Tuesday, January 21, 2014

大江健三郎を読み直す(3)

大江健三郎『定義集』(朝日新聞出版、2012年)                                                           2006年4月から2012年3月まで、朝日新聞文化面に月に一回連載されたエッセイ72本をまとめて1冊にしたものだ。最後の72本目のエッセイ「自力で定義することを企てる」を、「私は若い頃の小説に、障害を持ちながら成長してゆく長男のために、世界のありとあらゆるものを定義してやる、と『夢のまた夢』を書いています。それは果たせなかったけれど、いまでも何かにつけて、かれが理解し、かつ笑ってくれそうな物ごとの定義をいろいろ考えている自分に気がつきます。/しかし私が『定義集』の全体で自分の大切な言葉として書き付けたのは、中学生の習慣が残っている、まず本でなり直接なりに、敬愛する人たちの言葉として記憶したものの引用が主体でした。いま晩年の自分が出会っている(そして時代のものでもある)大きい危機について、修練してきた小説の言葉で自前の定義を、とおそらく最後の試みを始め、『定義集』を閉じます。」と結んでいる。                                                                   大江は本書で実に多くの印象的な言葉、教訓となる言葉、反芻すべき言葉、こだわり続けるべき言葉を紹介し、時に瞑目し、時に註釈し、時に反駁している。中野重治、南原繁、渡辺一夫、魯迅、中原中也、西脇順三郎、木下順二、山口昌男、加藤周一、小田実、井上ひさし、丸谷才一、大石又七、高木仁三郎、鎌田慧、肥田舜太郎、オーデン、ウイリアム・ブレイク、レヴィ=ストロース、マラマッド、エドワード・サイード、テツオ・ナジタ、ギュンター・グラス、オルハン・パムク、フリーマン・ダイソン、パヴェーゼ、バルガス・リョサ、ウィリアム・スタイロン、ミラン・クンデラなどの言葉が、21世紀の現在の文脈の中で、大江の問題意識に即して引用され、定義されていく。どの頁も3度、4度、繰り返しながら読み進めたので、かなりの時間を要したが、それだけゆっくり読むに値するエッセイ集だ。                                                                                      この時期は、大江にとっては、(息子・光のこと以外の、社会問題としては)9条の会の広がり、『沖縄ノート』訴訟の勝訴、そして(最後の1年は)3.11以後の脱原発の取り組みの時期である。9条の会関係では、各地に運動が広がったが、加藤周一、小田実、井上ひさしが他界した時期である。また、自民党政権から民主党政権を経て、復活した自民党政権に至るまで、9条軽視と軍事化が急速に進められた危機の時代でもある。1970年出版の『沖縄ノート』(岩波新書)に対する異様な難癖訴訟(2005年提訴)に応じなければならなかったのは大変な負担と時間のロスだが、大江、岩波書店、弁護団、支援者の結束によって無事に勝訴判決を確定させたのが、2012年のことだ。そして、3.11は大江の精神を直撃した。「最後の小説」のはずの『水死』の後に、『晩年様式集』を書き、本書最後の一年のエッセイを書き続けたのは、脱原発運動の盛り上がりに同伴した時期である。大江は集会で登壇し挨拶をし、デモの先頭に立つなど、70年代後半のノーベル賞作家にもかかわらず、あるいは自分と世界をつないで想像力の翼を宇宙的に拡げてきた作家らしく、脱原発運動を後押しもした。                                                                                                そうした出来事と並行して書かれたエッセイだけに、「定義集」は大江文学による同時代認識の定義集となっている。