Sunday, February 24, 2013

70年代――イメージの分裂と拡散

週刊金曜日編『70年代――若者が「若者」だった時代』(金曜日、2012年)                                                                  *                                                                                                       「60年代後半から70年代初めにかけ、キャンパスを中心にわき起こり、列島を覆った変革のエネルギーはどこに行ったのか? どうして失われたのか? 70年代とは何だったのか? なぜか、こうした疑問を正面からとらえた書籍を目にしたことがない。」                                                                                                   「はしがき」に示された関心から「週刊金曜日」に連載された「70年代の光と影」をまとめた1冊だ。連載当時、半分近くは読んだ。なるほど、なるほどと読んだ回もあれば、懐かしさに思わず回顧した回もあれば、読み始めてすぐにやめた回もあり、終わりのほうはあまり読まなかった。1冊になったので、全部読んでみた。                                                                                                      60年代から70年代初めにかけての「政治の季節」から、80年代の「消費の季節」への移行期としての70年代には様々な顔があり、イメージがあり、それらが分裂しているばかりか、相互に矛盾し合い、しかも矛盾が矛盾として把握されることもなく、矛盾がせめぎあうこともなく、だら~んと時代が過ぎて行ったという感じだろうか。                                                                                                 それでも、たしかに「70年代の光と影」――ありきたりの表現だが、あの時代の空気を吸った人間にはまさに「光と影」を意識せざるを得ないし、そのことを一つ一つ丁寧に見せてくれる本書はおもしろい。74年に大学に入学し、78年に卒業したぼくにとって、70年代は文字通りの青春時代だ。この本に収められた項目のほとんどを同時代に明確に意識して見ていた。やや遅れて知ったことも含めると、ほとんどすべてを「知っていた」――細部にわたって、という意味ではない。細部は知らなかったことのほうが多いのは当たり前。ただ、ぼく個人の意識としては、70年代よりも、大学院で好きな研究に熱中していた80年代前半のほうが、自分なりの青春時代という印象もあるため、「70年代」というまとまりで考えてこなかった面がある。その意味でも本書に改めて教えられることが多かった。                                                                                                                     20歳の原点、三島由紀夫と高橋和巳、べ平連、大阪万博、ニクソンショック、連合赤軍事件、三菱重工爆破事件、「沖縄復帰」、青法協攻撃、神田川、あしたのジョー、よど号、村上龍と村上春樹・・・・と続く24本の論考は、70年代の様々な局面を切り取り、さまざまな相貌を描き、時代の雰囲気を呼びおこしてくれる。もっとも、1冊通して読んでも、70年代のイメージは分裂したままだ。                                                                                                                                 それはどういうことだろうと思ったが、考えてみれば、たまたま西暦で70年代とひとくくりにされている時代のイメージが多様であるとしても不思議でもなんでもない。                                                                                                                60年代が安保闘争に始まり、学園紛争に終わると言っても、他方で高度成長、東京オリンピック、新幹線・・・といった物語もついてまわる。学園紛争にしても、60年代から70年代の雰囲気を規定しているとはいえ、当時の大学進学率から言って、学園紛争が若者全体の意識を反映していたというのは正確とは言えない。                                                                                                                               本書は様々な読み方のできる本だ。当時の出来事の思い出や解釈は、人さまざまだろう。本書に賛同できない部分もある。だが、それは、執筆者の個性、個人的体験、記憶が反映しているからであり、執筆者と読者の間に溝があることもあらかじめ配慮されている。時代の雰囲気を呼び起こすだけでも意味があるし、当時とは違った視点で光を当てている面もあるし、70年代と10年代とをつなぐ/あるいは切断するものが何かを突き止めるための文章も含まれている。                                                                                                                            賛同できないのは、帯にも書かれ、はしがきや冒頭の座談会でも強調されている「紫陽花革命」だ。脱原発運動、特に首相官邸前のデモや経産省前のテントに象徴される動きを「紫陽花革命」と呼んで、あたかも何かを成し遂げたかのようにみる精神に違和感を感じる。この言葉が最初に使われたのはいつだったろうか。だれが使い始めたのかも知らないが、2012年7月の代々木公園集会のときにはすでに使われていた。当時、ただちに違和感を表明しておいた。そもそも「紫陽花」の花言葉を思えば、この言葉を使うはずもないのだが、まあ、仕方ないか。春だったら、「潔く散る桜革命」とでも呼ぶのだろう。その場で騒ぐだけで、運動への志がないからだ。それが直ちに悪いともいえないが。                                                                                                                                                 脱原発の歩みは、はるか遠く、うねりながらの道である。安倍政権はもとより、政財界、そして一般市民も、3.11を風化させて、何事もなかったように「日常」に帰ろうとしている。あわてず、たゆまず、粘り強い運動をいかにして組み立てていくのか。