア最高裁が人又は人の集団に対する脅迫の故意を持った十字架燃やしを禁止する規定を憲法違反としたのに対して、憲法修正第一条の表現の畏友の保護は絶対的ではなく、脅迫の故意を持った十字架燃やしは真に脅威あるものである場合には禁止できると判断した。                                                                                           ヘイト・クライムについて、司法省公民権局は人種的、民族的又は宗教的憎悪に動機を持つ暴力や脅迫を禁止している。権利侵害の共謀もこれに含まれる。すなわち、連邦刑法第二四一条は、憲法が保障する権利又は特権の自由な行使又は享受に関して、人に傷害、威嚇又は脅迫をする同意を行った二人以上の者について違法とする。大半の共謀条項と異なって、この共謀には共謀者の一人が実行行為を行うことを必要としない。刑罰は、犯行の事情により、傷害結果を惹起した場合には、終身の刑事施設収容や死刑に至るまでの幅がある。                                                                                        9.11以後、アラブ系アメリカ人やムスリムに対するヘイト・クライムを優先事項として訴追する努力がなされている。                                                                                インターネット上のヘイト・クライムについて、ルノ対ACLU事件連邦最高裁判決は、インターネット上のコミュニケーションは憲法修正第一条の保護を受けるが、言論が特定個人や集団に対する直接の確実性のある脅威となる場合は憲法上の保護を失うとした。  インターネット・ヘイト・クライムの特定や実行犯割り出しの困難性の故に、刑事事件として立件された事案は少ない。司法省少年司法・非行予防局は民間団体と協力して、マニュアル『インターネットにおけるヘイト・クライムを捜査する』を出版した。                                                                ラザニ事件で、二〇〇六年四月三日、アラブ系アメリカ人女性に殺害予告のEメールを送った被告人が六月の自宅拘禁及び三年の保護観察を言渡された。ミドルマン事件で、二〇〇五年一〇月一四日、アラブ系アメリカ人団体に脅迫Eメールを送った被告人が一〇月の刑事施設収容を言渡された。ブラティサックス事件で、二〇〇六年三月一三日、イスラム・アメリカ・センターに脅迫Eメールを送った被告人が二年の保護観察を言い渡された。いずれも日本では通常の脅迫罪である。                                                                                                                   一九九八年、ペンシルヴァニアで白人優越主義者とその団体がウェブサイトにおけるテロ脅迫、ハラスメントのかどでペンシルヴァニア民族脅迫法違反の告発を受けた。白人優越主義者ライアン・ウィルソンとその団体アルファHQ等である。州の公民局職員に対して「木に吊る」という脅迫や、事務所を襲撃するという脅迫がウェブサイトに掲載された。告発を契機にウィルソン等は問題のサイトを撤去することに同意した。このため裁判には至らずに解決した。                                                                                             人種差別撤廃委員会はアメリカ政府に次のように勧告した(CERD/C/USA/CO/6. 8 May 2008)。一定の形態のヘイト・スピーチや十字架燃やしのような脅迫が憲法修正第一条によって保護されないことを評価するが、アメリカ政府が条約第四条の適用に広範な留保を付していることは残念である。委員会の一般的勧告第七(一九八五年)及び第一五(一九九三年)に注意を喚起し、条約第四条への留保の撤回を要請する。委員会は、人種的優越性や憎悪に基づく観念の禁止は表現の自由と合致すること、表現の自由の権利の行使には特別の義務と責任が伴い、人種主義的観念を流布させない義務があると勧告した。

ヘイト・クライム禁止法(67)ニカラグア

政府報告書(CERD/C/NIC/14. 17 October 2007)によると、憲法第三条は「平和と正当な国際秩序を求める闘争はニカラグア国民の譲ることのできない約束である。それゆえニカラグア国民はすべての形態の植民地主義、帝国主義的支配と搾取に反対し、抑圧と差別に対して闘うすべての人民と連帯する」とする。                                                                                         一九七四年の刑法は人権侵害又は人権侵害の煽動、他人に対する身体暴力の実行を処罰する。刑法第五四九条及び第五五〇条に基づいて、特定集団に対する平穏侵害又は人権侵害は法的効力を持たないとされる。                                                                                                             一九九六年の刑法改正法第二条一〇項は、伝統的法が自治裁判所によって適用されることを認めた。国家の法律ではなく、先住民族の慣習法が適用されるべき場合は自治裁判所が審理する。                                                                                                           人種差別撤廃委員会はニカラグア政府に次のように勧告した(CERD/C/NIC/CO/14. 19 June 2008)。委員会は新しい刑法に人種差別犯罪が盛り込まれたことを歓迎するが、人種差別を促進する団体に対する制裁を定めた新刑法第四五条及び第一一三条は不明確である。委員会は条約第紙上(b)に従って、人種差別を促進・煽動する団体を禁止し、団体さんとその活動に参加した者を処罰する犯罪を明確にするよう勧告した。

ローザンヌ美術館散歩(2)

去年行ったときは「MAKING SPA----------CE」という現代映像アート展をやっていた。                                                       ローザンヌ美術館散歩                                                                                         http://maeda-akira.blogspot.ch/2013/11/blog-post.html                                                                                        今回は「ジャコメティ・マリーニ・リシエル――苦悩する身体」だった。ポスターはもちろんジャコメティの歩く人だ。                                                                                                   アルベルト・ジャコメティ(1901~66年)はスイスを代表する彫刻家で、100フラン紙幣に作品が印刷されている。グラウビュンデンのスタンパ生まれでジュネーヴの美術学校を経てパリで学ぶ。アントワーヌ・ブーデルのもとで学ぶ。1929年、コクトーらと出会いシュルレアリスムの影響を受け(1935年まで)、1941年にはサルトル、ボーヴォワールに出会う。戦争中はスイスに戻り、マリーニ、リシエルらと感化しあう。戦後は世界的な彫刻家として名をはせた。                                                                                                                            マリノ・マリーニ(1901~80年)はイタリアの彫刻家だ。トスカナの生まれで、フローレンスの美術学校を経てパリで学ぶ。戦中に爆撃でアトリエを破壊され、スイスに逃れ、ジャコメティやリシエルと感化しあう。                                                                                                               ジェルメーヌ・リシエル(1902~59年)はフランスの女性彫刻家で、ブーシェ・デュ・ローヌのブラン生まれ、モンペリエの美術学校を経てパリで学ぶ。ジャコメティと同様アントワーヌ・ブーデルに学んだ。ブーデルの弟子であるスイス人彫刻家オットー・ベニンガーと結婚。戦中はジャコメィ、マリーニと感化しあうとともに、クーノ・アーミエ、ジャン・アープ、ル・コルビュジェ、マックス・カガノヴィチと切磋琢磨。戦後はチューリヒやパリで活躍。                                                                                                                      ジャコメティの独特の彫刻は誰でも一目でわかる。と思っていたら、以前、同僚の彫刻家から「ジャコメティに影響を与えた女性彫刻家がいる。素人ならジャコメティと区別がつかないかもしれない」と教わったことがある。それがジェルメーヌ・リシエルのことだった。たしかに区別がつきにくい。初期にはドガやマイヨールの影響を受けていたのが、やがてあえてバランスを欠いた作品になり、身体を断片化し、極端にデフォルメし、ついには線状化していく。きっかけはシュルレアリスムだが、3人ともシュルレアリスムから離れて、どんどん突き進んでいく。マリーニの「乗馬」は、馬も人間も折れ曲がり、単純化され、時には逆さまになっていく。ジャコメティの人間は線状化し、脱人間化していく。リシエルの人間も線状化し、昆虫化していく。巨大なバッタやカマキリの姿をした人間である。3人の作品が一堂に集められ、対比しながら見ることが出来る。「苦悩する身体」――まさに虐げられ、折り曲げられ、震え、苦悩する身体だ。                                                                                                                       帰りに受付・売店でアリス・ベイリーのカタログを見つけた。去年、アリス・ベイリーを見たくてローザンヌに来たのに、現代映像展だったので作品はないし、カタログもなかった。今回も作品を見ることはできなかったが、カタログが1冊だけ置いてあったので買ってきた。アリス・ベイリー(1872~1938年)はジュネーヴ生まれの女性画家で、キュビスムや未来派を通り抜けて独特の作品を多く残した。油彩とは別に毛糸を用いた作品、華やかな女性像が多い。

Thursday, March 20, 2014

ヘイト・クライム禁止法(66)フィジー

 フィジー政府報告書(CERD/C/FJI/17. 10 January 2007)によると、ヘイト・スピーチや先住民族フィジーの優越性の主張に対処する措置を取っている。一九九七年の憲法第三〇条は表現の自由の規定だが、その制約も明示している。憲法第三〇条二項(b)によると、法律によって表現の自由を制約できるのは、他人の名誉、プライヴァシー、尊厳、自由権を保護・維持するためになされる場合である。それにはヘイト・スピーチからの自由の権利the right to be free from hate speechが含まれる。ヘイト・スピーチは憲法第三八条において、いかなる形態であれ、憲法第三八条に記述された理由に基づいて差別を促進し、又は促進する効果を有する表現と定義されている。                                                                                    フィジーは、条約第四条の要請する立法措置が世界人権宣言と条約第五条の考慮のもとで行われると考えている。政府は、人種的優越性又は憎悪に基づく観念を流布する団体、暴力行為、そのような行為の煽動に反対している。このような団体は非難され、法律によって抑止される。                                                                                           公共秩序法第一七条は「人種的敵対の煽動」を次のように規定する。「(1)話された又は読まれるべき言葉によって、標識によって、又は目に見える表象その他によって、次のような言説を広めること。(ⅰ)人種又はコミュニティに対する人種的好悪又は憎悪を煽動する、(ⅱ)異なる人種やコミュニティ間の敵対感情や悪意を助長すること、(ⅲ)公共の平穏を損なうこと。(2)自分のもの以外の人種やコミュニティに関して、その構成員に恐怖、警告又は不安感を引き起こすような傷害や脅迫の言説を行うこと。(3)軍人、警察官、刑事施設職員に暴力を煽動し、法律に従わないことや不法秩序を助言する言説を行うこと。以上の行為は、一年以下の刑事施設収容又は五〇〇ドル以下の罰金、又は両者の併科とする。」                                                                                                                                                                  刑法第六五条は「煽動的意図」を、例えば「人に憎悪又は侮辱を引き起こすこと又は不満を亢進させること」としている。                                                                                                                                      二〇〇一年八月二〇日、フィジー高裁は、リオギ事件について、煽動的意図を公正でリベラルな精神で解釈すれば、憲法が保障する表現の自由に抵触しないと判断した。自由で民主主義的な社会においては、政府が開かれた批判にさらされるのは当然である。政治的な検閲がなされてはならないことも当然である。政府は、政府に対する民主的批判に対して煽動法を適用すべきでないと考えている。過激団体であっても、その政治的意見を理由にして活動制限をするべきではなく、団体構成員が犯罪を行った場合に訴追が可能となるという。                                                                                                                                              人種差別撤廃委員会はフィジー政府に次のように勧告した(CERD/C/FJI/CO/17.16 May 2008)。現行刑法は条約第四条に関連する法律であるが、委員会はフィジー政府が人種主義団体の禁止に反対し、人種主義的理由の犯罪について刑罰加重事由としていないことに関心を有する。報告書が差別事件に関する統計を示していないことは残念である。委員会は条約第四条が示す線に沿って追加立法を行うよう強く勧告する。人種的憎悪と憎悪の煽動に関する統計データを報告するよう勧告する。

大江健三郎を読み直す(12)半世紀に及ぶ文学的主題としての反核

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(岩波新書、1965年)                                                                                                    「広島への最初の旅」以後、1963~64年の数回の広島訪問と取材の成果を雑誌『世界』に発表し、新書にまとめたのが1965年6月である。大江が20代最後の日々のルポである。2012年に書店で入手した版は88刷である。加筆も修正も加えられることなく、まもなく半世紀を迎える秀逸のルポである。                                                                                                              私が読んだのは、『沖縄ノート』よりも後だったはずだが、よく覚えていない。大学生になってからかもしれない。覚えているのは、第九回原水爆禁止世界大会の混乱と分裂状態が報告されていて十分に理解できず、読み進めるのに困難を感じたことだ。広島・長崎の悲劇を世界に告発し、被爆者たちの「悲惨と威厳」を伝え、核兵器の残億差を訴え、平和を希求するのに、原水爆禁止世界大会の混乱や分裂を書いて、どういう意味があるのかよくわからなかった。                                                                                             しかし、最後まで読み終えると、すーっとよく理解できる。胸に落ちるということだろうか。人間のいのちと暮らしを守るための、被爆者や医師たちの懸命の闘いにもかかわらず、政治的な思惑に駆られて原水爆禁止世界大会を混乱させ、分裂させている政治主義を浮かび上がらせることで、大江は読者に、本当に考えるべきことはこんなことではないのだ、一人ひとりが自分の目で広島・長崎を見つめ、自分の頭で考えるべきだと伝えようとしたのだ。第九回原水爆禁止世界大会の混乱と言う一局面を報告した本書が、半世紀後にも読まれ続けるのは、人間にとって普遍的な問題を正面から取り上げることで時代と切り結んでいるからである。個別の偶然的な出来事の描写を通じて普遍性を提示する手法の教科書と言ってよい。                                                                                                                      大江は最近の講演の中で、『ヒロシマ・ノート』の時は若かったからあのような書き方をした、今なら違う書き方をしただろうという趣旨のことを述べている。冒頭から「僕」が語り出す『ヒロシマ・ノート』の主観性のことだ。「自分の最初の息子が瀕死の状態でガラスはこのなかに横たわったまま恢復のみこみみはまったくたたない始末」で、「すっかりうちのめされていた」と書き出してさえいるのだから。広島から戻って、大江は『個人的な体験』を書き上げることになるが、そうした切迫感がルポと小説の間を往還していた時期である。今ならもっと客観的に書くということは言えるかもしれないが、執筆時期の状況が大きく影響することになる。本書は主観的方法なればこその訴求力を持ったのであろう。いずれにしても、大江の文学的主題の一つがここで固まったという意味でも記念碑的作品である。

Wednesday, March 19, 2014

国連に日本のヘイト・スピーチを訴える

この1週間ほどジュネーヴは快晴続きですっかり春らしくなってきた。つい先日まで茶色だった景色が緑になってきた。 3月19日午前、国連人権理事会はマイノリティ・フォーラムに関する審議を行った。「マイノリティの権利の独立専門家」はリタ・イザク。彼女はロマで、国連人権高等弁務官事務所の人権活動家育成プログラムを経て、人権専門家なにった秘蔵っ子だ。初代のゲイ・マクドゥーガルを引き継いで、マイノリティの権利の独立専門家になって活躍している。 NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)は、日本のヘイト・スピーチについて次のように報告した。 <3月8日、浦和レッズの試合で「Japanese Only」という横断幕が掲げられた。自分たちの聖域に外国人は入るなという意思表示であった。他方、東京周辺の36図書館で「アンネの日記」が282冊も破られた。日本が歴史から目を背けていることの一例である。先月末、アメリカ国務省が公表した人権年次報告書は、日本におけるコリアンに対するヘイト・スピーチを取り上げた。日本では在住コリアンに対するヘイト・スピーチ・デモが悪化している。昨年、右翼デモはコリアンを「ゴキブリ」と呼び、「日本から追い出せ」「コリアンを殺せ」と叫んでいる。2012年、国連人権理事会の普遍的定期審査で、日本にヘイト・クライム法をつくるよう勧告がなされた。2010年、人種差別撤廃委員会も同様の勧告をした。去年、国際社会権委員会は、「慰安婦」に対するヘイト・スピーチや憎悪の表明を予防するために教育せよと勧告した。しかし、日本政府はヘイト・クライム、ヘイト・スピーチを表現の自由と称して、何の措置も講じていない。> 発言終了後、韓国政府一等書記官がやってきて話した。先週の私の発言(「慰安婦」問題の国際メモリアルデーをつくろう)を東京の大使館に送った、とのことだ。話している横を日本の参事官が睨みながら通り過ぎた。 今回の人権理事会での発言はこれをもってすべて終わった。ほっと一息。という訳で、夜は赤い悪魔のラベルが素敵なNoir Divin, Domaine du Paradis,Satigny Geneve,2012.

Tuesday, March 18, 2014

ヴィンタトゥール美術館散歩(3)

ヴィンタトゥール駅前通りを歩いてすぐに市立公園の美術館に出る。古い街並みの旧市街の一歩外側に、美術館、自然博物館、市立劇場などが並ぶ。もともと産業都市のヴィンタトゥールだが、今や素敵な文化都市でもある。                                                                                            オスカー・ラインハルト財団の美術館は、地元スイスを中心に、オーストリアや南ドイツの美術をテーマにしている。(1)ヴィンタトゥール美術館が近代西洋美術の教科書美術館、(2)レーマーホルツがラインハルトの審美眼に基づく特定美術館だとすると、(3)市立公園の美術館はスイス周辺地域美術の専門美術館だ。カタログは『カスパー・ダヴィド・フリードリヒからフェルディナンド・ホドラーまで:ロマンティックな伝統――オスカー・ラインハルト財団の19世紀絵画作品』である。                                                                                                                                   美術館での展示と、カタログの順番は同じではないが、ありがたいことに素人でもすぐに頭の中で再構成できるように、わかりやすくなっている。                                                                                                                                                     リオタール「トルコ服の自画像」、カスパー・ヴォルフ「ラウターブルンネンの滝」などは18世紀末だが、肖像画、静物、風景いずれも古典的だ。                                                                                                                                                                            フュスリ「嫉妬」の激しさはカタログではわからない。やはり実物だ。テプファー「祭り」「春」、アガセ「白馬」「ウェストミンスター橋」「花売り娘」の物語性。カスパー・ダヴィド・フリードリヒ「リューゲンの氷河渓谷」は表紙にもなっている。まじかで見ていると渓谷に落ちる。32歳で亡くなったエルンスト・フリース「マサ・ディ・カラーラ」もいい。コベル「テゲルゼーの乗馬」2点は笑える。メンゼル「月夜の駅舎」や女性像、カラーメ「ジュネーヴのプチサコネ」(1834年)はいつも歩いている場所だけに、あまりの違いを痛感する。日本でも最近カラーメ展。                                                                                                                                                                そしてスイスのロマンティックと言えば、誰よりもアルベルト・アンカー。数年前にベルン美術館でやったアンカー展は涙が出るほど素晴らしかった。「画家の娘ルイーズ」は肖像画の傑作の一つ。アンカーの重たいカタログは研究室に置いてある。                                                                                                                                                          ベックリンもある。亡くなった美術評論家・宮下誠がクレーとともに徹底的にこだわっていたのが、ベックリンだったようだ。バーゼル大学に留学したからだろうか。「ニンフの水浴」「トリトンとネライデ」「パオロとフランチェスカ」。宮下の本は熱心に読んだが、会ったことがないのは残念。授業の「総合講座パウル・クレー」に出講を頼もうと思っていた矢先に亡くなった。美術評論の天才に一番近い秀才だったのではないか。リーバーマン「エダムの通学路」。                                                                                                                                             ホドラーはたくさんあった。スイスの美術館にはホドラーがたくさんあってあたりまえ。ホドラーは実に多作だが、実に多彩で、肖像、静物、風景、空想、妄想、神話すべてあり、写実、印象派、キュビズムにも対応、聖書や創造の世界にも及ぶスケールだ。自画像、少女像、婦人像。「驚愕の嵐」「エヴォルデへの道」。                                                                                                                                 セガンティーニもある。「アルプスの水飲み少女」はつい先年日本に来た。ジョヴァンニ・ジャコメティの風景画と肖像画。                                                                                                                ヴィンタトゥールは「疲れる」町だ。こんなに美術品があって、一部を見るだけでも大変だから。ここに1週間滞在すれば、人間の「質」が良くなることは間違いない。

Monday, March 17, 2014

ヴィンタトゥール美術館散歩(2)

美術館の町ヴィンタトゥールをつくることになった最大の基礎はオスカー・ラインハルト(1885~1965年)の美術品収集である。「最後の大規模コレクター」と呼ばれるオスカーは、ヴィンタトゥールの実業家一族の息子で、美術品収集に力を注いだ。父テオドール、兄ゲオルグ、ヘディらも収集家であった。オスカーは途中から企業経営から身を引いて、収集に専念した。印象派に始まり近代西洋美術全般に及ぶが、オスカー・ラインハルト財団の収集品が2つの美術館に展示されている。                                                                                                                   1つが駅前通りにある美術館で市立公園美術館とも呼ばれる。市立公園美術館には主にスイス、オーストリアなど地元アーティストの作品が収蔵されている。                                                                              もう1つが、レーマーホルツにあるラインハルト邸を美術館にしたものでレーマーホルツ美術館とも呼ばれる。                                                                                           レーマーホルツ美術館は、ヴィンタトゥール駅から徒歩20数分の丘の上にある旧ラインハルト邸を改造したものである。大きな美術館ではないが、大きくする必要がない。なぜなら、ここにはオスカーが選定した選り抜きの作品だけが展示されている。オスカーの審美眼にかなわなかったものは展示されない。カタログはわざわざ『オスカー・ラインハルト財団「レーマーホルツ」からの100の傑作』と銘打っている。収集家オスカーの審美眼と趣味だけで構成された美術館展示である。                                                                                                    最初に目につくのは、15世紀ライン・ドイツの作品で「マリアの受胎告知」(作者不詳)である。部屋で読書中のマリアのもとに天使が訪れたシーンである。ルーカス・クラナハの「ヨハネス・クスピニアンとアンナ・プッチュの結婚」は2人の肖像画である。                                                                                                  ホルバイン、エルグレコ、ピーター・ブリューゲル「雪の中の諸侯たちの崇拝」、ルーベンス「デシウス・ムス」、プサン「聖家族」、フラゴナールのデッサン、アングルの肖像画、ドラクロワ「オフェリアの死」、そしてコロー、ドーミエ10数点、クールベ「ハンモック」、もうこのあたりですっかり満喫。                                                                                                                  ルノワール「フォントネ薔薇園」「眠る少女」、シスレー「サンマルタン運河」、ピサロ「エルミタージュ」、ゴーギャン「青い屋根」、モネ「セーヌの解氷」、マネ「マルゲリーテ・コンフラン」「カフェ」、ドガの踊り子、セザンヌ「ドミニク・オベール」「自画像」「シャトー・ノワール」「サン・ヴィクトワール山」、ゴッホ「プロヴァンスの庭」「アルルの病院」2点、ロダン「ベネディクト15世」、ルノワール「漁婦」といった調子で続く。 平日の午前中に行くと客が少ないので、傑作に囲まれて一人のんびり過ごせる。カフェテリアもある。町中とは別世界である。

ヘイト・クライム禁止法(65)ドミニカ共和国

ドミニカ共和国が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/DOM/12. 8 June 2007)によると、憲法第八条六項は、表現の自由を定めている。「何人も、事前検閲なしに、自己の意見を、文書又はその他の表現手段によって、画像や口頭の形式で、自由に表現できる。表明された意見が他人の尊厳や道徳、公共の秩序、又は社会の道徳原則に対する脅威となる場合、法律によって定められた刑罰が適用される。匿名であれ、その他のいかなる表現手段によるものであれ、法の破壊を煽動する国家転覆宣伝は禁止される」。憲法第八条七項は、公共の秩序に違反しない限り、結社の自由を認めている。                                                                                           意見の表現に関する法律六一三〇号第三三条二項は、特定の人種又は宗教のメンバーである人々の集団への中傷がなされた場合、住民に憎悪を煽動する意図があれば、一月以上一年以下の刑事施設収容及び二五以上二〇〇ペソ以下の罰金としている。統計や適用事例は示されていない。                                                                                                           人種差別撤廃委員会はドミニカ共和国に対して次のような勧告をした(CERD/C/DOM/COO/12. 16 May 2008)。委員会は、議会で審議中の改正刑法草案に人種差別に対する制裁規定があるが、まだ採択に至っていないことに留意する。刑法改正においては条約第四条及び一般的勧告一五号(一九九三年)を十分に考慮するよう勧告する。委員会は、レジャー施設などの公共の場における人種差別の報告があることに関心を表明する。公共の施設・場所の利用が人種、皮膚の色、国民的又は民族的出身を理由に否定されることのないように勧告する。そうした差別に対して改正刑法草案に規定を設けるよう勧告する。

Sunday, March 16, 2014

ヘイト・クライム禁止法(64)ベルギー

ベルギー政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/BEL/15. 13 September 2006)によると、1981年の人種主義と外国人嫌悪に関する法律が1999年5月に改正され、すでに主刑を言渡された者に対して、裁判所が裁量で付加刑として5年以上10年以下の一定の政治的権利(公職就任権、公務員就任権、被選挙権)の取消しを言渡すことが出来るようにした。                                                                          2005年4月14日、アントワープ控訴裁判所は、1995年の歴史否定主義に関する法律および1981年の人種主義と外国人嫌悪に関する法律に違反した人物に、主刑として1年の刑事施設収容、付加刑として10件の政治的権利取消しを言渡した。                                                                                      2006年4月26日、数々の極右過激派リストに名前が載っている人物が、ベルギーでともに居住する諸外国人を貶める文書を配布したかどで、人種主義の煽動で罰金及び5年の資格剥奪(被選挙権など一定の市民的政治的権利)を言渡された。報告書には裁判所名の記載がない。                                                                                      1989年7月の連邦選挙に際する支出・政党助成に関する法律第15条は、欧州人権条約が保障する自由と権利に明白に敵対を表明する政党に対する助成を取消すことを認めている。同法に基づいて2005年8月、閣議は実際の施行措置を定めた。                                                                            ベルギーではフラームス・ブロックという政党をめぐって議論が続いていた。1999年5月、憲法第150条が追加され、人種主義的性質のプレス犯罪を刑事裁判所の管轄とした。刑事裁判所は、1981年の人種主義と外国人嫌悪に関する法律違反事件だけでなく、刑法第443条の名誉毀損罪、1995年の歴史否定主義に関する法律違反事件を扱うことになった。反レイシズムの訴追を容易にする改正は、旧フラームス・ブロックを念頭に置いたものである。2003年2月26日、ブリュッセル控訴裁判所は、3つの非営利団体がフラームス・ブロックと結びついているとされた件で、3tの団体が訴追されることになった行為が証明されたならば、それはフラームス・ブロックという政党によって行われたことになり、「政治犯罪」ということになるとして、管轄権を否定した。これに対して、2003年11月18日、破棄院は、「政治犯罪」という概念は明確に規定されているとし、政治犯罪概念を限定的に解釈した。2004年4月21日、ゲント控訴裁判所は、3団体に1981年法律違反(人種差別煽動団体のメンバーであること)で、約12000ユーロの罰金を命じた。フラームス・ブロックは法的地位を失っていたので、対象とはならなかった。2004年11月9日、破棄院はこの判決を支持したこれにより、フラームス・ブロックは解散となり、2004年11月14日、新たにフラームス・ベラングが設立された。                                                                                                 2006年4月18日、ブリュッセル控訴裁判所は、国民戦線の指導者とその助手に、人種憎悪、差別、隔離主義の煽動で有罪を言渡した。助手は、10年間の被選挙権取消しと外国人統合センターでの250時間の社会奉仕を命令された。破棄院に上告中である。                                                                                             人種差別撤廃委員会はベルギー政府に次のような勧告をした(CERD/C/BEL/CO/15. 11 April 2008)。国民戦線メンバーに有罪判決が出たが、ヘイト・スピーチが続いている。委員会は、フラームス・ベラングが、2007年5月10日の法律第21条に基づいて、人種的優越性と憎悪の主張の流布が犯罪とされるのは表現の自由に反すると憲法裁判所に提訴した裁判に関心を有する。条約第4条及び一般的勧告15に照らして、条約第4条を意見・表現の自由と合致していると考えるべきである。委員会はベルギーに、政治家、公人、一般公衆における外国人嫌悪や人種的偏見と闘う措置を強化するよう勧告する。委員会は、長い裁判の結果、人種主義と差別宣伝を行うフラームス・ブロックが解散となったことに留意する。その継承団体フウラームス・ベラングの活動に留意する。委員会はベルギーが条約第4条(b)を実施する特別の規定を持っていないことに関心を有する。委員会は、一般的勧告15を想起しつつ、条約第4条を完全かつ適切に実施するよう勧告する。委員会は、人種主義者の犯罪に関する統計数値が限られていることに関心を有する。捜査、訴追、判決、被害者補償に関する統計も不十分である。

ヴィンタトゥール美術館散歩(1)

ヴィンタトゥールは美術品と美術館の町だ。チューリヒに次ぐ産業都市で、アルプスもなく湖や川もなく、観光としてめぼしいものがないが、素晴らしい美術館がいくつもある。10年以上前に一度訪問したが、今回来てみると、駅前の様子が変わっていた。大きな商業ビルが一つでき、地下通路もあって様子が違う。もっとも、旧市街や美術館は同じたたずまいだ。                                                                                                      ヴィンタトゥール美術館は、駅前から美術館通りを5分ほど歩く。そのすぐ近くに、生涯を美術品収集にささげたオスカー・ラインハルトの名を冠する財団のシュタットパークの美術館と、郊外の丘の上にレーマーホルツの美術館がある。                                                                       ヴィンタトゥール美術館は、オーソドックスな近代西洋美術の作品を収録している。印象派に始まり現代アートに至るお約束のメニューだ。モネ、マネ、シスレー、ピサロ、セザンヌ、ドガ、ゴッホ、ヴラマンク、ドラクロワ、ルドン、ボナール、ホドラー、ココシュカ、ベックマン、ルソー、レジェ、ピカソ、グリス、ル・コルビュジェ、キリコ、マグリッド、マックス・エルンスト、ミロ、カンディンスキー、クレー、シュレンマー、アープ、シュビッタース、モンドリアン、マックス・ビル、フォンタナ、マンゾーニ、パオリーニ。彫刻はマイヨール、ロダン、ロッソ、ジャコメティと続くので、ざっと近代西洋美術史のおさらいができる。ピカソの彫刻や、ジャコメティの油彩もある。                                                                                                  シスレーの「ハンプトン・コート橋の下」、ゴッホの「夏の夕暮れ」、ホドラーの「無限」、マイヨールの「夜」、レジェの「スティル・ライフ」、ピカソは「壜とぶどう」と「二人の女性」。

ヘイト・クライム禁止法(63)ドイツ

ドイツ政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/DEU/18 31 January 2008)によると、インターネットの普及によって極右勢力とそのシンパによる活躍領域が広がり、捜査に苦労しているという。                                                                                       条約第4条(a)について、刑法第86条が反憲法的団体に宣伝流布を犯罪としている。第86条(a)は、ナチスなど特定の政党や組織のシンボルの使用を禁止している。刑法第130条の民衆煽動罪の規定は、極右の外国人排斥と闘うためのドイツ刑法で最重要な規定である。刑法第129条は人種憎悪や人種差別を正当化する団体を禁止している。刑法第131条は、暴力を賛美する文書を流布することを処罰するとしている。2002年6月の国際刑法に違反する犯罪法典により、刑法第130条が改正され、憎悪煽動文書の流布にメディアやインターネットを通じた流布も含まれるようになった。                                                                                2000~2004年の犯罪統計が紹介されている。刑法第86条の有罪判決は、383件(2000年)、438件(2001年)、447件(2002年)、422件(2003年)、402件(2004年)である。圧倒的に男性が多いことと、20%近くが青年(18~20歳)であることも示されている。刑法第86条(a)の有罪判決は、467件(2000年)、707件(2001年)、631件(2002年)、591件(2003年)、590件(2004年)である。報告書は犯罪件数が増えていると評価しつつ、2002円がピークだったとしている。                                                                                                      刑法第130条1項の有罪判決は、186件(2000年)、329件(2001年)、330件(2002年)、297件(2003年)、246件(2004年)。刑法第130条2項の有罪判決は、32件(2000年)、85件(2001年)、94件(2002年)、49件(2003年)、47件(2004年)。刑法第130条3項の有罪判決は、7件82000年)、44件(2001年)、17件(2002年)、18件(2003年)、24件(2004年)。ここでも報告書は2001~2002年に一つのピークがあったと言う。なお、この時期、刑法第129条及び第129条(a)の統計はない。                                                                                           2003年9月、ミュンヘンで極右テロリスト組織が解散させられた。ナチス的政権を復興するため、ドイツの現行社会秩序を廃棄するために爆弾闘争をする目的の組織であった。2003年11月にミュンヘンのユダヤ文化センターを攻撃する計画を持っていたが、発覚した。バヴァリア最高裁は、2005年4月から5月にかけて、指導者と7人のメンバーをそれぞれ7年、及び1年4か月の刑事施設収容とした。                                                                                                          2005年3月7日、ブランデンブルク高裁は、あるテロリスト組織の指導者と9人のメンバーに、8か月以上4年6か月以下の少年施設収容を言い渡した。2003年7月に組織された「自由団」という名の組織であり、外国人種雄の商店やレストランを襲撃して外国人の営業を止めさせることを目的としていた。                                                                                                        2004年3月10日、連邦最高裁は、「Landser事件」として知られる事件の判決を出した。Landser音楽グループは有罪が確定した。このグループは、1997年に3人のメンバーによって結成されたが、反憲法的団体の宣伝と煽動を行うCDを製作し、流布したので、刑法第129条1項の犯罪団体と認定された。                                                                                                               条約第4条(b)について、基本法第9条2項及び私的団体法があり、刑法や憲法秩序に違反する目的や活動の団体は禁止されている。私的団体法はEU以外も含む外国人団体にも適用される。                                                                                                                          2005年末、極右団体は183あり、そのメンバーは39、000であった。1993年当時は64、500、1998年は53、600だった。1992年以来、17の団体が怪異参させられた。2000年9月、連邦内務大臣は、ネオナチ団体のドイツ血と名誉とその青年部を解散させた。                                                                                                         イスラム集団の中に人種主義、反ユダヤ主義が増えている。「カリフ国家」と言う団体の機関誌が反ユダヤの煽動記事を載せている。イスラエルを否定するハマスを支持する団体も活動していた。連邦内務大臣は、イスラム主義カリフ国、アル・アクサ協会などに解散命令を出した。

ネグリを超えるネグリ?

廣瀬純『アントニオ・ネグリ――革命の哲学』(青土社)                                                                                 ベストセラーのネグリ&ハート『<帝国>』をあまり評価しなかったので、『マルチチュード』はよみかけたが、その後のネグリ本を読んでいない。思想家としては凄いブームで、『芸術とマルチチュード』『自由の新たな空間』『講演集』『さらば、近代民主主義』『未来派左翼』『ディオニュソスの労働』『野生のアノマリー』『革命の秋』『戦略の工場』『スピノザとわたしたち』『コモンウェルス』『叛逆――マルチチュードの民主主義宣言』などが続々と翻訳出版されている。年に2冊は出ている。                                                                                         そのネグリの「日本語としては初」のモノグラフィが、『闘争の最小回路』『闘争のアサンブレア』『蜂起とともに愛がはじまる』『絶望論』の著者によって送り出された。廣瀬は、膨大なネグリの著作をまとめ直して解説する方法を取らない。ネグリの生涯を描くこともしない。そういう手法だと膨大な分厚い著作になってしまう。廣瀬は190頁ほどの本書で、2つの工夫をしている。                                                                                          1つは、存在論と主体論に絞り込んで、ネグリの思想を描き出すことである。もちろん、他に書き出せばいくらでも書けるであろうが、あえて存在論と主体論という核心に限定する。そして、もう1つは、「ネグリとバディウ」「ネグリとバリバール」「ネグリのレーニン主義」「ネグリとドゥルーズ」「ネグリとフーコー」と言う形で、他者との論争を通じてネグリの思想と特質を浮き彫りにする。この2つの工夫によって、ネグリの思想の核心が素人にも分かる仕掛けとなっている。「マルクスを超えるマルクス」「レーニンを超えるレーニン」を掲げ、現代マルクス・レーニン主義を生き、「革命の希望」を手放さないネグリが見えてくる。                                                                                            ところが、廣瀬はネグリの「革命の希望」に反して、革命の不可能性を唱えたドゥルーズに与し、「安易な希望に溢れたこの世界で絶望を真の力能として作り出す、おのれの眼前に不可能性の壁を屹立させそれに強いられて逃走線を描出する」という『絶望論』を書いた。ネグリの闘争から、廣瀬の逃走へ。                                                                                                                すわ、「ネグリを超えるネグリ」宣言か、と思いきや、廣瀬は本書後半で「安易な希望」に「転向」する。2013年のネグリ来日に際してネグリと会って話したので、ネグリ派に戻って、希望を追いかけることにしたと言う。直接会って話したので師弟愛が復活した、いい話だ。素晴らしい。だから日本には思想家が育たないのだ。外国思想のお勉強家は掃いて捨てるほどいるが、思想家はいない。お勉強(受け売り)が好きなんだな、骨の髄まで。

Saturday, March 15, 2014

ステラ・ヴェサ展

国連欧州本部では今3つの展示が行われている。旧館の大会議場前では「結婚するには若すぎる」という写真展。子ども強制結婚をテーマにした写真である。新館1階のフロアでは、1つは「笑顔の権利」と言う写真展。名前を忘れたが、男の写真家で、世界各地の子どもたちの笑顔が30枚ほど。                                                                                                      もう1つが、同じフロアで、ステラ・ヴェサStela Vesaの作品展。国際女性デーを記念して、欧州評議会が主催で開かれている。ステラ・ヴェサはルーマニアの画家で、1946年生まれらしい。ティミショアラ大学芸術学部で学び、ルーマニア画家協会会員、ユネスコ国際芸術協会会員。                                                                                           展示されている作品は30点ほど。すべてとてもカラフルで華やかな油彩。圧倒的に女性を描いた作品が多い。作品名は「ミューズを求めて」「夢見るミューズ」「5時の紅茶」「リンゴを持ったミューズ」「トランシルヴァニアでお茶のお誘い」「2人のシンフォニィ」といったもの。                                                                                                              彼女のウェブサイトにも作品が何百枚も掲載されている。                                                                                                 http://www.stelavesa.com/

レイシストになる自由?(6)

エリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』(明石書店)                                                                                           本書「5 結社の自由と人種差別団体規制のジレンマ」では、一方で、表現の自由と並ぶ重要な権利としての結社の自由と、他方でヘイト・スピーチを繰り返す人種差別団体の規制をどう考えるべきかを検討している。民主主義を機能させるためには結社の自由が不可欠であるが、「危険すぎて民主主義が許容できない」団体をどうするのかである。テロリスト団体の規制は当然のこととされている。ここでも、「アメリカは、積極的にレイシストの自律性を擁護している」。ネオナチ政党もKKKも合法であり、公然と活動している。ヨーロッパでは、人種差別団体への規制が行われている。ブライシュは、アメリカ、ベルギー、ドイツの状況を詳しく紹介して検討している。規制の内容は、団体解散から、公的助成の禁止、あるいはメディア報道からの排除、さらには団体委員の公職禁止など多様である。 アメリカでは、ヘイト・スピーチ法規制がなく、ヘイト団体規制もなく、犯罪行為をしない限り、団体に対する国家介入はない。公民権運動が、団体規制をすると逆に自分たちが規制されることを恐れて、結社の自由を主張したためとされる。                                                                                                              ベルギーもかつてはアメリカと同様にレイシズム団体の規制には消極的だった。しかし、人種差別的な極右政党の登場により状況が変わり、2004年、最高裁は、人種差別政党を援助した団体への制裁を是認した。移民を攻撃するフラームス・ブロックという政党の活動が問題を引き起こしている。人種差別撤廃条約批准に伴って制定された1981年法律が実際に適用されるようになった。「フラームス・ブロックが人種差別を明確に、何度も、そして明白に扇動している」ことが決め手になった。今も議論が続いている。                                                                                                        ドイツはネオナチと闘う必要性から結社の自由を制限する法悪を積み重ねてきたことは、これまでも紹介されてきた。ブライシュによると、オランダ、フランス、オーストリア、スペイン、イタリア、ポルトガルで人種差別団体、ファシスト規制の努力が続いている。 ブライシュは、アメリカ、ベルギー、オランダの共通点と相違点を確認し、歴史的背景の違いから現状の差異がもたらされたことを分析している。                                                                                                                           日本では団体規制と言うと、すぐに治安維持法と破壊活動防止法を思い出すことになる。オウム真理教への破壊活動防止法適用問題で大騒ぎしたくらいである。現在では、団体規制に対する反発が非常に強く、今後も規制は困難と言ってよいであろう。京都朝鮮学校事件や新大久保ヘイトデモを見ても「表現の自由だ」と断定する憲法学者がいるので、おそらく結社の自由についても同じ議論になるであろう。                                                                                                                          実際、山形県生涯学習センターが在特会の施設利用を拒否した件で、メディアは結社の自由や思想信条の自由の問題として取り上げた。しかし、人種差別団体に公共施設を利用させることは、政府(国であれ地方自治体であれ)が人種差別団体に便宜を提供することであり、人種差別撤廃条約第2条に照らして許されない。今後、こうした議論が必要になって来るだろう。                                                                                                                              ヘイト・スピーチ集団に公共施設を利用させてはならない3つの理由                                                                       http://maeda-akira.blogspot.ch/2013/06/blog-post_6044.html

Friday, March 14, 2014

国連で「慰安婦」国際メモリアルデーを求める

3月14日、国連人権理事会は議題3の一般討論だった。議題3には世界中のNGOが集まって発言する。11時半から16時まで休みなしで、約80のNGOが発言した。イラク、アフガニスタン、スーダン、エジプト、ベネズエラ、アメリカ、イラン、アルメニア、パキスタン、中国など各地の人権問題である。80のうち、日本関連は4つ。                                                                                     NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)は、次のような趣旨を発言した。                                                                       <新しい国際メモリアルデーの運動を紹介する。中国、韓国、朝鮮にこの運動への協力を要請する。1991年8月14日、金学順さんは日本軍性奴隷制の被害者だったことを初めて証言した。そのほかのアジアの生存者も半世紀の沈黙を破り、日本による性奴隷制の実態を明るみにだし、世界の武力紛争下における性暴力被害者を励ました。しかし、日本政府は法的責任を認めず、真相解明も補償も怠り、国連人権機関からの勧告を拒否している。安倍首相は慰安婦強制の証拠はないと言い、侵略戦争について謝罪する立場は取らないと述べ、侵略戦争を正当化する靖国神社に参拝した。昨年8月、私たちは最初の日本軍慰安婦メモリアルデーをもち、国際メモリアルデーを目指している。>                                                                                        次にNGOの対日道義請求財団(アドリアンセン=シュミット)は次のように発言した。彼女は収容所で虐待を受けた被害者である。                                                                                                             <日本は第二次大戦下のオランダ領東インド(インドネシア)における過去を記憶するべきである。当時子どもだった被害者は80歳代で、今も飢え、虐待、奴隷化の記憶に苦悩している。日本軍の戦争犯罪を隠し、忘れてはいけない。政治指導者は歴史を修正しようとしてはならない。日本軍の行動を美化することは名誉にならない。慰安婦を含む被害者は亡くなる年齢に達している。日本政府はサンフランシスコ講和条約14条を想起するべきである。>                                                                                                                      次にNGOのヒューマン・ライツ・ナウ(元百合子)は、冒頭に「慰安婦・国際メモリアルデーの提案を支持する」と述べたうえで、次のように発言した。                                                                                                                      <日本政府は特定秘密保護法を制定して、表現の自由を厳しく制約しようとしている。この法はナヴィ・ピレイ国連人権高等弁務官や、フランク・ラルー国連表現の自由特別報告者が指摘したように国際人権法、国際自由権規約19条に反している。法律は不透明な準備で、国会審議も十分なされずに通った。ピレイ人権高等弁務官が表現の自由の保障との整合性に疑問を投げかけた4日後に、安倍政権はごり押しした。メディア、学者、市民社会が強く反対を表明したが、ほとんど無視した。>                                                                                                                    最後にNGOの平和・軍縮中国人協会Chinese People’s Association for Peace and Disarmamentは、次のように発言した。初めて見るNGOであり、発言した女性も初めて見た。                                                                                                       <テロリストの暴力に強く反対する。77年前、日本軍の侵略による南京大虐殺が行われたが、これはテロリストの人権侵害である。しかし、日本政府は南京大虐殺を否定し、第二次大戦下の侵略と人権侵害を反省せず、靖国神社参拝を行っている。これに対して強い義憤を表明する。日本政府は南京大虐殺と「慰安婦」について謝罪し、歴史的責任を取るよう促す。靖国神社参拝をやめること。アジア各国の被害者の感情を逆なですることを止めること。教科書と歴史の改竄を止めること。>

Thursday, March 13, 2014

大江健三郎を読み直す(11)知識人は絶滅危惧種か?

大江健三郎『「話して考える」と「書いて考える」』(集英社文庫)                                                                               2002年から2004年にかけての講演録で、単行本は2004年10月に集英社から出版され、2007年6月に文庫化された。                                                                            冒頭の「中野重治の美しさ」と「佐多さんが『おもい』と書く時――『夏の栞――中野重治をおくる』にそくして」は、前者が「中野重治生誕100年行事講演会」、後者が「佐多稲子生誕100年の集い」における講演の記録である。                                                                                    中野と佐多という、戦中の苦難を乗り越えて、戦後文学で活躍した2人を、その「後継者」でもある大江が語った、とても印象的な講演だ。中野についても佐多についても全集を手にしたことはなく、わずかの代表作を文庫で読んだだけの読者にも、味わいながら、噛みしめながら読める。                                                                                                               大江は中野の「転向」の、党派的運動論的意味ではなく、日本社会論的意味でもなく文学的意味を語る。中野が呼びかけるものに答えられていない日本を生きる文学者として、中野の廉恥心を共有するために。大江は佐多の「戦争協力」にもちろん批判的であり、戦後、佐多が新日本文学会発起人から外されたことを肯定するが、「イデオロギーではなく、『おもい』のかたまりを持っていた人」としての佐多をどう読むべきかを考え続ける。                                                                                  大江の「おもい」は本書の随所に垣間見ることができるが、終わりの方の講演「タスマニア・ウルフは恐くないか?」にはかなりの焦燥感で表明されている。                                                                                   大江は、サイードを媒介として、日系アメリカ人知識人マサオ・ミヨシの日本文化論を手掛かりに議論を進める。すなわち「日本文化の国際的影響力のほぼ完全な欠如」。                                                                                                              大江の問いと答えは簡明である。「いま死に絶えようとしている日本の知識人の伝統を、土壇場でよみがえらせねばなりません。それは、書き手としても読み手としても、若い知識人を要請することです」。「若い世代からおうほとんど死滅したとみなされていることにおいてタスマニアオオカミにくらべられる私ら日本の知識人の生き残りに、やるべき仕事はある、と私は考えるのです。/そしてその具体的な手がかりとして、私は日本の近代の見なおしが必要であり、かつ有効だといいたいのです。日本人が近代において行なった侵略戦争の、とくに新世代による再認識の努力を、それはふくみます」。                                                                                               言うまでもないことだが、この課題は政権やそれを支える日本主義者たちによって妨害され、徹底的に忌避され、嫌悪されてきた。若い時代から周縁意識を表明してきた大江は、戦後文学の代表作家となり、ノーベル賞を受賞してなお、孤高の存在であり続けねばならず、良くても敬して遠ざけられ、ファナティックなナショナリストからは「非国民」と罵倒される位置にいる。                                                                                                                            大江の言う知識人にはほど遠いとしても、何らかの意味で知識人たろうという志を持つ一人として、思想の荒野にニホンオオカミを探す努力をしなければと痛感する。

憲法学者はなぜ黙っているのか?(浦和レッズ横断幕問題)

浦和レッズ・サポーターによる横断幕「Japanese only」掲出問題が「処分」の決着に辿りついた。横断幕を撤去せず放置した浦和には「無観客試合」という厳しい処分。当該サポーターグループの無期限入場禁止、社長の報酬カットなど。                                                                                               ヘイト・スピーチを刑事規制する欧州諸国をはじめ、国際感覚から言って当然の処分である。日本ではヘイト・スピーチとヘイト・クライムについての理解がほとんどないので、こういう残念な出来事を通じて徐々に国際常識が備わっていくのだろう。                                                                                                             サッカーの場合、フーリガンの暴走・騒乱事件は日本でも報道されてきたので知られているが、それほど大きな規模でなくても人種差別事件は多発し、時には犯罪として処罰されてきた。典型的なのは、ファンが「**を殺せ」という文字を書いたTシャツを着用する事件で、有罪判決がいくつも出ている。「Japanese only」はそこまで悪質ではないとはいえ、差別と差別煽動の典型例と考えられている。                                                                                                                         ところで、今回の件、ネットで少し調べてみて奇妙なことに気付いた。私が見た範囲では、憲法学者の発言がないのだ。                                                                                                    新大久保や鶴橋で「朝鮮人は出ていけ」「叩き殺せ」「韓国人は死ね」と言った最大級のヘイト・クライム・デモが行われた時に、マスコミに登場して「表現の自由だから処罰できない。民主主義国家ではヘイト・スピーチを処罰することはできない」とデマを垂れ流した憲法学者たちは、なぜ今回黙っているのだろう。「Japanese onlyは表現の自由だ。処分なんてけしからん」と言って浦和を擁護すべきではないのか。刑事罰ではなく、処分なら黙っているのだろうか。                                                                                                             「ヘイト・スピーチはヘイト・クライムの一つであり、被害がある。単なる表現の自由の問題ではない。それどころか、表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するべきだ。EU諸国はすべて処罰する」という私の主張を全否定した憲法学者と弁護士は、今こそ立ち上がって浦和擁護発言をしてほしいものだ。

Wednesday, March 12, 2014

パウル・クレー・センター散歩

クレー・センターにはもう10数回訪れた。90年代にベルン駅前のベルン美術館に行ったところ、クレーだらけだった。生誕の地である。クレーはドイツ国籍だが、スイス生まれスイス育ちだ。何度か美術館に通ったが、2005年、ベルン郊外にパウル・クレー・センターができた。レンゾ・ピアノの設計。単なる美術館ではない。音楽ホールあり(クレーはバイオリニストにして音楽批評を書いていた。リリーはピアニスト)、美術教室あり(クレーはもちろん美術教師)、展示ホールは2つあって、同時に2つの企画展ができる。収蔵庫と研究所もある。クレーの作品9000のうち4000がここにある。子ども時代のスケッチもあれば、クレーの指人形もあれば、写真、家族に出したはがきや手紙、クレーが使った筆やパレットもある。                                                                                                         昨年夏は「風刺絵画とクレー」がテーマで、ちょっとおもしろいものの、クレー作品が少なかった。いまは「クレーの生涯と作品」で、いわばクレー入門だ。年代順に数点展示して、クレーの生涯を追いかけていける。センター・オープン時にも同じような企画展をやったが、中身は違っている。何しろ4000点あるので、同じテーマでも多様な展示が可能だ。5%を並べるだけで凄いクレー展になる。今回も初めて見る作品がいくつもあった。超有名作品は、最後のブースに「インシュラ・ドゥルカマーラ」など数点のみ。                                                                                   2つ目のホールは閉鎖されていた。と言うのも次の展示の準備中で、案内を見ると3月14日から「チュニジア旅行」だった。クレーやマッケらがチュニジアに旅行し、そこで描いた作品など。一般に、クレーはチュニジアで光に目覚めて、画風が大きく変わり、そこから画家として認められるようになったとされている。必ずしも正確ではないことはわかっているが、一般にはそういう事になっている。そのチュニジア旅行を主題とした企画展だ。日程的に見ることができないのが残念。                                                                                   センター敷地裏側にある彫刻の庭を見てから、クレーとリリーのお墓を訪れてきた。

Tuesday, March 11, 2014

死刑を言い渡された親の子どもの権利パネルディスカッション

3月11日にジュネーヴで、国連人権理事会のサイドイベントとして、ベルギー・ノルウェー・モンテネグロ・メキシコ政府とクェーカー国連事務所主催のパネルディスカッション「死刑を言渡された親又は執行された親の子ども」が開かれた。                                                           主催者から日本のNGOに報告をとの要請があったが、この時期にジュネーヴまで来ることができないため、代わりにジュネーヴにいる私が参加することになった。ところが、主催者が出した案内に、私の名前もスピーカーとして発表されたので、日本の状況について報告しなくてはならない。日本のNGOにSOSを出して、もらった情報をもとに報告させてもらった。もっとも、この日は人権理事会で「人権と環境特別報告書」を巡る審議があり、そこで発言したので、ばたばたした。人権理事会での発言を終えて、パネルディスカッション会場に移動すると、私の前のスピーカーが発言を終えるところで、ちょうど間に合った。遅刻したので、ちょうど3.11なので人権理事会でフクシマの報告をしてきたところです、とお詫びから始めた。                                                                              司会:レイチェル・ブレット(クェーカー国連事務所)                                                                            スピーカー:メキシコ政府代表、マルタ・サントス・ペ(国連子どもに対する暴力特別報告者)、アン・クリスティン・ヴェルヴィク(子ども保護専門家)、ザヴェド・マフード(国連人権高等弁務官事務所員)、前田朗。                                                                                                          発言内容は、麻原の子どもが住民登録を拒否されたり学校に入学できなかったことを例として、凶悪犯の子どもが人権を否定されること。死刑囚となると、離婚や子どもの別離など厳しい状況になること。当局は子どもと死刑囚の面会にも理解がないこと。最近、父親が母親を殺した事例の子どもが勇気を奮って社会的に発言しているが、これまでそうした情報がほとんど入手できなかったことなど。                                                                                                                                ベルギー政府代表から、執行情報を当日まで教えないことと、子どもの面会の制限について質問があった。日本の刑事施設における「沈黙」の問題、受刑者特に死刑囚の「心の平穏」問題に絡むことで、おおむね答えたが、深くは説明できなかった。                                                                                                           他の参加者や司会からも質問が出たが、なぜ日本で重罰化が進み、世論が死刑を支持しているのかということと、最近のナショナリズム、歴史認識問題(慰安婦、靖国)、ヘイト・スピーチ問題、日本社会における不寛容について一般的なことを述べるにとどまった。  

フクシマを国連に報告(2)

3月11日、国連人権理事会は、「人権と環境特別報告者の報告書」をめぐって審議した。そこで、NGOの国際人権活動日本委員会(JWCHR、前田朗)は、フクシマの状況を報告した。3.11だったので、冒頭に3周年と強調した。そういえば、2011年3月12日から連日のように、どの政府も「日本における地震と津波の被害者に哀悼の意を・・・」と演説してくれた。そこで、別に日本人を代表するわけではないが、11年3月15日に発言した際に、冒頭に地震・原発のことに触れて、みなさんありがとうございます、と言ったのを思い出した。今回は、「人権と環境特別報告者の報告書」が出たので、それに合わせてフクシマのことを報告した。                                                                                                  <特別報告者の報告書を歓迎する。今日は東日本大震災から3年目である。昨年9月11日、神奈川にいる被災者、福島からの避難者が、原発被害を訴えて横浜地裁に提訴した。事故から3年になるが、多くの人々が国内避難民状態であり、故郷に帰れない。政府と東電は金もうけしか考えていない。2012~13年、市民による原発民衆法廷は福島、広島、大阪、東京などで公判を開き、13年7月21日に判決を出した。判決は、原発事故災害と人権に関する国連特別報告者を設置するように提案した。日本政府は避難者を汚染地域に帰らせようとしている。被災者の人権(生命権、健康権、子どもの権利)が侵害されている。海洋汚染が続いているが、政府は無策である。特別報告者はフクシマの状況を調査してほしい。>                                                                                           直後にやはりNGOのヒューマン・ライツ・ナウ(元百合子)がフクシマの被災者の権利が侵害されていることを訴えた。偶然2つ並んで、良かった。

Sunday, March 09, 2014

大江健三郎を読み直す(10)セヴンティーンの内面から安保状況を

大江健三郎『性的人間』(新潮文庫)                                                                                         「性的人間」「セヴンティーン」は1963年6月に『性的人間』(新潮社)、「共同生活」は『孤独な青年の休暇』(新潮社)。新潮文庫版は1968年だ。                                                                               「セヴンティーン」の初出は「政治少年死す――セヴンティーン第2部」と順に、『文学界』1961年1月号、2月号。浅沼稲次郎暗殺事件をもとに、右翼少年の内面を描いた作品だが、右翼団体から出版社等に脅迫が行われたため、第2部はその後の単行本に収められていない。深沢七郎の『風流夢譚』事件と並ぶ右翼による言論弾圧の代表的事件だが、現在まで未解決である。大江がノーベル賞を受賞した時期がチャンスだったが、何の議論も起きず、そのまま出版できない状態が続いている。学生時代にコピーを入手して読んだことは読んだが、文学作品を読んだと言うよりも、歴史的事件の該当文書を読んだという感じだった。ノーベル賞受賞作家の作品を出版できない国だ。もっとも、「政治少年死す」は、最近、某出版社の右翼研究本に、『文学界』掲載のものがコピーでしっかり掲載されている。それも入手したが、やはり文学作品として読むのはまだ難しい。                                                                             「セヴンティーン」を読んだのは、20歳の頃だったと思う。ポール・ニザンの「ぼくは20歳だった。それが人の一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにもいわせまい」を読んでしまった後に、大江「セヴンティーン」の冒頭の「今日はおれの誕生日だった。俺は17歳になった。セヴンティーンだ」を読んで、しまった、もっと早く読んでおくべきだったと思った。ニザンの『アデン・アラビア』は、晶文社の篠田浩一郎訳が1966年に出ているので、それを1975~76年に大学図書館で読んだ。もう17歳は遠かった(苦笑)。                                                                                          「セヴンティーン」は、「政治少年死す」とともに、大江のもう一つの道を指し示すはずの作品だった。それが右翼による脅迫のために潰されてしまった。                                                                                                        というのも、他の作品のように自分の故郷の森の奥や、家族(特に障害を持った息子)という世界ではなく、大江自身とは全く異なる人物を主人公にしながら、その内面に迫るという手法であった。後まで続く「おかしな2人組」の構成でもない。「性的人間」と「政治的人間」の主題を交錯させながら、時代の流れに乗りつつも、同時に時代に反逆し異議申し立てする若者を描く試みだったと言えよう。また、《不幸な若者たち》が天皇に手榴弾を投げつけるのに失敗した『われらの時代』に引き続き、本作で大江は天皇制に接近している。ここでは性的に煩悶していた少年が、右翼団体に出会うことを通じて、正義を獲得し、天皇陛下に出会う。「おれが天皇陛下の子である」ことに気付き、《七生報国、天皇陛下万歳》の文字を背負い、国会デモ繰り返す左翼勢力に立ち向かう。                                                                                                      「おれは十万の《左》どもに立ちむかう二十人の皇道派青年グループの最も勇敢で最も凶暴な、最も右よりのセヴンティーンだった、おれは深夜の乱闘で暴れぬきながら、苦痛と恐怖の悲鳴と怒号、嘲罵の暗く激しい夜の暗黒のなかに、黄金の光輝をともなって現れる燦然たる天皇陛下を見る唯一人の至福のセヴンティーンだった。小雨のふりそぼつ夜、女子学生が死んだ噂が混乱の大群衆を一瞬静寂に戻し、ぐっしょり雨に濡れて不快と悲しみと疲労とにうちひしがれた学生たちが泣きながら黙祷していた時、おれは強姦者のオルガスムを感じ、黄金の幻影にみな殺しを誓う、唯一人の至福のセヴンティーンだった。」                                                                                                               山口二矢(1943~1960年)と、樺美智子(1937~1960年)――出会うことのなかった2人だが、大江は、樺美智子ではなく、山口二矢をモデルに安保状況を描き出した。

ヘイト・クライム禁止法(62)トーゴ

トーゴ政府が人種差別撤廃委員会に提出した第一七回報告書(C/TGO/17. 26 September 2007)によると、憲法第48条4項は「人種主義、地域主義、外国人嫌悪の表現は法律により処罰される」としている。                                                                                                 1980年の刑法第59条2項は、被害者の民族性、宗教又は国籍に関する軽蔑を含む侮辱を定め、(a)公然または文書による重大な侮辱を故意に行った者は、罰金(2000以上3万以下のCFAF、倍加する場合は4000以上6万以下)、(b)10日以上30日以下の労役(裁判所の監督下での社会奉仕労働)。                                                                                             1980年の刑法第182条2項は、公道における無許可デモの組織者を、1月以上6月以下の刑事施設収容及び/又は2万以上10万以下CFAFの罰金とする。刑法第183条は、公道における無許可デモが公共施設、地域住民財産、駐車した車両の損壊をもたらした場合、1月以上6月以下の刑事施設収容とする。                                                                                             1998年のプレス放送法第86条及び第87条は、印刷、売買、配布又は公共の場や集会で展示するなど文書によって、公共に展示されたプラカード、ポスター、絵画、印刷物、記章によって、又は文書又はオーディオ・ビジュアル・コミュニケーションによって、人種的又は民族的憎悪を表現することを、3月以上1年以下の刑事施設収容、又は10万以上100万以下の罰金とする。1998年のプレスコードは、国家当局、民間出版社、国営及び民営ラジオ・テレビによる人種的又は民族的憎悪の煽動を罰金または刑事施設収容とする。                                                                                                                    憲法第7条2項は、地域、民族集団又は宗教に特定した政党を認めないとしている。1991年の政党憲章は、地域、民族的又は宗教的を優先した差別を禁止している。                                                                                                 実際にはトーゴでは人種差別はほとんどない。人種主義を煽動する運動や活動もない。しかし、1990年の建国当時は民族的不寛容の状況があり、人種的憎悪の新聞記事も見られた。一部の政治家の背後に他民族に対して攻撃的な民族集団もある。政府は、民間のトーゴ非暴力協会と協力して、民主主義における自由と非暴力に関するセミナーを開催している。                                                                                                               人種差別撤廃委員会がトーゴ政府に出した勧告(CERD/C/TGO/CO/17. 23 September 2008)は、条約第4条の要請が十分に国内法に反映していない、特に人種主義活動に対する援助や財政支援を違法とし、人種主義宣伝を流布する団体を禁止することが反映していないとし、これらを犯罪とするように勧告した。委員会は、トーゴ政府が刑罰によらずに国民的和解をめざしていることを考慮しつつ、人種的憎悪を有する政治指導者やジャーナリストに刑罰を科さないとしていることに関心を有する。政治家やメディアが人種、皮膚の色、世系及び国民的又は民族的出身に基づいて人に烙印を押していることと効果的に闘うための措置を講じるよう勧告した。

Saturday, March 08, 2014

大江健三郎を読み直す(9)「反・牧歌的な現実生活の作家」になるために

大江健三郎『われらの時代』(新潮文庫)                                                                                              『芽むしり仔撃ち』からほぼ1年後、1959年7月に中央公論社から刊行された作品で、当時は、著者が作家としての主題を獲得し、新たな文学的冒険の出発点となると評された。新潮文庫には1963年6月に収められている。大江文学史の画期区分は、今となっては、まったく違う区分でまとめられる。半世紀を超える長さとその充実度から言って、最初期の傑作といえども、今となっては、重要度がかなり低くなっている。それゆえ、50時間の対話でつづる「自伝」という『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮文庫、2007年)において、本作への言及はない。「性的人間」と「政治的人間」への言及はあるが、それは主に「性的人間」、「セヴンティーン」をめぐる話である。                                                                                                                本作を読んだのは高校2年の終わり頃だ。冒頭の靖男と愛人の頼子のベッドシーンが、高校生には好奇心をそそるものだったが、フランス文学を学び、フランス留学のかかった懸賞論文が受賞するほどのエリート大学生と、「外国人相手に十年のあいだ娼婦をしてきた女」である頼子の人間関係が最後までよくわからなかった。外国人というのはほとんど駐留米軍関係者であり、大江最初期作品でも四国の森の奥にまで米軍がやってきたことが取り上げられており、米軍兵士体験が当時の青年の意識形成に影響を与えていたことはわかる。それがエリート大学生と外国人相手の娼婦の関係として表象されている。靖男と頼子のただれた、あいまいな、そしてそれぞれに我儘な関係は、靖男の受賞、頼子の妊娠をはさみ、頼子とウィルスン氏の結婚へと展開していく。                                                                                              他方、靖男の弟である康二とその仲間たちの3人組ジャズバンド《不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)》たちの猥雑と怠惰な生活の果てに呼び込んだ冒険譚が、本作のもう一つの大きな筋立てとなっている。まだ不確かな形ながらも、ここで大江は<天皇制>に出会う。《不幸な若者たち》が天皇の車に手榴弾を投げることを思いつくのは、政治的な半天皇制とは関係なく、どん詰まりに陥った自分たちの何らかの突破口を作りたいという意識、加えて未熟な冒険心のレベルのことだが、主要な登場人物に天皇の車に手榴弾を投げさせようとした大江の意識はマイ伯と言ってよいだろう。もっとも、冒険は失敗に終わり、代償行為としてのもう一つの冒険で《不幸な若者たち》のうち2人は死んでしまう。そこから急転直下の終結で小説は幕を閉じる。                                                                                                     文庫版末尾には大江自身による「《われらの時代》とぼく自身」という一文が収録されている。本作は「ほとんどあらゆる批評家から嫌悪されていた」という大江は、「セヴンティーン」に対する批判は政治的だったが、本作に対する攻撃は「過度に厳粛な文学の名においてなされた」とし、自らの変容を「牧歌的な少年たちの作家」から「反・牧歌的な現実生活の作家」になるために「性的なるものを採用」したのだという。                                                                                                           当時の批評がどうであったかとは別に、大いに後智恵であるが、現在から見るとどうなのだろうか。大江の前には石原慎太郎の『太陽の季節』(1955年、芥川賞)があり、後には村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(1976年、芥川賞)がある。それぞれの時期に、若者の性行動と意識を描いた作品だが、こうした方法の有効性はいつの時期まであったのだろうか。                                                                                                もう一つ、これも今となっては思い出す人も少ないかもしれないが、大江の後に、柴田翔『されどわれらが日々――』(1964年、芥川賞)が続き、さらに後に三田誠広が『僕って何』(1977年、芥川賞)で登場した。「われらの時代」から「されどわれらが日々――」、そして「僕って何」への変容に、当時の青年の意識の変容を見る評論をみかけたものだ。また、栗本薫が『ぼくらの時代』(1978年、江戸川乱歩賞)を出している。かくして近代的自我を求めてさまよった戦後民主主義世代の物語は終わりの始まりを迎えた。

マルティニ美術館散歩

スイス南西部ヴァレー州のマルティニの美術館は、正式にはピエール・ジアナダ財団という。モンブランのシャモニーへの鉄道駅でもあるマルティニ駅前通りを10分余り歩いて行ける距離にある。美術館の裏にローマ時代の闘技場がある。スイス南西部はローマ帝国領だったからだ。闘技場は発掘、復元されて、時に演奏会などに使われているようだ。他には山の中腹に小さな城があるくらいで、盆地の小さなこの町にあまり見るものはない。                                                                                   しかし、美術館は有名だ。3年ほど前にモネ展、その数年前にロダン展を見た。それまでもピカソ展、クレー展、シャガール展といった具合に、順次、企画展を開いて、有名アーティストの代表作をそろえて見せてくれる。その意味では日本の美術館と似ているかもしれない。普段は一度に見られない西欧美術の代表アーティストの企画展を順次開催するので、毎年ここに足を運べばいいのだ。実際、スイス各地の鉄道駅には「マルティニ往復券」の案内が置いてある。鉄道往復と美術館の入場料がセットで割引になっている。子どもを連れて行く家族向けの料金設定になっている。                                                                                                                                                              今回は大英博物館の協力による「古代ギリシアにおける身体の美」という展示だった。ジュネーヴ市内にも案内ポスターが貼ってあって、円盤投げの彫刻Discoboleが使われている。紀元5世紀にギリシアで制作されたブロンズ像をもとに、紀元2世紀にローマで制作された大理石像である。もとのブロンズ像は失われたという。これが展示会場の中央に置かれていた。他にディオニュソス、アポロン、ヘラクレス、アフロディーテなど多数の大理石像がメインだった。壺、花瓶、大皿も多数展示されていたが、「身体の美」がテーマだけあって、壺の装飾絵柄の多くは人間が登場する。カタログには「誕生、結婚、死」というタイトルでまとめてある。全体としてなかなか見どころがあったが、ブロンズのゼウス像が良かった。10数センチの小品だ。オリンポスには13メートルの巨大像があったという解説が付されていた。紀元1~2世紀のものだが、なぜか今のハンガリーの地域からのものという。                                                                                                            美術館の庭は彫刻庭園となっている。ロダン、マイヨールから、ニキ・ド・サンファル、マックス・ビルまで、40を超える彫刻が置かれて、散策コースになっている。また、地下にはなぜかクラシックカー博物館があるので、ついでに見てきた。また、今年の夏はルノワール展のようだ。

Friday, March 07, 2014

ヘイト・クライム禁止法(61)スウェーデン

スウェーデン政府が人種差別撤廃委員会に提出した報告書(CERD/C/SWE/18. 7 May 2007)によると、まず条約第4条(a)に関連して、国民的又は民族的集団に対するアジテーションは刑法16章8節で犯罪とされている。メディアにおける表現の自由はプレスの自由法及び表現の自由基本法によって強く保障されている。国民的又は民族的集団に対するアジテーションの犯罪は、憲法で保護されているメディアで行われた場合、処罰される。民族的マイノリティの保護のための刑罰法規が適用される。                                                                                  条約第4条(b)に関連して、人種主義活動を行う団体であっても、法律違反を行わなければ、禁止されていない。違反行為は、団体その他の集団を通じての人種主義声明の流布が、国民的又は民族的集団に対するアジテーションの規定に当たる場合。最高裁判所は1996年に、ナチスのシンボルや人種主義意見の表現は、国民的又は民族的集団に対するアジテーションで有罪とした。民主的コントロールを越えた団体設立を予防するため、刑法18章4節は、違法な軍事的行動を禁止している。以上の犯罪の共謀、準備、未遂、共犯は刑法23章に従って処罰される。犯罪が、人種、皮膚の色、国民的又は民族的出身、宗教信念、性的志向その他の事情に基づいて個人又は集団に対して行われた場合、刑罰加重事由となる。                                                                                                        条約第4条(c)に関連して、政府の指令に基づいて、公務員は法の前の平等を踏まえて職務を行う。民族差別の支持または促進は懲罰事由及び民事訴訟の原因になる。                                                                                    具体的な適用事例や統計は掲載されていない。                                                                               人種差別撤廃委員会がスウェーデン政府に出した勧告(CERD/C/SWE/CO/18. 23 September 2008)。第4条に効果を与える法律規定が存在し、政府はこれが条約の要請に適っているという見解であるが、委員会は、人種憎悪を促進・煽動する団体を違法とし禁止する明白な刑罰規定がないことに関心を有する。委員会は、国家は条約第4条(b)に沿って人種主義団体を禁止する立場を採用し、法改正を行うように勧告する。この点で、委員会は、一般的勧告一五(1993年)を想起する。委員会は、スウェーデン政府がヘイト・クライムと闘う努力をしていることを歓迎しつつ、2000年以後、人種的動機によるヘイト・クライムが増加し、白人パワー音楽と宣伝が普及していることに関心を有する。関連する法律はあるが、十分に適用されていないこと、検事総局が立件したヘイト・クライム事例がごくわずかしかないことに関心を有する。裁判所、検察及び警察の間で異なったヘイト・クライムの定義が用いられている。人種的に動機づけられたヘイト・スピーチを予防し、訴追する努力を強化し、関連する刑罰法規を適用するように勧告する。ストックホルムに設置されたヘイト・クライム課は優れた実例である。ヘイト・スピーチなど人種主義的行為を訴追する為、検察官に研修コースを用意するよう勧告する。国家機関がヘイト・クライムの定義を共有するよう勧告する。

ジェノサイド条約65周年記念パネル

3月7日、国連人権理事会は1948年12月に採択されたジェノサイド条約65周年を記念するパネルディスカッションを行った。                                                                                             ナヴィ・ピレイ国連人権高等弁務官、エドアルド・ナルバンディアン・アルメニア外相のあいさつに続いて、パネラーは、まずエスター・ムジャウォヨ、社会学者で、ルワンダ・ジェノサイドの生存者。最初に2枚の写真を示して、映っている父親、母親、夫、アネ、兄、姪、甥などを指して、みな殺された。もう1枚の写真に夫の父親、母親、兄弟など、姪一人を除いて、みな殺された。ジェノサイドの恐怖の体験をしたのちに、社会学者として、ポスト紛争の生活再建と修復的司法について語った。                                                                              次に、アダマ・ディエン、ジェノサイド予防に関する国連事務総長特別顧問。10年間の特別顧問の任務を報告した。もともと国際法律家委員会の事務局長(1994年のICJ「慰安婦」セミナーで来日)で、法律家だけあって、ジェノサイド条約の国際条約上の位置を説明しつつ、私たちは十分すぎるほど失敗を重ねてきたとし、早期警報、予防その他の対処を強調。最後に他の人権条約と違って、ジェノサイド条約にはモニタリング・システムがないことを指摘した。                                                                                             最後にジョナサン・シソン、スイス外務省残虐行為の予防タスクフォース顧問。アメリカ人で、かつてNGOの国際友和会やスイス・ピースで活躍し、「慰安婦」問題を人権委員会に訴えた。今はスイス政府の顧問。予防、早期警報や、被害者補償、教育などを順に語った。記憶について、バングラデシュとアルゼンチンのメモリアルがすぐれていると言う。                                                                                      各国の発言は、西欧とラテンアメリカの諸国が条約履行の手立てにつきいろいろと発言した。アゼルバイジャンがアルメニアを非難し、一部対立が露見したが。飛び交う言葉の基本は、当然のことながら、レイシズム、ヘイト・クライム、ヘイト・スピーチ、戦争犯罪、人道に対する罪だ。ヘイト・スピーチとは何かを知るには最適の場だが、こういうことが日本に知られることがない。知性の欠落した日本の憲法学者が国際舞台にやってきて「ヘイト・スピーチは表現の自由だ」と言ってくれれば、おもしろいのだが。

ヘイト・クライム禁止法(60)ロシア

ロシア政府が人種差別撤廃委員会73会期に提出した報告書(CERD/C/RUS/19. 23 October 2006)によると、2002年の連邦法第114-FZは過激主義を犯罪として定め、人権と自由を保障している。連邦法第114-FZ第1条は次のような定義を掲げている。                                                                                        ・暴力や、暴力に出るよう訴えて、人種的民族的又は宗教的対立や社会的不調和を煽動するための活動の計画、組織、準備、実行する団体、組織、マスメディア及び個人。                                                                                              ・イデオロギー的政治的人種的民族的憎悪又は敵意、又は特定の社会集団に対して向けられた憎悪又は敵意に動機を持つ大規模騒乱、フーリガン、蛮行を行うこと。                                                                                                    ・宗教に対する姿勢、又は社会的人種的民族的宗教的言語的理由に基づいて、市民を排除し、又は優越性・劣等性を唱道すること。                                                                                                          ・ナチスの装備品やシンボルを公然と掲げること。                                                                                                    ・ナチスの装備品やシンボルを掲げる行為を公然と呼びかけること。                                                                                                                                     連邦法第114-FZは、以上の行為を行う過激主義団体に対して、裁判所が解散命令を出すことが出来るとしている。                                                                                                                                              2002年改正刑法第282条1項は、イデオロギー的政治的人種的民族的憎悪又は敵意、又は特定の社会集団に対して向けられた憎悪又は敵意に動機を持つ犯罪の計画又は実行のために組織された団体を、過激主義団体としている。                                                                                                                          改正刑法282条2項は、過激主義団体を自発的に退会した者には刑事責任を問わないとしている。他方、公的地位にある者については刑罰加重事由としている。                                                                                                                                         2004年5月、連邦検事総局は、反テロ法による調査を強化する命令第一三号を出し、すべての市民が平等に民族、人種、宗教の権利を享受できるようにしている。過激主義犯罪の捜査のために、国家統計を作成し、公表している。                                                                                                                             ロシア報告書の主な内容は過激主義やテロリズムに関するもので、そこにヘイト・クライム、ヘイト・スピーチが含められている。

Thursday, March 06, 2014

レイシストになる自由?(5)

ブライシュ『ヘイトスピーチ』(明石書店)は、「4 アメリカは例外なのか?」において、自由民主主義にアメリカ型とヨーロッパ型の差異があるかを問う。本書の中核部分である。結論は、本書のこれまでの記述に照らしてすぐに想像がつく。                                                                                       「国際的なスペクトラムで見れば、アメリカは最も言論の自由を重視する位置にあるが、しかしものすごく外れた位置にあるというわけでもない。アメリカ国内でも、人種差別表現に対する制限は設けられている。ヨーロッパ的観点から見れば、それは取るに足らないものかもしれない。しかしそうした制限があるということを確認することで、アメリカではあらゆる状況でヘイトスピーチが認められている、という誤解を解くことができるだろう。ヨーロッパ諸国と同様にアメリカもまた、表現の自由を支持することとヘイトスピーチを制限することの間で、バランスをつることを余儀なくされているのである。」                                                                                   この穏当な結論をきっちり証明するのが本書の中身である。                                                                                                            19世紀から1930年代の議論、連邦最高裁における議論で「言論の自由」の原則が確立した。憲法修正第一条の解釈のレベルで言論の自由の原則が形成されたが、まだ「支持され始めたばかり」であって、バランスのとり方に苦心していたという。1940年代から50年代には言論規制が進んだ。州レベルでヘイト・スピーチ規制法が作られ、有罪判決が出されていた。「喧嘩言葉」や「集団に対する名誉棄損」を巡る議論が続いた。1942年、連邦最高裁は、チャプリンスキー事件判決において、「ファシスト野郎」「くそチンピラ」と言った激しい怒りの言葉を投げつけた行為を有罪とした。集団に対しては有名なボハネ事件判決が出された。1960年代から70年代に流れが変わる。連邦最高裁は「ヘイトスピーチの保護へ」舵を切った。1969年ブランデンバーグ事件、1972年ウィルソン事件を通じて、全米のヘイト・スピーチ法は表現の自由に対する侵害であり、憲法違反とされていく。1977年スコーキー事件で、ナチのデモ行進の自由が確立する(ただ、幸運なことにネオナチ運動はアメリカでは広がらなかった)。1990年代には、ヘイト・スピーチを制限する別の試みが登場する。KKKで知られる十字架を焼く行為による憎悪と威嚇の規制である。他方、雇用差別禁止法は人種差別発言が環境型ハラスメントになる場合を認めている。大学キャンパスにおけるスピーチコードも広がり、ハラスメント禁止規定が多くつくられている。                                                                                                    それでは1960年代にアメリカでなぜこのような変化が生じたのか。ブライシュの説明はこうである。                                                                                                                 「アメリカがヨーロッパ諸国と違う道を歩むようになるのは1960年代から70年代のことである。公民権運動やヴェトナム戦争への反対運動のような反体制運動が盛んとなったこの時期、エスニック・マイノリティは体制に抵抗するために最大限の言論の自由を求めた。ヘイトスピーチを制限するための法は、マイノリティ自身の表現を規制するためにも用いることができるものであった。そのため、ほとんどのマイノリティ集団は、そうした法を政府に求めないことを速やかに決断した。この点に関して意見を同じくした連邦最高裁は、公民権運動の時代を通じて、言論の自由をアメリカの中心的価値として定着させた。そこでは、人種やエスニシティ、あるいは宗教にかかわるマイノリティを攻撃する言論にさえ、それを保護するロジックが適用されたのである。」                                                                                                                     なるほど、公民権運動があってさえヘイト・スピーチ処罰法ができなかったのではなく、公民権運動はヘイト・スピーチ法を求めず、運動のための言論の自由を求めたと言うのである。かなりアメリカ的な特殊性を帯びた話である。日本で「アメリカではヘイト・スピーチ処罰法は表現の自由に反するとされる」と言うたぐいの議論をするときに、あたかもそれが普遍的な話であるかのごとく持ち出されるが、そうではないことに注意が必要だ。アメリカ現代史に由来することを具体的に把握する必要がある。

日中朝「慰安婦」問題で論戦、国連人権理事会

3月6日、ジュネーヴの国連欧州本部で開催中の国連人権理事会で、「慰安婦」問題、南京大虐殺、靖国問題をめぐって、日本、中国、朝鮮が論戦を戦わせた。この日は議題1の後半の一般討論で、各国政府が人権に関する一般的発言をするもの(要するに、特定のテーマではなく、各国が自由に発言する)。前日までのハイレベル・セグメントで各国政府が基調演説をし、この日は一般討論だった。昼休みにNGOサイドイベントに出たので、ちょっと遅れて入ったところちょうど日本政府が「反論権」の発言をした。人権理事会では、他国やNGOが自国のことについて発言した場合に反論権を行使することができる。                                                                                 日本――先ほどの中国と朝鮮の発言に反論する。中国政府の主張に反して、日本は第二次大戦中の歴史の事実について真摯に反省し、二度と繰り返さないとし、悔恨しremorse、謝罪apologyした。今の内閣の立場はこれまでの内閣の立場と変わっていない。朝鮮政府の主張にも反論する。日本政府は既に謝罪した。朝鮮政府は拉致問題の解決こそ行うべきである。(日本政府は英語で発言した)。                                                                                                        これに対して、中国、朝鮮が即座に反論した。                                                                                                          中国――日本に反論する。第二次大戦中、日本軍は数十万の女性を性奴隷にする犯罪を行い、被害者を悲惨な目に遭わせた。いわゆる「慰安婦」であり、これは歴史の暗い頁であるblack pages of history。しかし、日本は被害者に何の補償reparationもしていない。しかも政治家がたびたび歴史を否定する発言を繰り返している。南京大虐殺の否定発言も出ている。安倍首相は、戦争犯罪人をまつった靖国神社に参拝し、歴史の書き換えをしようとしている。(中国政府は中国語で発言した。私は英語の通訳で聞いていた)。                                                                                                                                               朝鮮――日本政府の主張を全面的に拒否するcategorically reject。1996年の国連人権委員会でクマラスワミ報告書が出され、第二次大戦中の日本軍性奴隷制が明らかになった。日本はジェノサイド、強制連行、「慰安婦」を犯したのに、安倍首相は靖国神社に参拝し、人道に対する罪を消そうとしている。拉致問題については、2002年の朝鮮と日本の間で締結したピョンヤン宣言を守っている。(朝鮮政府は英語で発言)                                                                                                                                                         これに対して日本政府が二度目の反論権を行使した。中国と朝鮮も。反論権は2度までしか認められない。                                                                                                                               日本――日本は、その歴史を認めrecognition、過去を悔恨した。その立場は変わっていないremains unchange。安倍首相が靖国神社を参拝したのは二度と戦争をしないと誓うためである。                                                                                                                                                    中国――日本の抗弁defenseに反する証拠がある。多くの政治家が歴史の事実を否定する発言をしている。 朝鮮――日本の主張は認められない。過去の人道に対する罪を正当化しようとしている。過去の犯罪を正当化することは将来の犯罪を許すことだ。日本は「慰安婦」につき法的責任も道義的責任legal and moral responsibilityもとっていない。                                                                                          以上である。                                                                                                              少々補足。最初の中国と朝鮮の発言を聞いていない。日本政府の反論から言って、どちらも「慰安婦」問題を取り上げたようだ。日本が反論したので、中国・朝鮮の反論で靖国神社も取り上げられた。                                                                                                                               韓国政府は発言しなかった。韓国政府は前日の5日、ハイレベル・セグメントの際に「慰安婦」問題を取り上げたそうだが、残念ながら聞いていないので内容はわからない。従来、国連人権機関では、韓国はあまり発言しなかった。1990年代は全く発言しなかった。当時は朝鮮とNGOが発言していた。2000年以後になって中国が時々発言し、韓国はたまに発言する程度だった。今回、韓国はハイレベル・セグメントという基調演説で「慰安婦」問題を取り上げた。

Wednesday, March 05, 2014

死刑冤罪ブラッドワースさん、国連で証言

3月5日、国連人権理事会は死刑問題パネルを開いた。バン・キムン事務総長のビデオメッセージ、ナヴィ・ピレイ国連人権高等弁務官のあいさつに続いて、パネルディスカッション。司会はニコラ・ニムチノフ・フランス大使、パネリストは、ヴァレンティン・ジェノンタン・アゴソウ・ベニン司法大臣、カージャ・ルイシ・モロッコ各界議長、カーク・ブラッドワース「無実の証言者」、アスマ・ジャハンギル・国際死刑廃止委員会副議長。                                                                カーク・ブラッドワースは「アメリカの死刑制度は崩壊している」と始めた。メリーランドでの殺人事件で他に証拠がないがDNA鑑定により陪審が2度(なぜか2度で、合計24人全員が、と言っていた)全員一致で死刑。9年間獄中にいて、無実を訴えたのでひどい目に遭ったことも。最後にDNA鑑定で無実と分かり釈放された。死刑廃止と獄中暴力を訴える。最後に「毎日、みんな、不正義を見続けているのに、放置してはいけない。私に起きたことは、アメリカでは誰にでも起きる」と言って、しめくくった。私は「日本でも」と呟きながら、盛大な拍手に加わった。30年前、免田栄さんのお話を伺った時と同じ鳥肌。                                                                                                  パネラーのアスマ・ジャハンギルは以前、国連人権理事会の恣意的処刑特別報告者だった。亡くなった松井やよりさんが尊敬する女性活動家だ。いまは死刑反対運動のNGOで活躍。報告でアジア各国の死刑状況を説明し、日本については袴田事件に触れた。

Tuesday, March 04, 2014

シオン美術館散歩

ヴァレー州都のシオン美術館は2度目だった。すっかりわすれていたが、入り口に立つと思いだした。1度目は1997年頃だった。駅からメインストリートを歩いて魔女の塔に出て、次にカテドラルと市役所を見てから、細い路地を通り抜けると美術館だ。その先の坂道を登って丘の上に出る。右の丘の上にヴェレール教会があり、左の丘の上に城址がある。双こぶラクダの丘で知られる町だ。同じ道を歩いて美術館を訪れた。                                                                               美術館は2つの館から成る。1つ目の館にはヴァレー州ゆかりの画家や作品が展示されている。フュスリ、カスパー・ヴォルフ、ディデー、ラファエル・リッツ、エルンスト・ビエラー、エデュアルド・ヴァレーなどの、ヴァレーの景色、特に渓谷や、エレマンスの人々の姿を描いた作品が並ぶ。地元の現代的な画家の作品も展示されているが、これは前回とはかなり入れ替わっていた。ギュスタフ・セルッティという画家の「セロニアス・モンクのために」「ジョン・コルトレーンのために」「オーネット・コールマンのために」が3点掲げられていた。他にもビリー・ホリデー、チャールズ・ミンガスなどがあると言う。何だろう、という感じ。                                                                                                                良かったのは地元出身の女性画家マルゲリーテ・ブルナプロヴァンス(1872~1952年)に出会えたことだ。展示は1点、帽子をかぶった若い女性だが、カタログにはもう1点、自画像が掲載されている。英語カタログがなかったのでやむを得ずドイツ語版を買った。                                                                                                                          2つ目の館では、JocJonJoschのHand in Foot展だった。Jocelyn Marchington(イギリス)、Jonathan Brantschen(スイス)、Joschi Herczeg(スロヴァキア・スイス)の3人の共同制作。シオン・マノル賞を受賞した記念の展示だ。シオン・マノル賞はスイスでは知られた現代アートの賞だと言う。作品は写真と映像を使ったもので、どちらも言ってみれば一発芸モノだ。一番わかりやすいのは、ロンドンの墓地に行って、ギリシャ彫刻が飾られているところで、彫刻(全裸の青年像)と同じポーズをとるシーンの映像。もう一つ、この3人が全裸で抱き合っている映像で、顔は見えず姿のみだが、地面に足がついているのは一人だけで、バランスをうまくとって静止して立っている。3つのポーズで抱き合っている映像が壁3面に映写されている。なかなか笑えたが、後から入ってきた婦人は少し見ただけでかすれた悲鳴のような声をあげて出て行った。いったい何だろうと思ったが、すぐにわかった。全裸の若者3人がしっかり抱き合っているシーンだけに“正しい誤解”をしたのだろう。どれもおもしろかったが、やはり一発芸だ。まあ、現代アートは一発芸のアイデアと実行力で、笑わせれば勝ち、あるいは怒らせれば勝ち、だ。

Monday, March 03, 2014

先住民族の権利から見た尖閣諸島

上村英明「尖閣諸島問題と先住民族の権利――先住民族の視点から領土問題を考える」『恵泉女学園大学紀要』26号(2014年)                                                                                            先住民族の権利研究の第一人者による最新できたての論文である。などと書くと、ご本人からは「研究だけやってるわけじゃない」と叱られるかもしれないが。                                                                                2007年の国連先住民族権利宣言から7年になる。日本政府がアイヌ民族を先住民族と認めたのは2008年のことだ。しかし、実際にはアイヌ民族の権利を認めていない。2010年の人種差別撤廃委員会では、上田秀明人権人道大使が「先住民族の定義はない」と言い放った。政府が先住民族権利宣言を認めて、アイヌ民族を先住民族と認めたにもかかわらず、外務省は国際舞台で、こういう勝手なことを言っていた。NGOは批判したが、マスコミは報じなかった。それから3年、昨年の拷問禁止委員会で「黙れ!」と暴言を吐いたのが同じ上田人権人道大使。ようやくクビになった。話を戻すと、先住民族の権利を認めたはずの日本政府だが、アイヌ民族の権利を認めない。また、琉球民族については、先住民族と認めていない。こういう状況なので、先住民族の権利とは何かをもっと周知しなくてはならない。先住民族の土地の権利や、文化の権利、同化を強制されない権利を広める必要がある。土地の権利との関係では、北海道や北方領土、沖縄や尖閣諸島、が検討対象だ。                                                                                                        著者は、かつて『先住民族の「近代史」――植民地主義を超えるために』(平凡社)を書いた。その先に国連宣言があり、そして本論文である。尖閣諸島を著者はどのように論じるのか。それはここには紹介しない。「さいごに」だけ引用しておこう。                                                                                                        「アジアには,欧米の帝国主義の影響で多くの植民地が形成されたが,日本のように,これを模倣しながら,国民国家形成を隠れ蓑に植民地を拡大した国家も少なくない。そして,その犠牲者として先住民族が存在し,その多くは今回紹介した領土問題とも大きく関わっている。こうした領土問題を含む,アジアの国家間の利害の調整には,正しい歴史認識がやはり不可欠であるが,その主体のひとつとして先住民族を含めることが重要だろう。領土問題に,その存在を忘れれば,私たちはかつての帝国主義諸国と同じ過ちを犯すことになるだろう。アジアでこそ,多様で多元的な市民社会が実現することを期待したい。」                                                                                            なお、下記のサイトには紀要がアップされているが、25号までで、26号の本論文はまだ出ていない。そのうち出るだろう。                                                                                                                  恵泉女学園大学紀要                                                                                                          http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AA12120901_ja.html

領土論争は内にこもるしかないのか

斎藤道彦『日本人のための尖閣諸島史』(双葉新書)                                                                                 「『日本が盗んだ』なんてもう言わせない! 尖閣=日本領であることのゆるぎない証拠! 尖閣問題の決定版」ということで、成田空港の書店でまとめ買いした1冊だ。                                                                                  歴史研究者で、近現代中国の文化・思想を専攻する著者は、尖閣論争について、論点を整理したうえで、中国側の見解を総点検する。まず、日本の領有以前について、歴史的文献から中国領説が成り立たないことを論じる。次に、日本領有化以降について、日本領有の経緯を確認して、これに対する中国側の論理が成り立たないことを説明する。歴史文献で物事が決まるのではなく、近代国際法の立場で判断する必要があり、その意味で1895年前後の動きを一つ一つ確認して、日本領有以前に中国領といえるような条件がなかったこと、日本領有は一応の手続きを踏んだこと、その後の中国側の主張は一貫した領土主張ではなかったことなどを提示して、日本領との結論を唱えている。1895年当時の国際法から言って、日本以外に尖閣を領有する姿勢を示した国家はないから、日本領というのは正当な見解だろう。中国領説としては井上清(京都大学名誉教授)の著作がり、今でも影響力を持っているが、すでに過去の見解であって、いまでは到底採用できないのも、著者が言うとおりだ。もっとも、著者は、井上清について「大ボラを吹いている」「「病膏肓の間違い」「駄々っ子のように脇目もふらずに」・・・とえんえんと攻撃しているのは、いただけない。                                                                                      私は、尖閣諸島は日本領と考えるのが合理的と考えるので、著者の見解に賛成ではあるが、元をたどれば、尖閣は琉球人民のものであり、琉球植民地化の帰結である。琉球が日本に入っているため尖閣は日本領だが、その前提に疑問がある。つまり、琉球独立論の立場から言えば、そして琉球人民の先住民族の権利から言えば、また別の話になる。                                                                                                                問題は、領土論争という、相手のある話を、相手を無視して内輪にしか通用しない論理で強引に事を運ぶ姿勢である。1895年領有が、諸外国に秘密の内に、日本がこっそり閣議決定しただけという事実が判明しても、「領有の通告は必ずしも必要とはされていなかった」から、それでよいのだと言うのは、西欧近代の帝国主義の論理でしかない。「僕たち、誰にも知らせず、こっそり僕たちのものだって決めたんだから、決めたんだ」という泥棒の理屈を21世紀の今、振り回すのはどうかしている。だから「盗んだ」と言われてしまうのだ。領土論争には相手がいる。当時で言えば、清朝も相手だが、琉球人民も相手だ。本書の著者は、他の著者よりは、中国を見ている。中国研究者だ。でも、使う論理は非常に内輪の論理だし、タイトルも「日本人のための尖閣諸島史」だ。仕方ないのか。なお、本書とは別に、研究書も準備していると言うので、そちらにはもっと整理された議論が展開されているのかもしれない。

国連人権理事会25会期始まる

3月3日、ジュネーヴの国連欧州本部で人権理事会25会期が始まった。初日は開会のセレモニーとハイレベル・セグメントHLSだ。バン・キムン事務総長、ナヴィ・ピレイ人権高等弁務官などが勢ぞろいして開会。                                                                                           HLSでは、チュニジア大統領、コロンビア副大統領、コロアチア副首相、ロシア外務大臣、アルゼンチン外務大臣、リヒテンシュタイン外務大臣、ブルキナファソ外務大臣、パラグアイ外務大臣、イラク人権大臣、ナミビア外務大臣、ギリシア外務大臣、エリトリア外務大臣、スロヴァキア外務大臣、イェメン人権大臣、トルコ外務大臣、グアテマラ外務大臣菜緒の演説が続いた。                                                                                       開会の少し後に会場は凄い混雑状態になった。700は入る会場に200以上の立ち見状態。かつて、コフィ・アナンの退任演説の時はもっとすごかったが、近年では、クリントン米国務長官演説以来の混みようだった。テレビカメラが多数入って、取材班が早足で歩きまわり、携帯電話かけまくって、騒然としている。何かと思ったら、ロシア外務大臣演説目当てだ。プーチンがウクライナへの介入の姿勢を見せているため、何か言うだろうとメディアが押しかけてきた。同時通訳のイヤホンを確保できなかったので、ロシア語の演説さっぱりわからないが、大臣演説が終わると、取材班がやや肩を落として出て行った。期待したような演説ではなかったのだろう。その後は少し静かになった。                                                                                                         国連欧州本部正門前ではスリランカのタミル人が20人ほど、ジェノサイドを非難する宣伝行動をしていた。被害を訴える大きな写真パネルを40枚くらい並べていた。内戦時代の写真もあるが、最近もタミル人に対する襲撃が絶えないと訴えていた。

Sunday, March 02, 2014

大江健三郎を読み直す(8)監禁状態からの脱出をめざして

大江健三郎『芽むしり仔撃ち』(新潮文庫)                                                                                            1958年6月に講談社から刊行された長編小説で、1965年5月に新潮文庫に収められている。中学の時に文庫本を買ったが、読んだのは高校2年の終わりくらいだろうか。沖縄返還時に大江の『沖縄ノート』を読んだ後のことだ。                                                                                          第二次大戦末期に、感化院の少年たちを集団疎開させる必要があり、教官が3週間かけて少年たちを森の奥深い村に連れて行く。ところが、疫病が流行したため、村人たちは少年たちを置き去りにして村から離れる。残された少年たちは“自由の王国”を手にして奔放に生きるが、疫病の収束を見に帰村した村人たちによって徹底的に破壊される。その間の出来事を描いた作品である。                                                                                                           大江作品という点では、第1に、感化院の少年たちという社会的に疎外された集団が描かれる。主人公で語り手の僕はその中の年長格である。初期の大江作品は、20歳そこそこでデヴューしたためもあり、少年を主人公として設定することが多かった。                                                                                                     第2に、監禁状態という設定である。第二次大戦末期という時代状況もそうだが、森の奥深くにあり、トロッコで谷を越えてやっとたどり着ける村に少年たちが隔離される。監禁状態は、大江の初期の最重要テーマである。                                                                               文庫版解説を書いた平野謙(文芸評論家)は、「『壁のなかの人間』という表象は、処女作『奇妙な仕事』以来一貫したこの作者の人間認識だ」としつつ、それが「ようやく能動的に転化しようとする兆しをみせている」、「最後には彼らも敗れ去ったとはいえ、いったんはみずからの力で自由を獲ちとり、『壁のなかの人間』から脱出する可能性を自覚するものとして措定されている」とし、「ひとつの転機を示す記念すべき作品」と評している。                                                                                                        第3に、森の奥の村である。現在に至るまで、大江がこだわり、ひたすら描き出してきた森の奥が、この段階で舞台とされている。                                                                                                                                    第4に、僕と弟の2人組である。これも大江作品に頻繁に登場する設定である。実際の弟として描かれる場合もあれば、後にその妹と結婚したのだが伊丹十三が主人公とされる場合もあれば、想像上の人物として登場することもあるが、大江の兄又は弟の存在が物語の基調を成す。この点はずっと後に「おかしな2人組(スウード・カップル)」という3部作の長編にたどり着くことになる。                                                                                                                   このように見ると、本書で大江作品の基本枠組みとテーマがかなり出揃っていることに気付く。1963年に障害を持った息子が生まれたことによって、大江の作品は大きな展開を遂げるが、森の奥やおかしな2人組は変わらない基調であり続ける。                                                                                                                                         いま読み返して、真っ先に驚いたのは、森の奥の村に取り残されたのが感化院の少年たちだけではなく、父親が死んだため自ら残った朝鮮人少年がいたことである。匿われていた脱走兵のことは良く覚えていたが、朝鮮人少年のことはほとんど記憶していなかった。1972年頃の私は在日朝鮮人の存在とその歴史についてまったく無知であった。この年に李恢成が『砧をうつ女』で芥川賞を受賞した。李恢成が高校の先輩であることを国語教師から教えられたが、すぐには読まなかった。李恢成を熱心に読むようになったのは大学時代だ。李恢成は大江と同じ年齢である。1973年に発生した金大中拉致事件の衝撃で、少しは勉強したのだろう。翌春、大学生になって上京してみると、日比谷公園で金大中救出の集会が開かれていた。その頃から勉強してようやく知ったので、本作を読んだときには無知だったため、朝鮮人少年の登場の意味がわからなかった。                                                                                                                                          もっとも、本作における朝鮮人の登場の仕方はよくわからない。四国と思われる山の中、森の奥深く、谷をトロッコで渡るその先の村に朝鮮人が住んでいて、差別的に扱われていたことは読み取れるが、なぜ、この村に朝鮮人部落があったのかは示されていない。1958年の大江青年の時代認識と歴史認識がどのようなものであったかは、必ずしも明らかではない。また、大江文学において在日朝鮮人、その形成の歴史、朝鮮人差別が主題としてせり出してくることはあまりなかったように思う。大江が障害者差別、女性差別などに意識的に向き合ってきたこと、部落差別にも必ずしも直接的ではないにしてもそれなりの視線を向けてきたこと、そして被爆者に対する差別に取り組み、政治的発言も繰り返してきたことはすぐに確認できる。エッセイや講演その他を読めば、日本のみならず、世界の人種・民族対立や差別問題に十分意識的な大江であることはわかる。大江文学のテーマの一つは普遍性であり、当然、差別を許さないまなざしが軸に据えられている。ただ、民族差別が大江文学の中心的な主題として設定されることはあまりなかったと言ってよいのではないだろうか。この点は、今後も要確認。

Saturday, March 01, 2014

隠された核の戦後史

中日新聞社会部『日米同盟と原発――隠された核の戦後史』(東京新聞、2013年)                                                                             2012年8月からほぼ1年、見開き2頁10回連載の「日米同盟と原発」に加筆修正を加えた1冊だと言う。原発と原爆の関係史はこの間かなり論じられるようになってきた。本書も、基本的には同じ内容だが、文献だけに依拠したのではなく、100人もの人々にインタヴューをした成果で、具体的である。第2次大戦中の日本の核開発から始まり、広島の惨劇の封印・秘密化、3月1日のビキニ水爆実験と第5福竜丸などを経て、なぜヒロシマ・ナガサキ・ビキニを体験した日本に54基もの原発がつくられたのかの歴史のおさらい。RCサクセションの反原発ソング「ラヴ・ミー・テンダー」などを含むアルバム発売中止事件も取り上げている。忌野清志郎がテーブルの灰皿を壁に向かって投げつけたという。あとがきによると、第5福竜丸事件の大石又七さん、闘病中とのことだ。無防備地域宣言運動にご協力いただき、お世話になった。病に打ち勝ち、再び熱い証言の旅に出ていただきたい。                                                                                         「浜岡停止10日間の攻防」――原発を止めた話も重要。本書によると、経済産業官僚は「浜岡を止めれば、国民の不信感が和らぎ、他の原発再稼働に道が開ける」と考え、そのシナリオを組んだ。「海江田は黙って、うなづいた」。こうして官僚と海江田経産省による原発再稼働路線が決まった。浜岡3号機のみではなく、浜岡全面停止を提案したのは海江田だったが。最後に、浜岡停止から全原発停止の方向に流れを変えたのは菅直人だった。菅記者会見の経過も書かれている。このことは重要だ。その後、菅降ろし、そして野田による逆転再稼働、である。海江田と野田は原子力ムラの子分に過ぎなかった。

ヌシャテル美術博物館散歩

ヌシャテルは3度目だ。15年程前にはからくり自動人形を見に、美術博物館にも行った。3年程前には城とヌシャテル湖めあてだった。今回ふたたび美術博物館を訪れた。展示は、以前とは若干変わっているものの基本は同じだった。ヌシャテルの歴史(主にスイス連邦加盟の経過や、産業)、からくり自動人形、地元の工芸や生活、そして美術だ。サント・クロワやラ・ショー・ド・フォンなど、この地域はスイス時計産業の中心地で、同時に自動人形やオルゴールの産地でもある。ヌシャテル美術博物館には、オルゴールを弾く女性の人形と、ペンで時を書く少年の人形があり、有名だ。                                                                    美術の部屋は、印象派を中心とした近代西洋美術で、ボナール、セザンヌ、コロー、クールベ、ドガ、ゴーギャン、キスリング、マチス、モネ、ピサロ、ルノアール、ルオー、スーラ、シニャック、シスレー、ロートレックなど。小品がそれぞれ1~3点。モネの水上の船のアトリエの絵は貴重。マイヨールとロダンも1点。マイヨールはレーマーホルツにある裸婦像のミニチュアだ。ロダンはバルザック頭像。                                                                      地元の歴史展示の所に、地元画家の紹介もあった。テオフィル・ロベール、グスタフ・ジャンネレなどが有名とのことだが、1点だけ、ジャンヌ・ロンバールという女性画家。初めて聞く名前で、全く知らなかった。英語の解説はほんのわずかのみで、「スイス芸術家協会は男性だけで、女性は排除されていたので、1902年、スイス女性芸術家協会が作られ、1908年、ジャンヌ・ロンバールは協会ヌシャテル支部のメンバーになった」とあるだけ。売店には、ヌシャテル美術博物館発行のしっかりしたカタログがあったが、これには前記のボナール、セザンヌなどだけが収録されている。表紙はモネの船のアトリエ。女性は登場しない。近代絵画は男の視線で出来上がっているから、女性が登場するのは、主に裸婦像として、だ。しかし、受付で聞いてみたら、ちゃんと、あった。地元の出版社が発行した画集『ジャンヌ・ロンバールとヌシャテルの女性アーティスト(1908-2008)』(ロテリエ・ロマンド、2008年)。フランス語だし、値段は高いし、どうしようかと思ったが、買ってきた。ジャンヌの自画像、静物画、人物画など40点ほど、それ以外の地元女性アーティスト20人ほどの代表作。ジャンヌ・ロンバール(1865-1945年)、どこかで紹介しよう。と、その前に画集フランス語解説を誰かに読んでもらわなくては。                                                         ティチーノのSan Carlo, Delea,2009. 以前ルガーノで見つけたやつ。