Tuesday, August 14, 2012

東アジアにおける法と暴力

法の廃墟(15)

東アジアにおける法と暴力



『無罪!』2007年7月号





異なる価値観



  六月二七日、アメリカ下院外交委員会は、日本軍「慰安婦(性奴隷制)」問題に関する決議を三九対二の圧倒的多数で可決した。決議は次のように述べている(以下、VAWW-NET Japan WAM仮訳)。

「日本政府は、一九三〇年代から第二次大戦継続中のアジアと太平洋諸島の植民支配および戦時占領の期間において、世界に『慰安婦』として知られるようになった若い女性たちに対し日本軍が性奴隷制を強制したことについて、明確かつ曖昧さのない形で歴史的責任を正式に認め、謝罪し、受け入れるべきであるとする下院の認識を表明する。」

「日本政府は、もし日本の首相がそのような謝罪を、首相としての資格で公式声明として発表すべきとするならば、これまでの声明/談話の真摯さと位置づけについて繰り返される疑問に、決着をつけるようにするであろう。」

「日本政府は、日本軍のための『慰安婦』の性奴隷化と人身取引はなかったとする如何なる主張に対しても、明確かつ公的に反駁すべきである。」

これに対して安倍晋三首相は「たくさんある決議の一つにすぎない」とか「コメントしない」などとはぐらかしの姿勢を示している。

しかし、決議案が話題になった本年二月から三月にかけて安倍首相は「狭義の強制連行を命じた文書はない」などと述べて世界中の顰蹙を買った挙句、ブッシュ大統領に対して「謝罪」するという意味不明の言動を繰り返してきた。人権問題を理解しない言動は世界のメディアに「二枚舌」とまで批判されている(前田朗「歴史は何度も甦る――『慰安婦』問題・米議会決議案の波紋」『中国人戦争被害者の要求を支える会ニュース』五六号、二〇〇七年)。

また、自民党・民主党などの国会議員が『ニューヨーク・タイムズ』に、事実を否認する開き直りの意見広告を出した。恥を知らない意見広告が却って決議可決を促進したと言われる。

安倍首相は「日米は価値観を同じくする同盟国」などと述べてきたが、戦時強姦や性奴隷制という戦争犯罪と人道に対する罪についての価値観がまったく違うことを露呈している。

日本メディアの関心は、なぜいまアメリカが、に注がれた。アメリカ内部の政治情勢や、朝鮮半島をめぐる動向に無理やり結びつけた論評も見られた。しかし、「なぜいま」よりも、「ようやくアメリカも」という点こそ重視するべきだ。決議の最後は次のように締めくくられている。

「日本政府は、現在および未来の世代に対しこの恐るべき犯罪について教育し、慰安婦に関わる国際社会の数々の勧告に従うべきである。」

「国際社会の数々の勧告に従うべきである」とは何を意味するのか。この点をきちんと解説した記事や社説は見られない。「慰安婦」問題に関わってきた者なら、ただちに、一九九三年の国連差別防止少数者保護小委員会のテオ・ファン・ボーベン「重大人権侵害」報告書、九四年の国際法律家委員会報告書、九六年のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力」報告書、九八年のゲイ・マクドーガル「戦時性奴隷制」報告書、そして二〇〇一年の女性国際戦犯法廷ハーグ判決等々を思い起こすはずだ(前田朗「日本軍性暴力訴訟の現状」『軍縮地球市民』五号、二〇〇六年)。国際社会の数々の勧告を引き出すために多くのNGOが懸命の努力を続けてきたこともいうまでもない。



国家暴力への問い



日本軍性奴隷制の告発は、反戦平和運動や女性運動に多大の影響を及ぼしたが、歴史家や法律家はもとより、哲学者、文学者など広範な分野の研究者にも衝撃を与えた。強制連行・強制労働や南京大虐殺をはじめとする日本の過去が突きつける問題への取組みが続けられている。

高橋哲哉・北川東子・中島隆博編『法と暴力の記憶――東アジアの歴史経験』(東京大学出版会、二〇〇七年)は、二〇〇六年一月に東京で開催された国際シンポジウム「東アジアにおける法・歴史・暴力」をきっかけにして編集された論文集である。

第一部「戦争・植民地における法と暴力」では、ベンヤミンの『暴力批判論』を手がかりとして、日本による戦争と植民地下における法と暴力の世界に踏み入る。「近代政治システムと暴力」(萱野稔人)は、合法的に暴力を独占してきた近代の主権国家システムが、経済的な領域で「帝国的」に変容を始めていると分析している。「歴史認識論争――相対主義とミメティズムを超えて」(アラン・ブロッサ)は、フランスの哲学者による日本の過去をめぐる論争へのコミットであり、「集合的記憶の小児病」の発生メカニズムを明らかにしている。「BC級戦犯と『法』の暴力」(高橋哲哉)、「台湾における『法の暴力』の歴史的評価――日本植民地時代を中心に」(王泰升)、「中国の『四十年戦争史』と中国人の暴力認識」(徐勇)は、日本帝国主義の時代を、日本、台湾、中国における同時代認識を抉りながら、現在の認識への問いに繋げている。

第二部「近代の法的暴力とジェンダー」は、ジェンダー視点からの「近代化の暴力」への理論的挑戦である。「道徳の暴力とジェンダー」(北川東子)は、東アジアにおける「国民道徳論」の抑圧的性格を論じる。「台湾における法の近代化とフェミニズムの視点――平等追求とジェンダー喪失」(陳昭如)は、植民地時代への批判が「脱性別化」を招くからくりを浮き彫りにする。「近代韓国における女性主体の形成――東アジア的近代経験の多層性」(金恵淑)は、韓国女性解放運動の歴史を辿り直して、改めて「私は誰か」という問いの地平に立とうとする。

第三部「一九四五年以後の法と暴力」は、第二次大戦後の現代東アジアを取り上げる。「不服従の遺産――一九六〇年代の竹内好」(中島隆博)、「朴正煕の法による殺人――人民革命党事件、民青学連事件、人民革命党再建委員会事件」(韓洪九)、「『官製民衆主義』の誕生――朴正煕とセマウル運動」(韓承美)、「現代中国のイデオロギー暴力――文化大革命の記憶」(徐険峰)、「光州の記憶と国立墓地」(金杭)という力作が開示するのは、東アジアにおける暴力の原初形態から、法と暴力の認識の変容を経て、運動と学問が抱え込んでいる困難と、それゆえの可能性とである。

東アジア各国の研究者がそれぞれの歴史経験に向き合う場合、それこそ相対主義に陥る危険がつねに内在しているが、本書はそうした隘路に陥ることなく、歴史の理論化と理論の歴史化に果敢に挑んでいる。