Wednesday, February 12, 2014

レイシストになる自由?(1)

アメリカにおけるヘイト・スピーチ議論を丹念に検討したエリック・ブライシュ『ヘイトスピーチ』(明石書店、2014年)が出た。2月1日に訳者の一人からいただいたので、このところ1日1章、読んできた。全7章、プラス訳者解説。                                                                                      Erik Bleich, The Freedom to Be Racist?, Oxford University Press.2011.                                                                                                  著者はミドルベリー大学政治学部教授で、専門はヨーロッパにおける人種とエスニシティの問題で、主な著作に『イギリスとフランスにおける人種政治』、『ポスト9.11におけるムスリムと国家』があるという。ヨーロッパの研究をしているだけあって、本書は、アメリカとヨーロッパの動向を詳しく整理・対比して、議論を進めている。アメリカの研究者には、アメリカ内部のことだけで世界を語ったつもりになっている研究者が少なくない。「アメリカ教」の憲法学者はそれを真に受けてしまう。それに比して、本書はアメリカとヨーロッパの比較に視野を広げている。どちらがいいかなどという単純な比較ではなく、両者の差異がなぜ差異に見えるのか、なぜその差異が形成されてきたのかを検討している。                                                                                                               訳者は6名。明戸隆浩(社会学、多文化社会論)、池田和弘(環境社会学・市民社会論)、河村賢(科学社会学)、小宮友根(エスノメソドロジー)、鶴見太郎(歴史社会学、パレスチナ問題)、山本武秀(政治学)。ヘイト・スピーチが大きな話題になったため短期間で翻訳したはずだが、なかなかいい翻訳だ。アメリカだけでなく、イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、ベルギーなどヨーロッパの状況が取り上げられているので、一人で翻訳するのは危ない冒険だ。6名の優れた研究者の協力による本書は、まさに待望の出版である。                                                                                                                        日本では去年ヘイト・スピーチが流行語となったが、定義もせずに、非常にいいかげんな形で使っている。メディアではジャーナリストや評論家の頓珍漢な意見が堂々と語られる。憲法学者まで初歩的知識もなしにデタラメを語っている。ジャーナリストや弁護士のような素人ならまだしも、憲法学者が無知と誤解を拡散している。こういう状況下で、師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書)や本書が、ヘイト・スピーチの基礎知識を提供し、スタートラインを明確にひいているのが現状だ。                                                                                                               これまで何度も何度も強調してきたように、「表現の自由だかからヘイト・スピーチを処罰できない」「民主主義国家ではヘイト・スピーチ処罰はできない」というトンデモ発言がまかり通っている。事実は逆である。国際的なレベルでは「表現の自由とヘイト・スピーチ処罰は矛盾しない」と考えられているし、EU加盟国は全てヘイト・スピーチ処罰規定を持っていて、民主主義国家ではヘイト・スピーチを処罰するのが常識である。「ヘイト・スピーチの処罰か表現の自由か」という問題設定がそもそも不適切である。                                                                                                                          ブライシュは、アメリカの状況を前にヘイト・スピーチの議論に挑んでいるので、「ヘイト・スピーチの処罰か表現の自由か」をいちおうの前提としつつ、そこで本当に問われているのは何かを突き付ける形で議論をしている。「自由と規制のあるべきバランス」という議論だ。二者択一ではない。                                                                                                                                 また、ブライシュは、人種差別禁止法、ヘイト・クライム法、ヘイト・スピーチ法にきちんと目を向けている。人種差別禁止法もヘイト・クライム法も無視して、ヘイト・スピーチ法だけを取り出して恣意的な議論を展開することはしない。これは当たり前のことをしているだけなのだが、日本の議論との落差が極めて鮮明になる。                                                                                                                                        そして本書の特徴はアメリカとヨーロッパの比較法・比較政治である。それ自体はめずらしいわけではない。ヘイト・スピーチを処罰しないアメリカと、処罰するヨーロッパという話は、欧米の研究でも日本の研究でも長年指摘され、いくつかの解釈が提示されてきた。ブライシュも同じテーマを掲げる。ブライシュの議論の特質は、アメリカ型とヨーロッパ型という固定的な判断を避けて、それぞれがどのようにして現状に到達し、これからどのように変化を遂げていくのかという関心で見ていることだ。                                                                                                                                                というのも、アメリカは、人種差別禁止法やヘイト・クライム法では先行しているし、一時期、ヘイト・スピーチ規制にも乗りだしたのに、1960年代以降、表現の自由の判例が確立して、ヘイト・スピーチ処罰は困難になってきた。他方、ヨーロッパは、人種差別禁止法では必ずしも先進的と言えるわけではないし、ヘイト・クライム法はむしろ遅れているほどなのに、1960年代以後、短期間のうちにヘイト・スピーチ規制の法体系を確立させてきた。両者のすれ違いの謎を解明することがブライシュ本の魅力となる。                                                                                                                          ブライシュ本、一度読んだだけでは不十分なので、徐々に再読していくことにした。