Sunday, December 08, 2013

「悪の陳腐さ」を再考するとは

映画『ハンナ・アーレント』(2012年、監督マルガレーテ・フォン・トロッタ)を観た。一方の主人公は哲学者ハンナ・アーレント。20世紀最大の哲学者ハイデガーとフッサールに学び、ナチスドイツから逃れてニューヨークに渡ったプリンストン大学教授で、すでに『全体主義の起源』と著者だった。そして、夫のハインリヒ・ブリュッヒャー、盟友メアリー・マッカーシー、ハンス・ヨナス、クルト・ブルーメンフェルトら。もう一人の「主人公」はアドルフ・アイヒマン。ナチスのユダヤ人移送係で、終戦後アルゼンチンに逃亡していたが、イスラエルのモサドに「逮捕」され、イェルサレムで裁判にかけられる。裁判を傍聴したアーレントが何を感じ、受け止め、思索し、そして何を書いたか。後に『イェルサレムのアイヒマン』として出版される裁判傍聴記がどのような反響を呼んだかが中軸となる。アイヒマンが人間離れした悪魔や巨怪ではなく、どこにでもいる「官僚」であって、命令を忠実に実行した役人に過ぎず、その「悪の陳腐さ」こそが問題だとするアーレントの主張は当時はなかなか受け入れられなかった。ニューヨークのユダヤ人コミュニティでは、アーレントがアイヒマンを、従ってナチスドイツを擁護したと誤解され、糾弾されることになる。その過程を追いかけた映画である。映画『ローザ・ルクセンブルク』(1986年)でもフォン・トロッタ監督とチームを組んだ女優バルバラ・スコヴァがアーレントを演じ、アクセル・ミルベルク、ジャネット・マクティア、ユリア・イェンチ、ウルリッヒ・ノイテンなど、脇を固める俳優たちの演技も素晴らしい。冒頭のアイヒマン逮捕のシーンは、もう少し何とかならないものかと思わないではないが、ニューヨークとイェルサレムを舞台とした作品は良質である。ハイデガーとアーレントのエピソード(スキャンダル)も取り上げているのはストーリー上の必然性がないが、あまりに有名なエピソードなのでパスするわけにはいかなかったのかもしれない。一番ひっかかったのは、映画『スペシャリスト――自覚なき殺戮者』(監督エイアル・シヴァン)への言及がないことだ。同じアイヒマン裁判を主題とし、アーレントの「悪の陳腐さ」を導きの意図とし、しかもアイヒマン裁判の記録映像は同じものを使っている。アイヒマンを主役としつつ「市民的不服従」を問う作品は、日本上映時に、ブローマン『不服従を讃えて』(産業図書、2000年、翻訳:高橋哲哉他)も出版された。岩波ホールが用意したパンフレット(プログラム)は1か所「スペシャリスト」という言葉を用いているが、映画『スペシャリスト』に言及しない。なぜか、映画『ニュールンベルク裁判』(監督スタンンリー・クレマー)を引き合いに出して、「本作とは性質を異にする」と解説している。監督インタビューでも言及がない。オリジナリティを主張したかったのかもしれないが、むしろ、両作品を並べて、そこから議論を始める方が健全というものだ。