Tuesday, January 10, 2012

デモの自由と規制の実態(一)

拡散する精神/萎縮する表現(9)
『マスコミ市民』515号(2011年12月)

 ネオリベラリズムによる露骨な収奪と生活破壊に対して、ニューヨークでもワシントンでも抵抗が始まった。スペインのマドリードで開催されたデモ(集団示威行動)では、ベートーベンの第九交響曲の「歓喜の歌」の大合唱が起き、世界に感動を送り届けた。

 日本でも脱原発を求める市民のデモが各地で展開されている。国家による福島県民棄民政策、東京電力による責任逃れ、九州電力のやらせ問題など、この国の支配層の腐敗は異常などというレベルを通り越している。これに対して、例えば「素人の乱」呼びかけのデモは東京でかつてない若者たちの結集を実現した。九月二三日(*)には、ノーベル賞作家・大江健三郎らの提唱で明治公園六万人集会とデモが成功した。

(* [訂正] 大江健三郎らの提唱による明治公園六万人デモの日付は、九月一九日です。九月二三日は、排外主義反対デモで被逮捕者が出た日です。少々混乱していました)

 ところが、一部右翼は脱原発デモに対して激しい侮蔑と罵声を浴びせて妨害してきた(脱原発を唱える右翼団体もあるが)。警察は、暴力右翼と呼応して、異常に厳しい規制を行い、デモに不当介入し次々と逮捕弾圧を引き起こしている。マスコミはこうした「権力犯罪」には沈黙を決め込んでいる。

欧米諸国においてもデモ規制はなされるし、時には逮捕事例も見られるが、デモの様子をユーチューブなどで見ると、日本のような過剰警備はしていない。表現の自由の一環としてのデモの自由が一定程度保障されている。日本の現実はデモの自由をほとんど空文化している。

 日本国憲法第二一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」としている。表現の自由の冒頭に集会が掲げられている。ところが、現実には奇妙なことに、集会と、それ以外の結社、言論、出版とは明確に区別されている。結社、言論、出版には許可も届出も必要ないのに、集会だけは公安条例の許可制・届出制や道路交通法による許可制により厳しい規制がなされている。憲法はそのような区別をしていないにもかかわらず、区別がまかり通っている。

 一九六〇年七月二〇日、最高裁は東京都公安条例事件について、集団行動の表現の自由を口先では認めながら、「平穏静粛な集団であっても、時に昂奮、激昂の渦中に巻き込まれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によって法と秩序を破壊し、集団行動の指揮者はもちろん警察力を以てしても如何ともし得ないような事態に発展する危険が存在すること、群衆心理の法則と現実の経験に徴して明らかである」と断定して、デモを公安委員会の許可制とした東京都公安条例を合憲とした。六〇年安保闘争を前に、「集団行動=暴徒」論を採用し、「群衆心理の法則」なるものを捏造している。デモが暴徒化する原因が警察による不当弾圧であることを隠蔽している。

一九七五年九月一〇日、最高裁は徳島公安条例事件について、「交通秩序を維持すること」を理由とするデモ規制は不明確とは言えず違憲ではないとした。これにより条例の違憲性を争う余地はほぼ皆無となった。少数意見を執筆した団藤重光裁判官は、条例は不明確であり、意義内容を解釈・了解できないとした。多数意見は、一般通常人なら判断できるから不明確とは言えないとした。多数意見が正しいとすれば、団藤裁判官には一般通常人程度の判断力もないことになってしまう。矛盾だらけの多数意見によって、集会の表現の自由が死んだ。

 さらに、一九八二年一一月一六日、最高裁は道路交通法第七七条事件について、「一般交通に著しい影響を及ぼすような行為」には所轄警察署長の許可を要するとし、デモを許可制とした同法を合憲であるとした。一定の場合、デモが「道路の機能を著しく害する」と述べ、交通の安全と円滑等のために許可制とするのは合憲だと言う。ここに言う「道路」には、自動車道だけではなく、通行のために使われるすべての場所(空き地、公園)が含まれる。

日本国憲法の下では、道路は一般交通の場であるとともに、デモ(集団示威行動)の場でもあるはずだ。ところが、最高裁は、デモが「道路の機能を著しく害する」と決め付ける。デモによって道路の憲法的機能が発揮されることを隠蔽している。道路や広場は日本国憲法の理念を実現するべき政治的空間であり、民主主義を遂行するべき開かれた場でなければならない。