Sunday, September 08, 2013

ピカソはなぜピカソなのか

西岡文彦『ピカソは本当に偉いのか?』(新潮新書)                                                                             <「あんな絵」にどうして高値がつくの?みんなホントにわかってるの?アート世界の身勝手な理屈をあばいた「目からウロコの芸術論」>という宣伝文句。著者は版画家で多摩美術大学教授。本署が冒頭で掲げる疑問は、この絵は本当に美しいのか?、見るものにそう思わせる絵が、どうして偉大な芸術とされるのか? かりに偉大な芸術としても、その絵にどうしてあれほどの高値がつくのか?。その他いくつもの問いを投げかけ、順次開設している。まずは「絵画バブルの父」ということで、画商の存在が解説される。つまり、アートそのものではなく、アートビジネスの問題である。と書くと、ミスリーディングだ。今やアートビジネス抜きにアートは成立しないので、「アートそのものではなく」という表現は不適切だ。次にピカソの個人的資質と才能。画家としての才能もそうだが、それ以上に人心操作にたえた人物という話。そのうえで、近代西欧絵画史における発展、革新の問題が解説される。印象派とは何だったのか、そしてキュビズムとは何か。<マネは「時代」を、モネは「光」を、ドラクロワは「感覚」を、それぞれ画面に描き留めることを願い、その創造的な試みの成就のために伝統を破壊せざるを得なかったわけです。ところがピカソはそうではありません。/ピカソ本院が、絵画は破壊の集積であると明言していることからもわかるように、その破壊は明らかに破壊自体を目的としたものでした。」>ここで「破壊のための芸術」が成立する。私が『森美術館問題と性暴力表現』の中で使った言葉では、「芸術がスキャンダルとなった時代」から「スキャンダルが芸術となる時代」への転換である。著者は「現代芸術はなぜ暴力と非常識を賛美するのか」と問いかけ、さまざまに答えている。おもしろかったのは、ボヘミアンの嘘だ。芸術家はボヘミアンを気取り、世間もロマン主義的にボヘミアンとしての芸術家を許容しているが、実際の芸術家はボヘミアンでもなんでもなく、気取ってそのふりをしているだけだ。そのことが分かりやすく書かれている。本書はピカソのわかりにくさと偉大さをやさしく解説している。その後の現代アートを直接取り上げていないが、おおむね、本書の趣旨に従って考えれば、現代アートの「魅力」と「インチキぶり」がわかるようになる。