Sunday, July 29, 2012

ハンセン病差別と法律学

法の廃墟(4)



ハンセン病差別と法律学



『無罪!』2006年7月号





差別救済における差別



 二〇〇一年五月一一日の熊本地裁判決は、「らい予防法」に基づくハンセン病患者に対する差別政策を、その形式においても効果においても違法なものとして厳しく批判し、国に被害者への補償を命じた。国は控訴を断念し、被害者に補償を行うこととし、ハンセン病療養所入所者等補償法が制定された。新聞謝罪広告も掲載された。これによりほぼ百年におよぶハンセン病差別政策の転換が始まった。

 ところが、この補償法は、補償の対象についての細目は厚労省告示で定めることにした。「告示」には、日本国内の国立・私立の療養所や、米軍占領下の琉球政府が設置した施設は列挙されたが、それ以外の療養所は無視された。しかし、戦前に日本は韓国と台湾に、国内本土と同様の療養所を作り、同じ強制隔離によって、強制労働や断種を初めとする被害を与えていた。韓国と台湾の二つの施設(韓国小鹿島更生園、台湾楽生院)の被収容者(入所者)は、補償法による補償をするようにと日本政府に要請した。

ところが日本政府は、「小鹿島や楽生院は補償法の言う国立療養所には当たらない」として彼らの補償請求を棄却した。

二〇〇五年一〇月二五日、東京地裁は、韓国訴訟および台湾訴訟について二つの対照的な判断を下した。小鹿島については棄却処分を取り消さない、楽生院については棄却処分を取り消すというものである。つまり、韓国については補償をしない、台湾については補償をする、ということになった。

東京地裁の二つの判決は、植民地責任、戦後責任、ハンセン病差別責任などの輻輳した問題群についての姿勢の差であった。差別政策の被害者に対する救済措置にもかかわらず、新たな差別を持ち込んで被害者を分断・対立させるのは、これまでも良く見られた日本政府らしい措置であり、東京地裁らしい判断でもあった。しかし、この落差の大きさはさすがに世論の反発を招いた。その後、日本政府は韓国についても被害者救済する方向に向かっている。ただ、当時の入所者記録がきちんと保存されていないなど、なお救済が進んでいない。

翻ってみると、実は熊本地裁判決にも限界はあった。すなわち、沖縄の原告については、一九七二年の本土復帰を基準として、それ以前の被害を賠償の対象からはずしていたのである。復帰前は旧日本法(一九三一年)が適用されていたが、琉球政府は別に「ハンセン氏病予防法」を制定しており、そこには退所または退院の制度が盛り込まれていた、沖縄のハンセン病政策は本土とは異なる経過をたどってきた、という。



「共通の被害」とは



熊本地裁判決の限界に着目した森川恭剛『ハンセン病差別被害の法的研究』(法律文化社、二〇〇五年)は、沖縄におけるハンセン病隔離政策を追跡する。著者は琉球大学大学院助教授である。

森川は、まず日本のハンセン病隔離政策の違法性に関する総論として、「日本のハンセン病隔離政策とらい予防法を考察の対象として、『共通の被害』を法的に解明する」(第一章)。ここではハンセン病差別・隔離政策、個別の人権侵害にとどまらず、「社会的烙印」として集団的な差別政策となり、「組織的加害システム」が整備され「患者排除のシステム」として機能したことが取り上げられる。「強制収用による人権侵害」「療養所内の人権侵害」、そして「社会内で平穏に生活する権利の侵害」という三つの柱で被害実態を解明し、法的側面に光を当てる。それは<人生被害>という言葉に凝縮された被害である。熊本地裁判決もこうした分析視角に立っていた。ところが、熊本地裁判決は沖縄を切り捨てた。

森川は次に、「戦前の旧沖縄県における隔離政策の展開過程をたどりながら、熊本訴訟で被告が『共通の被害』を否定または曖昧にするために拠り所とした『救癲』の観点について検討を行う。一九三八年に国頭愛楽園が『沖縄救癲の殿堂』として設置された経緯を調べることで、絶対隔離政策と救癲運動との結びつき方を示すことができるからである」(第二章)。一九三五年を起点とする「無癲県沖縄への救癲運動の時代」の検証を踏まえると、「救癲運動を手がかりにして戦前沖縄に絶対隔離政策を確認することは事実に適っているように思われる。むしろこの説明が月並みであるために、一九三五年に救癲運動が起こり急成長を遂げて三年後には大規模な療養所を建てたことを輝かせてきたのかもしれない。しかし、絶対隔離政策が救癲運動を通してこそ展開しえたのであれば、『救癲』のイデオロギーにおいて肯定的に隔離政策史を振り返ることは反省されねばならない」。

「救癲」の「善意」を疑わないとしても、深刻な<人生被害>の現実に向き合うならば、「善意」による加害の歴史をこそ再検証することが必要だ。

そして、森川は「琉球政府のハンセン病隔離政策」に切り込む。「戦後本土復帰前の沖縄におけるハンセン病隔離政策を振り返り、戦前の絶対隔離政策の戦後沖縄における承継と発展、つまり沖縄における『共通の被害』の歴史的集積の事実を明らかにする」(第三章)。結論として、「琉球政府には絶対隔離政策を変換する少なくとも三回の機会があった」という。一度目は、一九五〇年代半ばのダウル報告。二度目は、一九六〇年頃、第七回国際らい会議でインテグレーションが確認されたとき。三度目は、一九六〇年代後半、外来診療所を各地に点在させることが容易であったこと。

結語はこうである。「戦後本土復帰前の沖縄に差別被害が示された。それは匡正的な意味における平等の法的価値の侵害の現実であり、らい予防法はこの平等原則違反の現実を沖縄と本土において一九九六年まで維持し続けた。らい予防法が見えないあつい壁を作り被害認識を困難にしてきたといえる。しかし、療養所入所者の平均年齢が七〇歳をこえてついに退所がほとんど不可能になるとその法律が廃止され、私たちはハンセン病差別被害の歴史と現実に直面する機会を与えられた。法律学はこれを無にしてはならないし、この歴史と現実からその依拠すべき価値を一つ一つ導き出さねばならない」。

医学の名による差別政策を法律学が一体となって推進した歴史への反省である。ここに森川人間法学の確立を見ることができる。