Sunday, February 23, 2014

大江健三郎を読み直す(7)周縁の人間として表現し続ける

大江健三郎『死者の奢り・飼育』(新潮文庫)                                                                                         初めて読んだ大江作品は何だろうと考えてみると、わからなくなった。『死者の奢り・飼育』『芽むしり仔撃ち』『われらの時代』は中学3年の時に文庫本を買ったので、それが最初かと思いこんでいたが、今回読み返してみて、果たして当時、最後まで読み通したのかどうかはっきりしない。たぶん読まなかったのだと思う。                                                                                                       高校2年の時、沖縄返還がニュースになっていた際に、大江健三郎『沖縄ノート』(岩波新書)があると知り、高校の図書館で探した。図書館に暮らしているような国語の教師が「大江ならここだよ」と言って書棚を指さしながら、「あれ、ないな。貸出し中だ」と言って、代わりに『厳粛な綱渡り』(文藝春秋)を渡してくれたのを覚えている。『沖縄ノート』『ヒロシマ・ノート』はその後に、当時、札幌市内の4丁目にあった冨貴堂という書店で購入した。と思いだして整理してみると、最初に手にした文庫本は途中まで読みかけのまま放置し、エッセイの『厳粛な綱渡り』を読んでから、『死者の奢り・飼育』に改めて挑戦したのだろう。                                                                                                                               『死者の奢り・飼育』(新潮文庫、1959年)には、2つの表題作のほか、「他人の足」「人間の羊」「不意の唖」「戦いの今日」が収められている。『東京大学新聞』1957年7月号の「奇妙な仕事」に続いて、『文学界』1957年8月号に掲載された「死者の奢り」が文壇デヴュー作とされ、続く「飼育」『文学世界』1958年1月号で芥川賞を受賞した若き作家・大江の初期作品群だ。「人間の羊」と「戦いの今日」は、読んだはずだが、その内容は記憶にない。                                                                                                                                40年ぶりに新潮文庫を手にして、改めて思うこと、考えるべきことはいくつもある。1つは、みずみずしい文体と呼ばれた大江の文体が、なぜ、どのような意味でみずみずしかったのか。それは今では感得しにくいことのように思える。2つは、実存主義との関係だ。初期の大江がサルトルの実存主義に感化され、『嘔吐』の影響を受けた作品を送り出し、猶予や参加などの言葉を多用したこと。サルトルを知らない中学・高校生には、読んでもその意味がわからなかったこと。3つは、初期作品群に共通する主題が「監禁状態」「閉ざされた状況に生きること」だったことである。第二次大戦後10年程を経て、輝ける戦後民主主義が一段落した時期に、青年・大江は自分の人生も、同時代の若者も、そして日本も「監禁状態」にあると感じていた。そのことを今、どう見るのか。60年安保を迎えようという時期の、多くの若者の意識はそうではなかったと記録されているはずなのに、大江の時代意識は早過ぎたのか、遅すぎたのか。その点に関連して、4つは、文庫本の解説を書いているのが江藤淳である。最近では版が変わると解説が変わったりすることも少なくない文庫本だが、新潮文庫には江藤淳が1959年8月に書いた解説がそのまま掲載されている。江藤は、大江が「思想を表現しうる文体を持った新人と目されていた」として、「実存主義的認識をてぎわよく小説家した」ものと冷静に突き放しながら、大江の「抒情」に「かつてないすぐれた資質の出現」を見たという。「論理的な骨格と動的なうねりをもつ」「新しい文体」だという。そして、江藤は「時代的にいえば一種の閉塞状態であり、存在論的にいえば『社会的正義』の仮構をみぬいたものの一種の断絶感である」とし、大江が「のちに若い世代の代弁者の役割をひきうけざるをえなくなったのもあながち無理ではなかった」と述べている。これはまさに『ヒロシマ・ノート』『沖縄ノート』『厳粛な綱渡り』『持続する志』で、60年安保とその後の言論の戦いに参入していった大江のことである。それゆえ、江藤は「しかし、同時に、彼はこのときからいつおわるともない作家生活に進んで身を投じたのである。文春クラブでかいまみた少年作家は、『もう子供ではなかった』のである」と解説を閉じていた。                                                                                                                                  1955年に「夏目漱石論」でデヴューした江藤淳(1932年生れ)は、1958年、石原慎太郎(1932年生れ)、大江健三郎(1935年生れ)、谷川俊太郎(1931年生れ)、寺山修司(1935年生れ)、浅利慶太(1933年生れ)、永六輔(1933年生れ)、武満徹(1930年生れ)らとともに、「若い日本の会」を結成して、60年安保闘争に突入していった。今では、エピソード以上のものではないが、ともあれ、そういう時代だった。                                                                                                                                                    2007年のインタヴュー(『大江健三郎 作家自身を語る』)で、大江は「同じ年代で、少し早めに仕事を始めていた若い者たちが、あいつの顔知ってる、名前も知ってるという感じで集まったわけですから。一緒の仲間ではあったけれども、私や武満徹さんのように自分の仕事はまっすぐやっていく、現実政治に対しては批判的な立場に居続ける、現実を動かしていく中心の力になるよりは周縁、はみ出したところにいる人間として表現し続けていくという仲間と、そうでない人たちとに、はっきり分かれて行ったと思います。」 「『安保批判の会』から三十年たっていた一九九〇年頃には、保守政党の指導者たちにとって都合のいい、しかも頼りになる理論家として、たとえば江藤淳という評論家がしっかりした足場を得ていた。」                                                                                                                                          「もともとかれは中心にあるべき資質の人で、反・安保の言動をした一時期が、まったく例外的なものでしたから。私の小説を江藤淳が強く支持してくれたのは、私の出発時から六ヶ月のことでしたが、その間私はかれの書くものはすべてよくわかると考え、しかしすぐにもこういう良い関係は終わる、とも予感していました。/・・・私と江藤淳が理解関係を持っていたのは、本当に最初の六ヶ月だけでした。」                                                                                                                                                 あの時、「もう子供ではなかったのである」と書いた江藤淳は、1962年にロックフェラー財団のお金でアメリカ留学しエスタブリッシュめざしてひたすら上昇していった。大人か子供かではなく、中心か周縁かで考える大江とはすれ違うばかりだったろう。権力か非権力かと言っても同じことである。大江は、この時代を振り返るときに、同年代の文学者としては、一方で井上ひさし(1935年生れ)を常に称揚し、周縁、非権力の志を喚起する。ここに現代文学における「非国民」が佇んでいる。大江は、他方で江藤淳についてわずかだけ語る。露骨な権力主義者・石原慎太郎については、文学という面では、当然のことながら語らない。確認するべき差異は、一人でまっすぐ立っているか否かだろう。他者と共感し、連帯しながらも、文学者として一人まっすぐ立つこと。権力や政府や世論や権威におもねって凭れかかり、その反動で他者を貶めることなく、生きること。『死者の奢り・飼育』は、戦後10年を経た時期に「閉塞状態」を打ち破ろうとした若者たちの一つの意識の反映だったが、若者たちと言っても、その先に見定めようとしていたのは驚くほど違う未来だったのである。