Friday, January 25, 2013

小出裕章・佐高信『原発と日本人――自分を売らない思想』   

小出裕章・佐高信『原発と日本人――自分を売らない思想』                          http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=321209000068                                                                                 <原発体制を断ち切るには。反原発の原点をなす思想と諦めない精神を提言する>                                                                                                            小出の本はこの2年にずいぶんと読んだ。次々と出版されて、だいたい同じ話になっているが、本書は佐高との対談なので、原発に関する知識とは別に、個人的なことや、やや感情的なことも出てくるので、おもしろい。                                                                                                                                                     原子力に未来の希望を見たことや、女川原発反対運動のことや、熊取六人組のことは、これまでに何度も書かれている。それでも、本人の言葉で、会話調で読むとやはり面白い。                                                                                                                                                  東電、原子力ムラ、経産省、政治家の無責任に対する批判は、もうどれほど語られたかわからない話だが、佐高は、彼らは反省しない、と断言する。東電が原発をあきらめることはない、と。それでも、反原発をあきらめずに闘い続け、一つひとつ廃炉を勝ち取っていかなければならない。小出の闘いは、これからも続く。                                                                                                                                                       岡部伊都子、高木仁三郎、熊取六人組、田中正造、松下竜一らに関心のある人にもお勧め。                                                                                                                                もうひとつ、「騙された側の責任」に関して、伊丹万作の「戦争責任者の問題」『映画春秋』1946年8月、が全文紹介されているのが重要。   

Wednesday, January 23, 2013

長山靖生『バカに民主主義は無理なのか?』 

長山靖生『バカに民主主義は無理なのか?』                                 http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334037260                                                                                       歯科医にして文芸評論家。雑学大博士の著者である。『日本SF精神史』(河出ブックス)で、第31回日本SF大賞、第41回星雲賞も受賞している。出版した著作のタイトルだけ見ても、非常に幅が広い。                                                           本書も政治にかかわる雑学と言ってよいだろう。さまざまな著作に学び、いろんな引用をしているが、政治思想や立場の違いとかは関係なく、手当たり次第に活用している。著者自身の問題設定に使えるものを片っ端から使う姿勢である。見事な精神だ。                                 「力説することではないが、私は短慮については自信があり、根気がないことでも定評がある。そんな私でも、政治状況への不安と不信だけは、かなりのところ持続している」という著者は、日本の政治がおかしくなっていることを、様々な観点で論じているが、ポイントは、国民主権でありながら、国民が主権者としてきちんとしてこなかったことの反省である。政治家が悪いとか、政治制度が悪いとか、いろんな要因が絡んでいることは当然の前提としつつ、皮肉屋の著者は、「輝かしくない民主主義」の持続を唱える。                                                  「民主主義にいいところがあるとしたら、それはこの制度が、『われわれが生きている世の中は理想的ではない』ことがわかりやすいところだと思う。」  

Friday, January 18, 2013

取調拒否権の思想(7)

在房義務                                                                                                                                                                                                                                                       前二回で取調拒否権の憲法上の根拠と具体的内容を明らかにした。違法取調べと自白強要を避けるための方法は出房拒否であり、取調室に行かないことである。これが代用監獄に収容された被疑者の防御権の核心である。                                                                                                        同時に、そもそも被疑者は取調室に行くことを許されていない。逮捕・勾留中の被疑者を代用監獄から取調室に連れ出して取調べを行うことは違法である。被疑者には在房義務があるからである。                                                                                                                      梅田豊(愛知学院大学教授)はかつて「取調べ受忍義務否定論の再構成」『島大法学』三八巻三号(一九九四年)及び「身柄拘束の法的性格についての一考察」『島大法学』四〇巻三号(一九九七六年)において、被疑者の身柄拘束は捜査機関の権限ではなく、裁判官の権限であり、裁判官の勾留命令によって「勾留すべき監獄」が指定され、被疑者はその施設に「滞留」しなければならないことに着目した。                                                                                                                              もともと、被疑者の身柄拘束場所は拘置所である。これに代えて警察署付属の留置場を代用監獄として用いる実務が続いてきた。現に多くの勾留命令は警察署付属の留置場を身柄拘束場所として指定してきた。身柄拘束場所が拘置所であれば、捜査官が被疑者の身柄を拘置所から他へ移すことはできない。検証令状などが必要となる。同じように、身柄拘束場所が留置場(代用監獄)であれば、捜査官は被疑者を留置場から連れ出すことは許されない。裁判官の命令に反して勝手に取調室に連れて行くことは許されない。被疑者には留置場に在留する義務がある。                                                                                                                                     高内寿夫(國學院大学教授)も「身柄を拘束された被疑者には取調室に出頭する権利はない」と言う。刑事訴訟法一九八条一項は、主に身柄拘束されていない被疑者に対する出頭要求の規定である。他方、身柄拘束されている被疑者には出頭する権利がないから、捜査官側に出頭要求権がない。身柄拘束された被疑者は監獄又は代用監獄にいるのであって、取調室にはいない。取調室に行くことができない(高内寿夫「逮捕・勾留中の被疑者取調べに関する一試論」『白鴎法学』三号(一九九五年)。                                                                                                                        梅田・高内説は、実務に慣れ切った頭には容易に理解できないかもしれないが、憲法に適合し、国際人権法の要求に合致し、刑事訴訟法を無理なく解釈している。被疑者には、裁判官の勾留命令により在房義務があるので、取調室に行くことができない。被疑者や留置担当官の勝手な判断で被疑者の在留場所を変更することはできない(前田朗『刑事人権論』水曜社、二〇〇二年)。 他方、前回まで見てきたように、被疑者には黙秘権行使のための取調拒否権がある。取調拒否権を行使するならば、取調室に行かないことが被疑者の防御権行使である。いずれにしても、本来、捜査官は勝手に被疑者を取調室に連れて行くことができない。                                                                                                                                                      二〇〇五年の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律第一四条以下は留置施設について定め、同法第三章は「留置施設における被留置者の処遇」を定めているが、留置施設に関する規定によって憲法と刑事訴訟法に定める被疑者の権利を制限することはできない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               権利不行使                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 以上が取調拒否権の基本であるが、いくつか補足しておこう。                                                                                                                                                      第一に、取調拒否権の思想は取調否定説とは異なる。取調否定説はかつて澤登佳人(新潟大学教授)及び横山晃一郎(九州大学教授)によって唱えられた。誤判・冤罪防止のための意欲的な学説であるが、学界に支持を増やすことができなかった。取調べそのものを否定することはやはり無理がある。取調拒否権の思想は、取調受忍義務を否定するが、取調べそのものを否定しない。                                                                                                                                                                                                      第二に、それではどのような場合に取調べが可能となるか。それは被疑者が取調拒否権を行使しない場合である。刑事訴訟学説には時に「権利放棄説」と呼ばれる名称が登場するが、取調拒否権は憲法一三条の個人の尊重、人格権に由来するので権利放棄と見るのは必ずしも適切ではない。被疑者が弁護人と相談の上で、権利不行使を選択すれば、取調べが可能である。                                                                                                                                                                                                                被疑者には弁護人の援助を受ける権利がある。とりわけ身柄拘束された被疑者は、身柄拘束の最初期段階で弁護人の援助を受ける必要性が高い。それゆえ身柄拘束された被疑者は、まず弁護人選任をなし、弁護人と接見して黙秘権や刑事手続きについて説明を受けたうえで、黙秘権を行使するか、それとも行使せずに積極的に取調べに臨むかを選択できなければならない。黙秘権を行使する場合には、取調室に行かないのが本筋である。被疑者は取調室に行けないと考えるべきである。他方、被疑者が取調室に行くことができるとする実務を前提とすれば、取調拒否権を行使する被疑者は取調室に出向くことになるが、黙秘権・取調拒否権を行使する被疑者に捜査官が取調べを行うことはナンセンスである。繰り返すが、取調べを受けて自ら積極的に供述した方が良いという選択をした被疑者は、取調拒否権を行使せず、取調室に出向いて自らの記憶に基づいた供述をすれば良い。                                                                                                                                                                         第三に、「可視化」との関連であるが、取調拒否権を行使しない場合であっても、現状のような長時間・密室の自白強要的取調べは許されない。取調拒否権を行使せずに取調べを受ける被疑者は、弁護人と相談の上、録音録画を求めるか、弁護人の取調べへの立会いを求めるべきであろう。被疑者には取調受忍義務がなく取調拒否権があるが、これを行使せずに取調べを受けるのであるから、取調べの条件を付すことが相当である。条件が守られなければ、取調室から退去する自由がある。「可視化」の意味はこのような文脈で理解されるべきである。取調受忍義務を前提とした可視化は本末転倒であるし、一部可視化は論外である。                                                                                                                                                                                                         取調拒否権の思想の要諦は、それが憲法第一三条と第三八条という人権規定によって保障されていることを適切に理解して、権利行使の具体的方法を明示したことにある。従来の実務はもとより、学説もこれらが憲法上の権利規定であることを十分にわきまえた理解を示してこなかったと思われる。憲法上の権利を前提として刑事訴訟法第一九八条を解釈するべきであって、憲法と刑事訴訟法を切り離して、刑事訴訟法第一九八条一項の反対解釈を唱えるのは、原則と例外の安易な転倒である。                                                                                                                                                                                       『救援』525号(2013年1月)  

Wednesday, January 16, 2013

淵上・笠原・畑村『福島原発で何が起こったか――政府事故調技術解説』

淵上正朗・笠原直人・畑村洋太郎『福島原発で何が起こったか――政府事故調技術解説』 http://pub.nikkan.co.jp/books/detail/00002507                                                             政府事故調メンバーと学者の協力による解説本である。全電源喪失、炉心冷却不能、メルトダウン、ベント失敗などについて、技術的側面からの解説である。上記サイトで畑村洋太郎が自ら語っている。                                                                       <原発事故後、各機関から調査報告書が公表されたが、膨大なデータ提示の一方で市民にとってはわかりにくいものとなった。そうした中、政府事故調委員長・技術顧問らが改めて事故の正確な理解を促すため、技術の側面から時系列でとらえて解説。調査報告書では語れなかった「見解」や失敗学からの「考察」、高校生にもわかるよう配慮した「解説」を通じて、事故の真相と今後に必要な対策を体系的に理解できる。>                                                    色刷もつかい、たしかにわかりやすい。巻頭の「ひとめで理解」は便利だ。                                                なお、政府事故調報告書が発表された時に次のように書いた。               「失敗する失敗学?――福島事故・政府報告書の感想」                   http://maeda-akira.blogspot.jp/2012/07/blog-post_23.html

Tuesday, January 15, 2013

『日本全国原発危険度ランキング』

原発ゼロの会『日本全国原発危険度ランキング』(合同出版)                                                      http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=328                                                   94名の国会議員(2012年11月10日現在)がつくった「原発ゼロの会」作成の「原発危険度ランキング」の出版である。編者紹介には、近藤昭一、逢坂誠二、河野太郎、長谷川岳、太田和美、加藤修一、山内康一、笠井亮、阿部知子、斎藤やすのりの名前が並ぶ。                                         http://genpatsuzero.sblo.jp/                                                                    目次:                                        まえがき                                    危険後総合ランキング(22基対象)                        即時廃炉にすべきと考えるもの(28基)                                                              Ⅰ 原発危険度ランキング」の考え方と読み方                     1 原発危険度ランキングの主旨                         2 危険度の評価項目                                                                    Ⅱ 原発ゼロに向けて必要なこと                           1 原発ゼロに至るまでの具体的なイメージ                    2 「2030年の原発比率15%」のリアリティを考える                                                     Ⅲ こう考える 原発危険度ランキング                        総合的な観点からのコメント/伴英幸(原子力資料情報室共同代表)        地盤などの危険度からのコメント/渡辺満久(東洋大学教授)           原子炉の危険度からのコメント/後藤政志(元東芝・原子炉格納容         器設計者)                                                                       原発ゼロの会の活動について(会員一覧、政策提言骨子、作成法案概要                     等掲載)                     あとがき                                                                       ランクをつけると相対的に安全な原発があることを認めることになるという批判が想定されるが、そういう趣旨ではないこことが明示されている。                                                        第1位が大飯原発1号機、2号機、3位が島根1号機、4位が高浜1号機と島根2号機となっている。                                                                             即時廃炉にすべきものは、敦賀1号機、美浜2号機、1号機、柏崎刈羽4号機、浜岡4号機、3号機以下、28基。                                                                        59頁のブックレットサイズだが、ランキングの趣旨など丁寧に説明されている。                                        残念なのは、事務局の阿部知子議員が、脱原発だからと社会民主党を離党し、嘉田滋賀県知事とともに、未来だの生活だのと騒ぎ立てて終ったことだ。責任ある政治家とはとうてい思えない。

Monday, January 14, 2013

体罰は拷問等に当たる

桜宮高校の体罰問題を契機に体罰論議が行われている。体罰は必要悪であるかのように述べる政治家や評論家も少なくない。 **** * * 2009年の国連人権理事会拷問問題特別報告者マンフレッド・ノヴァクの報告書は、死刑がテーマだが、その中で、欧州人権裁判所が、マン島における体罰(ムチ打ち)を欧州人権条約第3条の「品位を傷つける刑罰」に当たると解釈したことが紹介している。 **** * * ノヴァク報告書を紹介した文章を下記に貼り付ける。 **** * * 拷問等禁止条約も「拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱又は刑罰」を禁止している(1条、16条)。 ************************************** ****** * 国連人権理事会拷問問題特別報告書 ***** * 『救援』2009年5月号 ***** * 本年三月に開催された国連人権理事会第一〇会期に提出されたマンフレッド・ノヴァク「拷問問題特別報告者」の報告書(A/HRC/10/44)は、死刑の残虐性に焦点を当てている。議論自体は古くからあるものだが、現在の国際人権法の光を当てる試みである。 ***** 身体刑と死刑 *****  ノヴァク報告者は、まず死刑廃止の潮流を確認する。一九五〇年の欧州人権条約第二条、一九六六年の自由権規約第六条、一九六九年の米州人権条約第四条、一九八九年の子どもの権利条約第三七条による死刑の制限がある。死刑廃止は、一九八三年の欧州人権条約第六追加議定書、二〇〇二年の同第一三追加議定書、一九九〇年の米州人権条約追加議定書、一九八九年の死刑廃止条約。そして事実上の廃止国は、二〇〇八年一一月に一四一カ国に増えた。死刑廃止の潮流は、戦争犯罪や人道に対する罪のような最も重大な犯罪についても国際刑事裁判所規程が死刑を採用しなかったことに顕著である。人権委員会の二〇〇五年決議や国連総会の二〇〇七年決議および二〇〇八年決議もある。こうした潮流によって古い国際法の解釈にも変化が生じている。「残虐、非人道的、または品位を傷つける取扱い・刑罰(以下「残虐な刑罰」)」の意味も大きく変化しているので、動態的解釈が求められるとする。                                                                                *****  動態的解釈による「残虐な刑罰」の意味の変容の典型が、身体刑の禁止に示されているという。身体刑を死刑と比較するのは、心身の苦痛という観点だけではなく、人間の尊厳という観点になってきた。欧州人権条約が成立した一九五〇年には、欧州では家庭における体罰や学校、監獄、軍隊などにおける懲罰のような身体刑は容認されていた。換言すると、比較的穏やかな身体刑は「残虐な刑罰」に当たらないと解釈されていた。しかし、六〇~七〇年代に変化が生じて、一九七八年、欧州人権裁判所は、タイラー対大英連合事件判決において、マン島における伝統的な子どもに対する懲罰としてのムチ打ちは欧州人権条約第三条の意味で、もはや許されない品位を傷つける刑罰であると動態的解釈を行った。四年後、自由権規約委員会は、教育手段としての過剰な体罰は自由権規約第七条で禁止された身体刑であると全会一致で判断した。二〇〇〇年、オズボーン対ジャマイカ事件で、臀部十回ムチ打ちを禁止された身体刑とした。欧州人権裁判所、米州人権裁判所、アフリカ人権委員会、拷問禁止委員会、拷問問題特別報告者、およびウガンダ憲法裁判所も同様に判断した。一九九三年の女性に対する暴力撤廃宣言は、身体刑の禁止は、家庭という私的領域にも及ぶとした。国家には女性をドメスティック・バイオレンスから保護するために立法その他の措置を講じる責務がある。子どもの権利委員会によれば、国家には子どもの権利条約第一九条に基づいて子どもへの身体刑を禁止・予防する責務がある。                                                                                                                                ***** 死刑の残虐性                                                                                                                                                      *****  身体刑に関する法解釈は死刑にも同じように適用されるべきではないか。死刑は身体刑の加重形態ではないのか。身体の切断が残虐な刑罰ならば首切りは違うといえるのか。臀部十回ムチ打ちでさえ国際人権法のもとでは絶対禁止されているのに、絞首、電気椅子、銃殺などの死刑が正当化されることがありうるのか。                                                                                ***** ノヴァク報告者は、国際人権機関がこの問いに必ずしも明確に答えてこなかったという。欧州人権委員会でさえ「死刑それ自体」が欧州人権条約第三条違反とは結論付けていなかった。生命権と人間の尊厳をめぐる議論は、死刑執行方法によって異なっていた。石打刑のように意図的に苦痛を長引かせるものについては残虐な刑罰だと一致が見られた。しかし、今日の「人道的な」執行については見解が分かれた。一九九三年、キンドラー対カナダ事件で、自由権規約委員会は、注射による死刑を非人道的な刑罰と判断しなかった。二〇〇八年、ベイズ対リース事件で、アメリカ連邦最高裁も同様であった。他方、Ng対カナダ事件で、自由権規約委員会は、ガス窒息死刑は残虐な刑罰とした。二〇〇三年、自由権規約委員会は、スタセロヴィチ対ベラルーシ事件で、銃殺を規約違反とはせず、息子の執行日や墓の場所を母親に告知しなかったことが母親に対する非人道的な取り扱いだとした。恣意的処刑特別報告者は、執行直前まで本人に知らせずに行う執行や、家族にも事後通知の場合を非人道的で品位を傷つけるとした。                                                                               *****                                                                              他方、死刑囚房についても争いがある。一九九三年、大英連合高等法院は、プラット・モーガン対ジャマイカ総督事件で、五年以上の拘禁は非人道的で品位を傷つける取り扱いの憲法上の禁止に違反するとした。自由権規約委員会は、十年以上であっても自由権規約第七条違反でないとしている。                                                                                                                                ***** 以上を踏まえて、ノヴァク報告者は死刑と人間の尊厳について、多様なアプローチが必要だとして、まとめている。国際人権機関が身体刑を残虐な刑罰と判断した時に、身体刑がもたらす苦痛について検討していないことに注目する。苦痛を与えなくても、人間の尊厳を保護する目的に反すれば残虐な刑罰に当たると理解できるからである。国連総会が各国に死刑廃止の観点で執行猶予を呼びかけた時、死刑執行は人間の尊厳を害すると述べている。国連加盟国の明確な多数意見であるから、死刑は残虐な刑罰を科されない権利を侵害するといえる。子どもの権利条約は、生命権に関する第六条ではなく、残虐な刑罰を禁止した第三七条において少年への死刑を絶対禁止している。拷問禁止委員会は、死刑そのものが残虐な刑罰か否かについて明示的判断を下していないが、死刑廃止のための手続きをとるよう各国に呼びかけている。死刑それ自体が残虐な刑罰と判断した国内裁判所としては、ハンガリー、リトアニア、アルバニア憲法裁判所があるが、一九九五年のマクワニャン・ンチュヌ事件における南アフリカ憲法裁判所判決がもっとも重要である。                                                                                                                        ***** 以上のようにノヴァク報告者は、死刑の残虐性についての国際人権法による動態的解釈を呼びかけている。人間の尊厳と死刑に関する動態的解釈を行うことで、身体刑と死刑の関連がいっそう明らかになり、死刑廃止に向けた普遍的潮流が確実なものになるとし、国連人権理事会が死刑に関する包括的な研究を進めるように提案している。                                                                                                                            ***** 死刑の残虐性は日本でも議論され尽くしたと思われがちだが、国際人権法の展開を踏まえた議論はまだまだ必要だ。

東アジアに平和の海をつくるvol.1

Thursday, January 10, 2013

「非武の島」オーランド諸島


「非武の島」オーランド諸島

 

『朝日新聞』1月6日「社説」は「アジアの国境――繁栄わかちあう智恵を」と題して、領土問題にいかに対するべきかを説いている。

 

「近隣国との信頼関係は、歴史認識をめぐる一部政治家の浅慮な言動によって何度も揺るがされた」とし、「こうした不信の構造をどうすれば崩せるのか」と問い、暫定的な答えとして、若者たちが向き合って議論をする地道な試みを紹介している。

 

その前不利として紹介されているのがオーランド諸島だ。「今から100年近く前、北欧を舞台に始まった話である」と始め、バルト海のオーランド諸島の領有問題を取り上げ、1921年の国際連盟の裁定によって、オーランド諸島がフィンランド領となるとともに、島を非武装化し、住民自治を認めたことが書かれている。

 

オーランド諸島ファンとしてはうれしい話だが、47行の記述にとどまっている。

 

オーランドについては、かつて下記のように紹介したことがある。








Tuesday, January 08, 2013

「下からの司法改革」えん罪原因調査第三者機関設置運動


日弁連えん罪原因究明第三者機関WG編著

『えん罪原因を調査せよ――国会に第三者機関の設置を』


 

9月に出た本を今頃ようやく読んだ。

 

<誤判もえん罪も昔の話ではない。警察は、なぜ捜査を誤ったのか。検察は、なぜ捜査・公判で誤りを正せなかったのか。裁判所は、なぜ「疑わしきは罰せず」の鉄則を忘れて警察や検察に追随したのか。もはや裁判所を聖域にしてはおけない。問題に正面から向き合い、えん罪原因を究明する独立した第三者機関の必要性を多面的に訴える。>

 

志布志事件、足利事件、東電OL事件などあいつぐ冤罪、大阪地検特捜部の証拠改竄事件などで、日本の捜査の在り方がひどいことが一般の人にも理解され始めた。冤罪原因の検証は日本ではまったく行われてこなかった。東京地検や最高検がおざなりの調査をしただけである。これではダメということで、福島原発事故と同様に、国会に冤罪原因究明の機関を設置しようという運動と理論の書である。

 

著者はみな知り合いなので推奨するのも気が引けるが、重要な本だ。

 

これまで代用監獄廃止、取調べの可視化、取調べへの弁護人立ち会いなどを求めてきた運動の次の課題として、ぜひ実現したいものだ。

 

「上からの司法改革」ばかり先行する現状に対する、「下からの司法改革」の提起としても重要だ。

 

目次

 

はしがき[西嶋勝彦]

特別インタビュー 周防正行監督に聞く
「僕があまりにもショックを受けた日本の刑事裁判の現状を皆さんに知ってもらいたい」

1章 “えん罪原因究明第三者機関”を考える――その必要性と要件をめぐって[指宿信]

2章 えん罪原因の解明から刑事司法の根本的改革へ[小池振一郎]

3章 日本版「えん罪原因究明第三者機関」はどうあるべきか[泉澤章]

4章 えん罪原因究明第三者機関設置をめぐる憲法問題[木下和朗]

5章 米イノセンス・プロジェクトの発展から見た日本の課題[伊藤和子]

6章 えん罪委員会の役割――誤判の発見、組織的改革またはその両方?[ケント・ローチ/髙倉新喜訳・菊地裕子協力]

7章 科学的証拠の強化が刑事司法の発展を促す[ピーター・ニューフェルド、サラ・チュー/徳永 光訳・菊地裕子協力]

[
資料]
1
 えん罪原因調査究明委員会の設置を求める意見書
2
 えん罪事件一覧表(解説・西嶋勝彦)

執筆者・訳者紹介

Monday, January 07, 2013

東京裁判のさらにもう一つの一面


昨日は、デマ垂れ流し弁護士への批判などしていたので、気が重い。
 
気分転換に、ギャラリーで学生の絵画作品を眺めていた。今日のBGMは、ベルン大聖堂のコンサートより、トレッリの「ソナタD」(指揮デズモンド・ライト)。

 

大岡優一郎『東京裁判――フランス人判事の無罪論』(文春文庫)


 

<インド代表のパル判事らと並び、東京裁判の最終判決に異議を唱え、孤高の反対意見を残したフランス人裁判官、アンリ・ベルナール。東京裁判を論じる書物が数多ある中、その存在が見過ごされてきたのはなぜなのか。多数派意見とも、日本無罪論を唱えたパル判事とも意見を異にし、連合国の正義の原則に真っ向から立ち向かったその反対判決文、そして知られざる彼の生き様を辿りながら紡がれる、もう1つの東京裁判史。>

 

おもしろい本だ。たしかにベルナールは忘れられた存在と言える。

 

著者は、少数意見だけではなく、ベルナールのメモをふんだんに活用しながら、東京裁判におけるベルナールの思考を紹介している。

 

ベルナールは厳格なカトリックに育ち、神学校で学び、生涯その思想を抱えていたようだ。息子の回想もそのことを強調している。あたかも中世のカトリックかと思えるような極端な思考の持ち主で、おまけに異端審問を支持していたと言う。今なら、かなり異常な人間と言うことになる。

 

だが同時に法律家であったベルナールは、フランス植民地における司法運営の実態をつぶさに知ることによって、独特の自然法思想を発展させていく。文字に書かれた実体法の空虚さと危うさを知り尽くしたためだろう。その自然法の立場から、東京裁判に臨むことによって、多数派とは異なる見解を貫くことになる。

 

日本無罪論として持ち上げられているパルも、日本軍の残虐行為を認定している。パルの無罪論を持ちあげる人々は、このことには触れずに、都合のよいところだけを切り取ってごまかす。

 

本書で、著者は、ベルナールのメモと判決を丁寧に紹介している。ベルナールは、平和に対する罪による裁きを認め、パルを批判している。戦争犯罪についての個人責任も認めている。日本に都合のいいことばかりではない。著者は、ベルナールの思索全体を見渡せるように紹介していると言えよう。

 

それでも、結論として「満州事変は侵略ではない」としているので、ここだけ切り取って騒ぐ人々が出てくるだろう。本書は文春文庫だ。

 

最後に著者は、イギリスのパトリック判事をボルドーの赤ワイン、インドのパル判事をブルゴーニュの白ワイン、そしてベルナールをプロヴァンスのロゼ・ワインに比している。この比喩の意味はよくわからないが、わからないなりに、おもしろい。
 
 
 
 

Saturday, January 05, 2013

朴秉植『死刑を止めた国・韓国』


朴秉植『死刑を止めた国・韓国』(インパクト出版会)


 

<隣の国・韓国では15年間死刑の執行がない。20数人が殺害された連続殺人事件が起きても死刑は再開されなかった。日本よりも自由な獄中処遇、殺人事件被害者への支援組織、出獄者への更生活動などを報告。日本が学ぶべきこと満載の書。>

 

著者は1984年から9年ほど日本の明治大学大学院に留学し、日本の死刑廃止運動情報を韓国に伝えた。現在は韓国の東国大学教授。

 

本書は「事実上の死刑廃止国」である韓国の死刑の歴史、執行の実態、事実上の廃止国となった経緯、憲法裁判所における存廃論(裁判所は5対4で、合憲論)などを紹介している。存廃論の議論状況は韓国も日本も同じだ。

 

廃止論がいくら論理を提示しても、感情論としての存置論には対抗できないこと。凶悪犯罪発生率の読み方が一面的で不当であること。世論調査の方法が非常に偏っていること。いずこも同じ。

 

また、韓国では何度か死刑廃止法案が国会に提出されたが、いずれも廃案となっている。途中から、当初はなかった代替刑としての終身刑の提案が盛り込まれた。やがて、死刑廃止法はできないが、重罰化のための絶対終身刑案が登場したという。日本と同じだ。著者は、「あまりにも、日本の動きと似ている。悪行を早く覚えるのは人間だけじゃない。国や政府も同じである」と言う。

 

驚いたのは、「国際刑事裁判所管轄犯罪の処罰などに関する法律」だ。国連は死刑廃止条約を採択しているので、国際刑事裁判所規程も死刑廃止である。ところが、韓国の法律はあえて死刑を盛り込んでいるという。

 

この点、日本は大きく異なる。日本政府は国際刑事裁判所規程に遅れて加入したが、それに伴う法改正は行っていないので、日本ではジェノサイドも人道に対する罪も犯罪ではない。この点では、日本と韓国は違い、両極端であり、しかもともに世界の水準からかけ離れている。

 

もう一つ、日本と違うのは死刑囚処遇だ。心情の安定のために刑務作業につくことが許されている。日本より人道的だ。

 

事実上の死刑廃止、及び死刑囚の人道的処遇など、日本はいま韓国に学ぶべきである。

Friday, January 04, 2013

村上隆『創造力なき日本』


村上隆『創造力なき日本』(角川ONEテーマ21)


 

世界のムラカミが語るアートとビジネスで成功するためのノウハウ本。駅の売店で買って電車で読んだ。

 

はしがき冒頭から、「戦後民主主義の借り物の民主主義」「戦後の平和ボケした日本」といった批判が出て来るので笑えた。気に入らないことはすべて戦後民主主義のせいにする。前後の文脈はどうでもいい。そして、説明も補足も本文では一度も出てこない。よくあるパターンだ。

 

<技術力と集中力の劣化にどう立ち向かうか?><個性をはき違えた日本人の末路>といった記述もあまりにありきたりで平凡すぎる。

 

それはともかく、本文は、さすが世界のムラカミだけあって、現代美術でやっていくために必要なこと、なすべきことの指摘は納得。また、日本の絵画で世界の美術史に残るのは北斎の1点だけだと述べ、自分は将来の世界史に残る作品を1つでもつくるべく努力を積み重ねていると宣言している。はるか遠くまで視線を伸ばし、「死んでからが勝負」と言い切るところが凄い。

 

一方、覚悟、礼儀作法を強調するのは、わかるようで、わからない。まして、仁・義・礼こそ重要というのも、何をいまさらという感じも。

 

アートとビジネスの両方にまたがった論述になっているのは、村上自身が、個人ではなく、「有限会社キキカイキ」で共同作業をし、アートを「インダストリ」として位置付けているため。

 

アートで成功するための6つのパターンは、天才型、天然型、努力型、戦略型、偶然型、死後型だという。村上自身は努力型プラス戦略型で、今は死後型にもなるように力を注いでいるという。

『若松孝二・俺は手を汚す』


若松孝二『若松孝二・俺は手を汚す』(河出書房新社)


 

ピンク映画の巨匠にして、『赤軍PFLP世界戦争宣言』『実録・連合赤軍・あさま山荘への道程』『キャタピラー』『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の監督・若松孝二の46歳の時の回顧談。1982年にダゲレオ出版から出たもの。

 

若松孝二 (ワカマツ コウジ):映画監督。1936年生まれ。『甘い罠』により監督デビュー。監督作品に『犯された白衣』『略称・連続射殺魔』『水のないプール』『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』など。201210月、死去。

 

『若松孝二全発言』が2010年に出ていたので、セットになる。

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309271958/

 

申し訳ないが『キャタピラー』しか観たことがないので、若松映画についてほとんど何も知らない。

 

本書は、東北の田舎に生まれた貧しい少年が東京に出て映画屋になっていき、ピンク映画における実験性を追求し、大島渚の『愛のコリーダ』で世界に知られ、赤軍映画で世間をアっと言わせていたころの話である。

 

登場する人物は、大勢の俳優たちと、菅原文太、足立正生、松田政男、大島渚、唐十郎、平岡正明、岡本公三、重信房子、内田裕也、・・・

 

「まだまだゆけゆけ、若松孝二! いつも熱かった。いつも熱かったことに、俺、少し安心した」の活劇人生の前半を楽しく読める。

 

終わりのほうでわずかながら映画論も語られている。

 

「俺には映画論なんてないんだよね。映画なんていうのは、ムチャクチャに撮れば、それでいいと思うんだよね。つながりとかそういうもの一切関係なく撮らなくちゃいけないと思っているわけ。」と語り、フリージャズを引き合いに出している。

 

若松ならではの発言だろう。

 

次は中上健二の『千年の愉楽』。

Thursday, January 03, 2013

『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』


『新崎盛暉が説く構造的沖縄差別』(高文研)


 

<沖縄が本土へ復帰してから2012515日で40年。
いまだ在日米軍基地(専用施設)の74%が沖縄に集中。
普天間基地も動く気配すらない。
5
9日、奇しくも沖縄タイムスと朝日新聞、琉球新報と毎日新聞がそれぞれ共同世論調査の結果を掲載しました。
前者の調査では、「沖縄は差別されているか」の問いに、沖縄ではそう思うが50%、本土では29%。
後者では沖縄69%、本土33%とどちらも同じような結果を示しました。
県民の意思に反して、なぜ、沖縄の米軍基地はなくならないのか?
本書では、その構造的沖縄差別がどのように作られてきたのかを米軍基地と沖縄県民の闘いの歴史を通し、検証しています。
沖縄現代史のパイオニア、沖縄闘争の伴奏者、新崎盛暉がいま、沖縄から安保の本質を問う!>


「沖縄の闘いは、その差別構造につながる内部矛盾の克服を含めて、当分続く。沖縄の闘いが、構造的沖縄差別を突き崩す時期は、周辺諸地域の民衆の、沖縄に対する共鳴・共感・連帯の度合いによって、遅くもなれば早くもなるだろう」(あとがきより)

 

著者の本を何冊読んだだろうか。
 
 
たぶん20冊くらいになるはずだ。岩波新書や『沖縄同時代史(全10巻)』を読みながら、沖縄を考えてきた。「沖縄問題」を正しく「日本問題」として把握し、沖縄に対する差別を批判するのに、いつも著者の視点を参考にしてきた。

 

本書も、戦後の日米関係の中に「沖縄」を位置づけ、一方で世界史的視野でモノを考え、同時に他方で沖縄の民衆の視点で、民衆の闘いの観点で議論を続けている。

 

著者は、第4章で、構造的沖縄差別を克服するための可能性を模索し、「沖縄とヤマトの境を超えた人間と人間の連帯である」と言う。

 

その通りである。

 

だが、沖縄の民衆と連帯しうる主体としての民衆が「本土」にどれだけいるのだろうか。

 

残念ながら、「本土」には、開き直った植民地主義者と、自らの植民地主義に無自覚な人間ばかりではないだろうか。絶望するわけにはいかないし、断念するわけにもいかないが、現実は厳しい。

 

植民地主義者でありたくない人間をもっと増やすために、沖縄差別を潔しとしないまともな思考をもっと増やすために、本書を出発点に、さらに一歩前に。

大島堅一『原発はやっぱり割に合わない』


大島堅一『原発はやっぱり割に合わない』(東洋経済新報社)


 

<原発は安価な電力ではない。気鋭の経済学者が、発電、財政、賠償、廃棄物にわたるそのカラクリを経済性の視点で解き明かしながら、再生可能エネルギー移行へのシナリオを描き出す。>

 

「原発の危険性」とともに/よりも、「原発の経済性」を主題とした著作だ。論述が丁寧で、読みやすく、わかりやすい。ただし、難解な経済学の部分は省略してある。それは著者の別の専門書を読めばわかることだが。

著者は福井県出身で、子どものころから原発は身近だったが、チュルノブイリ以後に環境経済学を学び、専攻し、生涯のテーマとして原発問題を追いかけてきた。高木仁三郎や室田武に学び、再生可能エネルギー政策について論じ、2010年3月11日、つまり3.11の1年前に『再生可能エネルギーの政治経済学――エネルギー政策のグリーン改革に向けて』を出版している。

 

原発の安全神話や安価神話は、すでに崩壊した。崩壊させたのは福島原発事故だが、神話の崩壊を理論的に引き起こし、確実なものにさせたのは著者の功績である。

 

『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(岩波新書)や『原発事故の被害と補償――フクシマと「人間の復興」』(共著、大月書店)とともに、大いに読まれるべき本だ。

 

目次

第1章 世界史的事件としての福島原発事故

第2章 なぜ日本は原発大国になったのか

第3章 「原発が最も安い電力」というからくり

第4章 原発の本当のコスト

第5章 使用後の核燃料をどうするか

第6章 日本のエネルギーのこれから

 

著者

立命館大学国際関係学部教授。福井県生まれ。経済学博士(一橋大学)。専門は環境経済学、環境・エネルギー政策論。 2011年の福島第一原子力発電所事故後、経済産業省総合資源エネルギー調査会基本問題委員会委員、内閣官房国家戦略室エネルギー・環境会議コスト等検証委員会委員、同需給検証委員会委員などを務める。主な著書に、『再生可能エネルギーの政治経済学――エネルギー政策のグリーン改革に向けて』(東洋経済新報社、環境経済・政策学会奨励賞受賞)、『原発のコスト――エネルギー転換への視点』(岩波新書)、『原発事故の被害と補償――フクシマと「人間の復興」』(共著、大月書店)、『環境の政治経済学』(共著、ミネルヴァ書房)などがある。

文明国の普遍的価値とは


各紙が報じているように、ソウル高裁が靖国神社「放火犯」を「政治犯」と認定して、日本に引き渡さないとの決定を出した。すでに釈放され、近日中に中国に出国するという。

 
読売新聞


産経新聞


韓国BBS


 

以上の記事には重要なことが脱落している。ソウル高裁が「政治犯」と認定した理由が、きちんと書かれていない。
 

朝日新聞1月4日朝刊は、はっきりと「引渡しは韓国憲法に違反し、多数の文明国の普遍的価値に反する」と判断した、と書いている。ただし、以下のサイトにはそこまで掲載されていない。


 
韓フルタイムも「多くの文明国家の普遍的な価値」と明示している。


 
この部分を削除した記事は「報道」の名に値しない。単に日韓の感情的対立をあおるだけだ。

 
放火犯を「政治犯」と認定し、引き渡しを拒否した結論の当否をあれこれ感情的に論じてもあまり意味はない。
 

重要なのは、「靖国神社放火犯を日本に引き渡すことは文明国の普遍的価値に反する」という論理をきちんと理解し、その当否を論じることだ。
 

侵略戦争を美化・正当化し、アジア諸国に対する差別と蔑視をあおりたて、首相参拝という形で国家介入を招き、しばしば政治問題を引き起こしてきた靖国神社の存在そのものが、文明国の普遍的価値に反する、ということをきちんと議論するべきだ。

 
ここから見れば。靖国神社側の宗教の自由という虚言がはっきりする。
 
 
国際社会において、宗教や信仰の自由は普遍的価値として認められている。
 

しかし、靖国神社の実態は宗教の自由とは関係なく、むしろ宗教と信仰の自由の否定である。他者の宗教の自由を否定し、特定の宗教を国家権力をもって強制してきたのだから。
 
 
 
次に問われるべきは、文明国の普遍的価値とは何か、である。

脱原発テント2013正月

テント村は頑張っている。

脱原発を掲げて、霞が関の経済産業省前でテント異議申し立て行動が続いている。

世界で有名になったウオール街行動やスペイン・バルセロナ行動は数日の企画だが、テントは1年以上続いている。

今日もニューイヤーコンサートを頑張っていた。

申し訳ないが、少しだけ激励訪問と若干の差し入れ。



おだやかな日常/おだやかならざる日常


今日の午後は、経済産業省前の脱原発テントを訪問。ニューイヤーコンサートだった。3か月ぶりの訪問だ。徐々に減っていないか、と反省。

 

続いて、渋谷ユーロスペースで、原発をテーマにした映画『おだやかな日常』(監督:内田伸輝)。



 

福島原発事故の影響を市民がどのように受け止めさせられたのか、をテーマにした映画と言えばいいのだろうか。

 

あるMLで紹介されていたが、そこでは、『希望の国』と違って、本作は<インデペンデント>なのであまり知られていないので、という言葉が書かれていたように記憶している。

 

どうしても『希望の国』と比べてしまう。

 

『希』は、有名俳優を使っている。

 

『希』は、舞台を福島に設定している。本作は違う。どこと明示されていないが、撮影場所は埼玉県戸田市。

 

『希』は、親子2世代のそれぞれの夫婦の苦悩をえがいている。本作は、アパートの隣に住む2組の夫婦(ただし1組は映画始まり早々に離婚宣言)の物語。壊れた夫婦と、壊れそうになっても持ち直しそうな夫婦。

 

『希』も本作も、原発問題本体ではなく、内部被曝問題を取り上げている。内部被曝と闘えるのか、闘えないのか。

 

『希』も本作も、内部被曝に敏感な者と、そうではない者との対立を描いている。本作の場合は、敏感でない者は電力会社の下請けの社員と明示されている。

 

『希』も本作も、主役は最後に西に逃げる。場所は明示されていないが、被ばくを避けるために。首都圏から西(おそらく関西)へ逃げる話である。そのことをもっと堂々と明示すべきなのに、両作とも、そこは多少なんとか、ごまかしている。なぜごまかすのか。

 

結構いい映画と思うが、理解できない点も。

 

『希』の時には考えてもいなかったが、本作は、「日本/アメリカ」の資本による制作である。

 

これを<インデペンデント>と宣伝することの意味は何か、と不思議に思う。

 

映画に登場するのはおかしな「フランス人」というところにも、ゆがんだ悪意がにじみ出ている。「アメリカ」の意味の説明がなされていない。アメリカさまさま人間、なのか。

 

何から<インデペンデント>なのか。

 

まあ、製作者も、監督も、推薦者も、日本の原発には反対でも、アメリカ原子力ムラの利害関係者なのかも、と嫌がらせを書いておこう。

 

そこにこそ、「おだやかならざる日常」の本当の意味が浮上する、と思う。

Wednesday, January 02, 2013

2013年を迎えて~~『刑事訴訟法の理論と実務』


新年は伊勢志摩で骨休め。

 

今年のBGM1曲目は、クック諸島のPeka Beniamina, Akaperepere、歌はTeata Nga。2曲目は、Piritau Nga, E Reo Iku. 歌はTara Kauvai。南太平洋サウンドで、女性ヴォーカルのメロディアスな歌だが、時折ジャズの影響が前面に。

 

正月休みのまとめ読みの第1冊は、白取祐司『刑事訴訟法の理論と実践』(日本評論社)


 

著者は、北海道大学大学院法学研究科教授。最初の著書は『一事不再理の研究』。その後も多数の著書を送り出してきたが、なんといっても刑事訴訟法教科書としてもっとも信頼され、定評のある『刑事訴訟法』(日本評論社)は、2012年に第7版を数えた。また、研究書『フランスの刑事司法』(日本評論社、2011年)を出したばかりで、今回は論文集だ。

 

本書は、著者がその都度書いてきた論考を収録し、捜査から救済手続きに至る刑事裁判の流れに即してまとめたものだ。「理論と実践」とあるように、研究者の理論・学説の役割を問うことが強い問題意識となっている。

 

というのも、刑事裁判実務は、実際には検察支配が貫かれてきたし、まして捜査実務に関しては検察さえも「警察の犬」「犬の犬」と自嘲するほど、警察権力の思いのままでやってきた。刑事訴訟法学者の理論は、時期によっては大きな影響を与えたこともあるが、戦後の実務が確立して以後は、学説は軽視されてきた。

 

このため、有力な刑事訴訟学者の中には、理論を断念して実務に追随し、実務の理論化に力を注ぐものが登場し、一部には「実務を理論化することこそ学説の役割だ」という、学者の自己否定、主体的責任放棄が堂々と語られる状況になった。

 

裁判実務だけではなく、21世紀に入って続々と続いた刑事立法でも、学説による批判や、検証は最初から無視され、実務と世論の暴走が始まった(重罰化、裁判員制度、それまで違法だった捜査手法の正当化など)。「警察の犬」は検察だけではない。

 

こうした現実を前に、著者はさまざまな論点について、学説と実務の関係をとらえ返し、理論の果たすべき役割を思索し続けてきた。その基本線は教科書において示されているが、本書では、そのなかのいくつかに絞って、より詳しい叙述がなされている。

 

巻頭論文「刑事訴訟法における実務と学説」、続く「刑事訴訟法と法改正」「モデル論と精密司法論」のほか、個人的には、「起訴前勾留と起訴後の勾留」「未決拘禁制度の基本問題」「弁護権論の到達点」「自由心証主義の反省」「情況証拠による事実認定」が特に勉強になった。

 

思い起こすと、著者と初めて会ったのは、刑法理論研究会の場だったと思う。刑法理論研究会『現代刑法学原論』(三省堂、1983年)の初版が出た直後に、佐々木光明(現・神戸学院大学教授)と2人で、その書評を書いたのは、もう30年前のことになる。若気の至りで、批判的な論評を連ねたものだ。その直後の刑法学会は関西学院大学で開催だっただろうか。それ以来、刑法理論研究会、刑法学会、民主主義科学者協会法律部会などでお目にかかるたびに貴重なご教示をいただいてきた。