Wednesday, February 09, 2011

拷問犯人を追い詰める

無罪!07-12

法の廃墟(20)

拷問犯人を追い詰める

逃げるラムズフェルド

 一〇月二六日、国際人権連盟、憲法的権利センター、欧州憲法人権センター、フランス人権連盟は共同してドナルド・ラムズフェルド元アメリカ国防長官をパリ地方検察庁に告発した。被疑事実は拷問を命令または容認したことである。ラムズフェルドはフランスの外交政策雑誌の求めで講演するためにパリに滞在していたが、告発のニュースを知るや、ジャーナリストや人権法律家の目を逃れるためアメリカ大使館に逃げ込んだ。

 国際人権連盟など四団体はラムズフェルド告発の経緯とラムズフェルド逃走についてプレスリリースを発表した。

マイケル・ラトナー(憲法的権利センター所長)は「ラムズフェルドに対する告発は、拷問計画に関与した米国高官が裁判にかけられるまで、われわれが休むことはないことを示している。ラムズフェルドは隠れる場所はないと思い知らねばならない。拷問犯人は人類の敵なのだから」と述べた。

スーハイ・ベルハッセン(国際人権連盟議長)は「フランスには、グアンタナモとイラクにおける拷問犯罪についてラムズフェルドの責任を捜査し訴追する義務がある。拷問被疑者がフランス領内に立ち入れば、フランスには捜査を開始する以外の選択肢はない。不処罰に対する闘いは政策の名によって犠牲にされたりしない。フランスが犯罪者の安全な避難所にならないようフランスに呼びかける」と述べた。

ウォルフガング・カレク(欧州憲法人権センター事務局長)は「不処罰と闘うがゆえに、拷問事件について管轄権のある場所どこでも捜査と訴追を要求する」と語った。

告発によると、ラムズフェルドその他の高官たちが拷問に直接関与したり、命令した責任があると示す米国政府文書があるにもかかわらず、アメリカおよびイラク当局が彼らの責任を解明する捜査を行わないので、フランスには本件を取り上げる法的責任がある。なぜなら、アメリカもフランスも拷問等禁止条約(一九八四年)を批准している。フランス司法は、拷問被疑者がフランス領内にいるならば拷問等禁止条約のもとで訴追する義務がある。ラムズフェルドがフランスに滞在しているから、グアンタナモ、アブグレイブ等における被拘禁者に対する拷問、虐待、非人間的な取り扱いを命令または容認したラムズフェルドを訴追する管轄権をフランス司法が有する。ラムズフェルドは国防長官を辞任したから、もはや国家元首や政府高官に認められている免責特権を主張できない。

ラムズフェルド責任追及の試みはこれが初めてではない。二〇〇四年と二〇〇五年に国際人権連盟等は、やはり管轄権を有するドイツでも告発を行ったが却下された。二〇〇六年には国際人権NGOやノーベル平和賞受賞者等がラムズフェルドを告発した。アブグレイブに拘禁された一二人のイラク市民も告発している。二〇〇五年にアルゼンチン、二〇〇七年にスウェーデンでも告発がなされた。

一〇月二七日、ラムズフェルドはフランスからドイツへ逃走した。朝食会合の際に「人殺し」「戦争犯罪だ」と叫ぶ人権活動家から隠れ、国境を越えて、告発を却下しているドイツへ逃げた。人権活動家は、EUのシェンゲン協定により、犯罪被疑者を追跡するためにフランス官憲が国境を越えることができると指摘している。

 タンガイ・リチャード(人権活動家)は「ラムズフェルドは、フセインを米軍が追跡した時にフセインがどう感じていたかを知らねばならない。ラムズフェルドは、文明社会では戦争犯罪は割に合わないと学ばなければならない」と述べた。

グアンタナモへの道

映画『グアンタナモ、僕達が見た真実』(原題「グアンタナモへの道」、マイケル・ウィンターボトム/マット・ホワイトクロス監督、イギリス、二〇〇六年)は、キューバの領土を不法占拠し続ける米軍基地グアンタナモにおける拷問の実態を赤裸々に描いている。実際にグアンタナモに送られて拷問された体験者の証言と、その証言を基に制作された映像である。

 イギリスに居住するパキスタン人のアシフ・イクバルは、二〇〇一年九月、結婚のためにパキスタンに向かった。結婚式に招待した友人のローヘル・アフマド、シャフィク・レスルたちもパキスタンを訪れた。カラチで楽しい時間を過ごした彼らは、一〇月に始まった米軍によるアフガニスタン爆撃の情報を知り、アフガニスタンを見たいと思い、結婚式の前にアフガニスタン旅行に出かけた。カンダハル、カブールを経て北部のクンドゥズを訪れるが、戦闘に巻き込まれる。米軍の爆撃と北部同盟の攻撃が激しくなっていたからだ。北部同盟の捕虜となった人々の多数が殺害された。生存者はコンテナトラックによる「死の護送」でマザリシャリフに移送され、一部は米軍に引き渡されて、カンダハルに設置された米軍基地に送られる。タリバン兵士かアルカイーダのメンバーではないかと疑われた三人は、拷問や虐待の中、連日の尋問に耐える。

米軍は、テロリスト容疑者と称して、はるか彼方のグアンタナモ基地にある収容所へ次々と送り込み、激しい拷問を続けた。炎天下にさらし、屈辱的な姿勢を強要する。「動物園」のように檻に閉じ込め、会話も禁止する。移動の際には手錠に加えて、頭に覆いをかぶせる。メディアを通じて一部は世界に報道され、人権NGOや赤十字国際委員会も強く非難した拷問である。しかし、ブッシュ大統領もラムズフェルドも「テロリスト」に対する処遇を正当化する。

常軌を逸した身体的拷問に加えて、精神的拷問や偽計による尋問が続けられるが、三人は希望を失うことなく、容疑を否認し続けた。収容所を訪問したイギリス当局も三人を救出するどころか、陥れようとする。それでも屈しない者には、激しい騒音による虐待や、冷凍室に監禁する拷問も加えられる。

手を変え品を変えて行われた拷問テクニックは、後にイラクのアブグレイブ収容所で再現され、世界を驚かせることになった。

想像を絶する拷問に耐え抜いた三人は、ついに自由を勝ち取りイギリスへ送還され、体験を世界に向けて証言することになった。ブッシュ・ラムズフェルドの犯罪を克明に描いた映画は、二〇〇六年ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞した。「グアンタナモへの道」は、人間性を剥奪する野蛮極まりないブッシュ・ラムズフェルド思想の崩壊の道である。

しかし、グアンタナモでもアフガニスタンでも、いまなお拷問が延々と続いている。拷問犯人を追い詰めるために人権NGOの協力を強化する必要がある。

ブッシュ大統領には国家元首の免責特権があるが、元大統領になれば特権はなくなる。ブッシュやラムズフェルドが来日することになれば、日本でも告発運動を進めなければならない。

Thursday, February 03, 2011

時代を駆け抜けた29歳

無罪!09-09

法の廃墟(30)

時代を駆け抜けた二九歳

 この夏、反骨の川柳作家を描いた映画と、貧困と格差社会への警鐘ゆえに再ブームとなった小林多喜二の代表作『蟹工船』の映画が公開・上映された。

 プロレタリア小説を代表する作家の小林多喜二が特高警察の残忍な拷問で虐殺されたことはあまりにも有名だが、プロレタリア川柳の世界を切り拓いた鶴彬も中野・野方署において拷問によって殺害された(赤痢にかかり豊多摩病院で死去)。ともに二九歳であった。

 川柳の革新と芸術

 映画『鶴彬――こころの軌跡』(監督・神山征二郎、二〇〇九年)は、鶴彬生誕一〇〇周年記念作品であり、ドキュメンタリードラマとして製作された。

 暁を抱いて闇にゐる蕾

 手と足をもいだ丸太にしてかえし

 枯れ芝よ団結をして春を待つ

 胎内の動きを知るころ骨がつき

 鶴彬(本名・喜多一二)は、一九〇九年、石川県河北郡高松町(現・かほく市)に生まれた。一五歳の頃から川柳を作り始めたが、やがて社会主義川柳やプロレタリア川柳として発展させていった。激動の時代に、資本主義による労働者の搾取や弾圧を厳しく批判し、戦争の実相を見据えて反戦平和を訴える作品をつくった。

権力の不正に対して飽くことなく言葉の痛撃を浴びせ続けた青年の研ぎ澄まされた精神は、一叩人編『鶴彬全集』(たいまつ社、一九七七年)、深井一郎『反戦川柳作家鶴彬』(機関紙出版、一九九八年)、田中伸尚・佐高信『蟻食いを噛み殺したまま死んだ蟻』(七つ森書館、二〇〇七年)、木村哲也編『手と足をもいだ丸太にしてかえし――現代仮名遣い版鶴彬全川柳』(巴書林、二〇〇七年)などで知ることができる。なお、前田朗『非国民がやってきた!』(耕文社、二〇〇九年)参照。

 映画製作は、鶴彬の地元・石川県の人々をはじめとして、鶴彬への熱い思いを持った人々の努力によって始まり、多くの困難を乗り越えて実現した。鶴彬役は池上リョーマ、鶴を支えた井上剣花坊夫妻を、高橋長英、樫山文枝が演じた。客観的な資料映像のシーン、俳優による造形演技のシーン、そして川柳の朗読。これらを通じて若き詩人の清冽な映像詩が再演された。

 退けば飢ゆるばかりなり前へ出る

 地下にくぐって春へ、春への導火線となろう

 鶴彬を演じた池上リョーマは、この二編が好きだという。「苦しみながらもなんとかしよう、目的を達成したいとあがいている感じがすごく好きでした。彼の心情がストレートにビンビン伝わってきて」(映画パンフレット『鶴彬――こころの軌跡』より、以下同じ)。

 国境をしらぬ草の実こぼれ合ひ

 井上剣花坊の妻・信子を演じた樫山文枝は、女流川柳の先駆者・井上信子のこの作品が好きだという。「今でこそグローバル化なんて言いますけど、当時から信子さんはそういうことを詠んでいた。本当に感性が新しいですよね」。

 鶴にしても剣花坊や信子にしても、時代の激流に抗する信念に加えて、みずみずしい感性で川柳の芸術化へ突き進んでいった。このために弾圧を受け、一九三八年、鶴彬は特高警察によって殺された。全国的には知名度はまだまだだが、今回の映画を通じて改めて鶴彬とその周辺に光があてられたことは意義深い。

 なお、鶴彬の詩における沖縄差別について、座覇光子の指摘がある(「国家機密法に反対する懇談会だより」六三号、二〇〇九年)。

 ブームの終焉へ

 映画『蟹工船』(監督・SABU、二〇〇九年)は、プロレタリア文学の最高峰とされる原作の八〇周年に、再びやってきた世界恐慌状況において貧困、格差、派遣切りの横行する現代に送り出された。原作は二〇〇八年にブームとなり、流行語にもなった。その作品構造を残しつつ、「スタイリッシュな映像と独特のユーモアを武器に、現代的なアレンジを施した」(映画パンフレット『蟹工船』より、以下同じ)という。

 小林多喜二は、一九〇四年に秋田県に生まれ、四歳で小樽に転居した。小樽高等商業学校在学中から創作活動を始め、プロレタリア文学の代表者となる。特高警察による拷問を告発した『一九二八年三月十五日』、地主と小作人の闘いを描いた『不在地主』などで、資本主義の搾取や抑圧を批判したが、一九三三年に特高警察の拷問によって殺された。多喜二の伝記決定版は、倉田稔『小林多喜二伝』(論創社、二〇〇三年)である。ノーマ・フィールド『小林多喜二』(岩波新書、二〇〇九年)も優れている。

 SABU監督は「労働者の悲惨さだけを描きたいわけではないし、悲惨な状況を嘆きながらも、希望を全て無くしている訳じゃ無い、僅かに残っている小さな希望の声を拾って、それを映画の楽しみにまで引き上げたい」と語る。その試みはそれなりに成功している。

 もっとも、汚いキツイ世界を描いただけでは若者は観てくれないため、かっこよく描いたという。スタイリッシュでユーモアがあってかっこいい闘いだ。『蟹工船』(監督・山村聡、一九五三年)との決定的な違いである。

 反貧困、反差別、反戦平和の運動現場でも、古いタイプの運動は硬苦しくてかっこ悪いから、若者にウケルようなかっこいい運動をつくろうという声が大きくなっている。なるほどと思う。運動がかっこよくて楽しいことは悪いことではない。

しかし、若者のアイデアといっても、せいぜい賑やかなサウンドデモでしかない。その程度のかっこよさでいったいどうするの、と詰問したくなる話しか出てこない。五六年ぶりの『蟹工船』の映画化は、ブームにのって物語を消費したが、同時にブームを終わらせる役割を果たしたのではないだろうか。

 鶴彬も小林多喜二も、そうしたかっこよさとは無縁だ。現実に向き合い、理想を掲げてプロレタリア芸術の闘いを、二九歳の青春を、まっしぐらに駆け抜けた。まったく異質のかっこよさが――結果として――残された。真のかっこいい闘いは、これからだ。