Sunday, September 15, 2013

「ドストエフスキー的状況」との格闘

河原宏『ドストエフスキーとマルクス』(彩流社)                                                                     http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1793-0.html                                                                                   一日かけて通読したが、熟読とは言えず、後日、再読しなければならない。いったいこの本は何であり、誰に向けて差し出されたものなのだろうか。19世紀を生きて資本の運動法則と格闘して革命の必然性を論じたマルクスと、他方、同時代のロシアで「神」から逃走しながら「神」に突入していったドストエフスキーと。その両者に学ぶこととは、「彼らが求めた所を求めなければならない」という。『ユダヤ人問題』『経済学哲学草稿』『資本論』、『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』――彼らが書いたことを引き写したり、あれこれ解釈するのではなく、19世紀に彼らが直面し、問い続けた課題を、21世紀の今、著者の思想として時代に立ち向かうこと。著者は、文学者でもなければマルクス学者でもなく、日本政治思想史研究者だ。「神」「ユダヤ人」「自由」をめぐるドストエフスキーとマルクスの思索の懸隔――はるか彼方で遠く交響するその出会いと行き違いと矛盾を一手に引き受けて、著者は「王様は裸だ!」という子どもの目で「革命を革命する」。革命された革命がいかにして循環するべきか。そこに「笑い」が待ち受ける。現代におけるインフレ、恐慌、食糧問題を解くための「くに」づくり構想はサンマリノ共和国をモデルとしているが、なお明快とはいいがたい。ともあれ、再読三読すべき1冊。河原ゼミ出身でもある編集者が付した内容紹介は次の通り。                                                         <「何も信じられない」現代日本の、「ドストエフスキー的状況」>                                                                   <十九世紀に、二人の偉大な革命家がいた――ドストエフスキーとマルクス。二人に共通する偉大さは、その生きた時代を超える革命家だったことにある。しかし、1990年代以降のソ連と社会主義圏の解体以後、近代的な戦争も革命もなくなり、すべての思想が持つものだったはずの革命的性格は既存の体制維持の用具へと変貌し、思想は死んだ。これはマルクス、ドストエフスキーの予想もしなかったことである。本書は、古い「革命」概念にしがみつくのを止め、古い「革命」主義を革命する指針をしめす。マルクスとドストエフスキーの二人を並べ、理論としても現実的にも、「近代」の革命論を総括したマルクス。しかしそのマルクスに欠けていた神と宗教の問題を、ドストエフスキーによって補う。本書ではマルクスとドストエフスキーを考えていくなかで、「神」「解放」「自由」「革命」「素朴」などの概念を問い、最後に「笑い」の問題をとり上げていく。>                                                              河原 宏:1928年東京生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。政治学博士。早稲田大学理工学部にて助教授、教授。1998年、退職し、名誉教授。日本政治思想史、また日本文化論について著書多数。2012 年2 月28 日没。主な著書に、『転換期の思想-日本近代化をめぐって』(早稲田大学出版部、1963)、『西郷伝説─「東洋的人格」の再発見』(講談社現代新書 1971)、『昭和政治思想研究』(早稲田大学出版部 1979)、『伝統思想と民衆-日本政治思想史研究1』(成文堂 1987)、『「自在」に生きた日本人』(農文協 1998)、『科学文明の「信」を問う─ 存在・時間・生命の情理』(人文書院 2003)、『空海 民衆と共に─信仰と労働・技術』(人文書院 2004)、『日本人はなんのために働いてきたのか』(ユビキタ・スタジオ 2006)、『新版 日本人の「戦争」─古典と死生の間で』(ユビキタ・スタジオ2008)など。