Friday, January 07, 2011

『あしたのジョー』再読(2)

無罪!08-04「法の廃墟」(22)

団塊の世代ジョー

「自由に生きる」という理想への道を追いかけて、六〇年代後半に「闘争における生の完全燃焼」を提示した『あしたのジョー』、七〇年代に「がんじがらめの社会からの自由」を歌った尾崎豊、「大きな物語」が崩壊した九〇年代に「終末の時代の自由」を模索したオウム真理教を分析したのは、橋本努『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書、二〇〇七年)である。

もっとも、「七〇年も終わり、よその大学ではいいかげん下火になっていたのに、法政大学ではまだまだみんな元気だった。どのくらい元気だったかといえば、人より幾分長く僕はその大学に在籍していたのだが、その間、正常(?)に試験が行われたのは一度きりしかなかった」という吉田和明は、「尾崎豊は現在の<あしたのジョー>だ!」と断定していた(吉田和明『あしたのジョー論』風塵社、一九九二年)。

「ジョーは『団塊の世代』の一人だ!」と強調する吉田和明は、ジョーの生没年の解明に向かう。マンガ『あしたのジョー』の「物語の時間の流れには随所で矛盾」があるが、吉田は細部に至るまで検討して、「矢吹丈年譜」を仕上げた。

吉田によると、ジョーは一九四七年六月か七月生まれ(それも七月一三日以前の生まれ)である。まぎれもない団塊の世代である。ジョーがドヤ街にふらりと現れたのは、東京オリンピックに向けて建設ラッシュとなり始めた一九六二年初冬。この一〇月にファイティング原田が世界チャンピオンになっている。翌六三年四月に鑑別所に入所し、東光特等少年院に送られ、力石徹と出会う。力石は六四年一月、ジョーは同年七月に少年院を退院して、ボクサーへの道を歩む。ジョーと力石の宿命の対決は六五年四月。力石死後、ジョーはボディしか殴れない欠陥ボクサーとなり、ドサ廻りに出る。カーロス・リベラの登場に伴って、六七年四月にリングに戻ったジョーは翌六八年にかけて連戦連勝する。この時期、藤猛、沼田義明、小林弘、西条正三らが世界チャンピオンに輝いていた。他方、羽田闘争、エンタープライズ寄港阻止闘争、三里塚闘争、新宿騒乱事件が続く。最後の一戦、ホセ・メンドーサとの戦いは、六九年一二月である。同年一月に東大安田講堂事件が起き、一一月に赤軍派が大菩薩峠で検挙された。

「ジョーの死は、二二歳の一二月のある日のことであった・・・・。一エキシビジョンマッチを含めて二六戦して一九勝六敗一分け、それがジョーの一七歳から二二歳にして『真っ白に燃え尽き』るまでの、六年強の期間にわたるリングでの成績であった」。

吉田の綿密な追跡によってジョーの生没年が明らかになった。たしかにジョーは団塊の世代の一人であり、『あしたのジョー』は団塊世代マンガでもあった。

相克する「あした」

しかし、何か違和感が残る。前回、「世代論で物事を語るつもりはないし、『あしたのジョー』を世代論的に読み解く作業自体、別の論点を整理しておかないと難しいと思う」と書いたことにかかわるが、ジョーが団塊の世代である必然性がどこにあるのか、よくわからないのだ。

第一に、原作者の梶原一騎は一九三六年生まれであり、作画のちばてつやは一九三九年生まれであり、団塊の世代ではない。二人には世代論の意識もなかった。

第二に、力石徹や白木葉子の年齢を、吉田はなぜか問題にしようとしない。ジョーは六四年七月にB級ライセンスのプロ・テストを受験している。受験資格が一七歳だからだ。ところが力石はすでにウェルター級六回戦でデビュー以来一三KO勝ちをほこり「メガトン強打のわかき殺し屋」と呼ばれていた。ある試合で観客のきたないやじにカッとなりその客を叩きのめして、無期限出場停止となり、その処分を不服としてほうぼうで暴力事件をひき起こし、挙句の果てに少年院に送られて、ジョーと出会ったのだ。この経歴からすると、力石はどんなに若く見積もっても二十歳寸前に違いない。ジョーよりも二歳以上年長、つまり一九四五年七月以前の生まれである。

白木葉子の年齢を推定しうる情報は極めて少ないが、六四年一月、力石が少年院退院の際、オープンカーを運転して出迎えているから少なくとも一八歳になっている。葉子と力石の会話を見ると、姉が弟に話しかけるようなシーンが散見される。パトロンとボクサーの関係のためだとしても、葉子は少なくとも力石と同じ年齢で、ジョーより二歳以上年長と見るのが妥当である。つまり、力石も葉子も団塊の世代ではない。

なお、カーロス・リベラやホセ・メンドーサの年齢は不明だが、吉田は、東洋チャンピオン金龍飛がジョーより二歳年上と推定している。となると、団塊世代と年長世代の対決マンガと見ることができる。

一九六一年生まれで、『炎の転校生』で知られる漫画家・島本和彦は、世代論よりも、それぞれの「あした」に着眼している(島本和彦『あしたのジョーの方程式』太田出版、二〇〇六年)。そして、ホセ戦でジョーが戦っていた「あした」は、ジョーがそれまで思い描いていた「あした」とは違うあしたなんだと言う。

「殴り合うことで、お互いが充実し合えば合うほど、お互いが壊れていく。その矛盾のぶつかり合いですね。ジョーはそんな『あした』の中に生きていたわけだ。で、それをホセの『あした』が否定するんですね。この構造が、『あしたのジョー』という物語を作っているんだな。」

悲劇的、破壊的なケンカ・ボクシングではなく、家族を大切にし、きちんと自己管理して、身体も価値観も大人のスポーツマンであるホセとの一戦がラスト・ファイトとなった理由である。橋本努は、「無口で静かなマイホーム・パパ」であるメンドーサにジョーが敗北したことを「六〇年代後半の理想の終焉と、七〇年代の幕開け」と見るが、島本も「我々はホセの時代に生きている」と言う。

「このまんがの示した『あした』という価値が好きで、自分もそんなふうに生きたいと思ってしまったら、現実には破滅できない以上、どうしてもそうなりきれない自分に出会う結果になり続けるわけですね。『おれはあしたのジョーだぜ!』とか思いながら、現実にはせいぜいこんなもんでしかない自分。そういうものにひたすら出会ってしまう。そういうギャップの中で生きていくことになる。」

団塊の世代は「我々はあしたのジョーである」と信じてよど号に乗り込んだ。自分に出会わないために――それは『あしたのジョー』を誤読したパロディにすぎなかった。『あしたのジョー』がはじめから世代を越えて熱狂的な支持を受け、今日まで命脈を永らえてきたのは、単なる団塊世代マンガではなかったからである。

『あしたのジョー』再読(1)

無罪!08-02「法の廃墟」(21)

「真っ白な灰に燃え尽きる」

 「社会が『自由』になっても、私は『不自由』だ。多くの人々は、そのように感じていないだろうか。/世の中とは逆説的なもので、社会が自由になればなるほど、人は自由を享受できなくなることがある。社会の自由と引き換えに与えられるのは、生の焦燥や空漠であるという現実。現代人は、そのような剥奪感のなかで、ふたたび自由を疑いはじめている。」

 このように始まる、橋本努『自由に生きるとはどういうことか――戦後日本社会論』(ちくま新書、二〇〇七年)は、「自由に生きる」という理想について「戦後日本人の時代経験を追いながら考察」している。その際、論壇や学問世界における自由論を追跡するのではなく、高度成長期の「下からのスパルタ教育」(女子バレーボールの大松監督)、六〇年代後半に「闘争における生の完全燃焼」を提示したマンガ『あしたのジョー』、七〇年代以後に「がんじがらめの社会からの自由」を歌った尾崎豊、「大きな物語」が崩壊した九〇年代に「終末の時代の自由」を模索したオウム真理教、「ものわかりのよい社会」における自由を問い直した『新世紀エヴァンゲリオン』などを題材に、一面では文化の表層をリサーチしながら、同時に社会の深層に切り込もうとする意欲的な分析を展開している。その手つきは鮮やかといってよいだろう。

 二一世紀の格差社会の現状を踏まえての結論はこうである。

 「おそらく私たちは、社会が自由になっても不自由にしか生きられないからこそ、『もっと自由な社会』について、あれこれと空想するのであろう。自由は必然的にユートピアにとどまるものだが、そのユートピアが駆動因となって、社会の制度変革が導かれていく。だから自由主義は、『空想的自由主義』とならなければならない。イマジネーションが枯渇してしまえば、私たちはもはや、自由の大切さを認めることができないであろう。」

 『帝国の条件――自由を育む秩序の原理』(弘文堂、二〇〇七年)の著者によるコンパクトな「自由論再入門」の全体については、本書の一読をオススメするにとどめる。ここで本書を紹介したのは、『あしたのジョー』に言及しているからだ。

 「疎外の克服」と「資本主義の矛盾の解決」を「団塊世代の青春」に読み解く橋本は、マルクス主義では資本主義の矛盾は解決できないと考えた若者たちが、「あえて矛盾を受け止めて、燃え尽きる」という『あしたのジョー』に一つの理想を見出し、「自己否定」の徹底により新たな人間になる道を歩んだとの仮説を提示する。「フォークの神様」岡林信康、安田講堂事件、全共闘の「溶解志向」を瞥見した上で、『あしたのジョー』を解読する。スペースの都合からであろうが、論点は二つに絞られる。

第一は、「矢吹丈と力石徹」であり、野生の闘争本能である。野生児ジョーと、常軌を逸した減量に取り組んだ力石という二つの闘争本能の激突と、悲劇的な力石の死。著者は力石の死を「六〇年代の終焉を象徴する死」と位置づける。

第二は、「ジョーとメンドーサ」である。世界チャンピオンのホセ・メンドーサに挑むジョーの最後の決戦である。橋本は、野生児ではなく、「無口で静かなマイホーム・パパ」であるメンドーサにジョーが敗北したことを「六〇年代後半の理想の終焉と、七〇年代の幕開け」と見る。

「真っ白な灰に燃え尽きる」ことが自由ならば、メンドーサに敗れたジョーにとっての「自由」とは何か。そこから橋本は尾崎豊へと視線を転じる。

基本構図をどう見るか

橋本のシャープな視点の提示と分析に異論を唱えようというのではない。むしろ、一九六七年生まれの、『あしたのジョー』に同時代として触れていない橋本が、現代社会における自由論の中でこのような議論を展開していることに敬意を表したいほどだ。

世代論で物事を語るつもりはないし、『あしたのジョー』を世代論的に読み解く作業自体、別の論点を整理しておかないと難しいと思うが、それでも橋本の問題提起は、懐かしく、そして斬新だ。「懐かしく、そして斬新だ」などと矛盾したことを書くのは、橋本の問題提起と同様のことは、すでに当時から語られていたし、共有されていたと感じると同時に、これだけシャープには明示されてはいなかったようにも思うからだ。

力石徹が死んだ時に、寺山修司らが「告別式」を開催したことや、「よど号ハイジャック事件」の田宮高麿が「我々はあしたのジョーである」との言葉を残したことも、現在から見ればナンセンスではあっても、同時代の意識にはある程度共有されていただろう。

一九五五年生まれのぼくは、小学校低学年までは『少年画報』『冒険王』を手にしていたが、友人宅で『少年マガジン』を読んでいたので、『巨人の星』(梶原一騎原作、川崎のぼる画)は全編もれなく初出時に読んでいる。一九六八年一月に連載の始まった『あしたのジョー』(高森朝雄原作、ちばてつや画)は、完全ではないが、大半を初出で読んだ。もっとも、高森朝雄が梶原一騎と同一人物であるなどとは夢にも思わなかったが。

一九五二年生まれの蕪木和夫は、『巨人の星』にカルチャーショックを受けて、「梶原劇画の圧倒的なパワーの魅力」に取り付かれてマンガ原作者になった(蕪木和夫『劇画王梶原一騎評伝』風塵社、一九九四年)。

一九五八年生まれの斎藤貴男は、幼稚園の頃に『少年マガジン』に出会い、雑誌を置いてある床屋や食堂を覗いて、読みまくった。「巨人軍の投手になって背番号16をつける」はずだったが、ジャーナリストになって梶原一騎の伝記を書いた(斎藤貴男『夕やけを見ていた男――評伝梶原一騎』新潮社、一九九五年)。

全共闘世代の読者も、全共闘には遅れてきた世代の読者も、橋本の問題提起を基本的には了解するのではないか。

この先は、当時からのぼくの印象になるのだが、『あしたのジョー』の基本構図をどう見るかについて考えてみたい。学生時代、水道橋にあったウニタに出入りしては各党派の雑誌を立ち読みしていた。ぼく自身は党派に属したことがなく、<ノンセクト・アンチラディカル温泉派>と称して伊豆の民宿で遊んでいたのだが。当時、目にした雑誌に「矢吹丈と力石徹の弁証法」という言葉が並んでいたのを思い出す。その世界では有名なフレーズのはずだ。

「矢吹丈と力石徹」「ジョーとメンドーサ」――これが『あしたのジョー』の基本構図と理解されている。当時も今も。当たり前のことで、これに異論を唱えようというわけではない。

しかし、一点追加したい。「矢吹丈と白木葉子」――これこそ『あしたのジョー』全編を貫く基本構図なのだ、と。連載後半の頃からぼくはこう思っていた。後には、この観点が強調されなかったことと、梶原一騎の後半生とをつなげて解釈するのが妥当ではないかと考えるようになった。

ぐろ~ばる・みゅ~ぢっく(26)すりらんか




スリランカの音楽です。


毎年夏に、ジュネーヴの国連欧州本部正門前の平和広場で、スリランカ人(亡命、出稼ぎ労働など)の平和集会があります。欧州各地から数百人が集まります。NGOの国際教育開発(IED)のカレン・パーカーさんがよく挨拶の発言をしているので、顔を出してみました。そこで売っていたCDです。そのときにアルバムタイトルを教えてもらったのですが、覚えていません。長年続いたスリランカ内戦、一応、和平に向けて動いていますが、早く本当の平和が訪れることを願います。

ぐろ~ばる・みゅ~ぢっく(25)らび・しゃんか~る


インド音楽でらび・しゃんか~るは、ちょっと当たり前すぎるかもしれません。世界一大量に製作されているインド映画(ミュージカル)の中の多彩な音楽がありますが、私たちにはどれも区別がつきにくいので。


Monday, January 03, 2011

ガダルカナルの空と海に

ガダルカナルの空と海に

ガ島の慰霊碑

 ガダルカナルといえば「ガ島=餓島」だ。第二次大戦時、日本軍兵士が飢えとマラリアで倒れ、無残な死に方をした犬死の島だ。でも、それだけだろうか。

 ガダルカナル島はソロモン諸島の主島で、北部のホニアラが首都だ。

ソロモン諸島といえば、ソロモン沖海戦も知られる。ソロモン諸島周辺で日本海軍と連合軍の死闘が繰り広げられた。一九四二年八月八日~九日のサボ島沖海戦と、八月二四日の東部ソロモン海戦が有名だが、ルンガ沖海戦も続く。このためソロモン諸島海域、特にルンガ岬手前には数多くの艦船が沈没したまま眠っている。ダイバーにとっては最高のスポットとなっている。

 ガダルカナル島には「地獄の門」「アウステン山」「血まみれの丘」「タンベア」「エスペランサ岬」などに激戦の跡地がある。ホニアラでタクシーを雇って、地獄の門やタンベアを一日でまわってみた。

 ホニアラ東部の海岸で上陸作戦が戦われた。猛烈な機銃掃射で日本軍をなぎ倒した米軍だが、撃っても撃っても、次から次へとバンザイ突撃してくる日本軍に音を上げたという。まるで生き地獄なので地獄の門と呼ばれた海岸に、今は何もない。忘れ去られた小さな入り江だ。

 アウステン山麓のヘンダーソン空港争奪戦は文字通りの死闘となった。山の斜面の草むらに潜んで敵の視線をかいくぐりながらの戦闘だ。結局、数知れぬ日本兵がここで飢え死にした。丘の頂上に「ガ島戦没者慰霊碑」が建てられている。アウステン山には「平和公園」とも称する慰霊碑と像が建立されている。でも、なぜか、不思議な気がする。

 いったん激突を回避して西部に展開した日本軍はタンベア海岸やエスペランサ岬に出たが、ほとんどがマラリアに倒れ、死者が続出した。世界有数のマラリア地帯なのだ。まさに犬死だ。もとより日本兵に人権などなかった。

ホニアラからタンベアは地図の上ではそう遠くないが、舗装道路はなく、砂利道や泥道を、ジャングルを越えていく。タンベアにも慰霊碑がある。

 帰路につく前に日が暮れてしまった。帰りはジャングルの真っ暗闇をタクシーで駆け抜けたが、泥道にタイヤがスリップするたびに降りて後ろから車を押す羽目になった。世界有数のマラリア地帯で、全身、蚊に刺されてほうほうの体で帰ってきた。

 アウステン山にもタンベアにも日本軍慰霊碑がある。激戦地となった各地に慰霊碑がある。サイパンにも、タラワにも、マキンにもあるという。民間人が建立したので正確にはわからないが、厚労省が把握しているだけでもアジア太平洋地域に一六〇〇ほどあるそうだ。――でも、何かおかしくないか。

 第一、「死んだら九段下で会おう」、じゃなかったのか。「英霊」は靖国神社に還ったのじゃないのか。それなら現地に日本兵の霊はいない。残っていたら、悪霊だろう。そこに慰霊碑を建ててどうする。

戦争神社靖国

 靖国神社の思想は、天皇制軍国主義そのものだ。安上がりの国民を使い捨てにするだけではなく、植民地主義を支える思想である。抵抗する者には徹底した殺戮と弾圧の嵐となるが、服属する者には「大御心」からの恩恵が下賜される。陛下のために死んだ者には靖国への合祀が保証される。次の戦争のために。

 ガ島をはじめとするアジア太平洋各地の島や海に散った日本軍兵士は、御国のために戦った「英霊」として靖国に合祀される。ニューギニア、キリバスのタラワ・マキン、パラオのペリリュー島、硫黄島・・・至るところに激戦の跡があるが、「英霊」は靖国に還ったはずだ。

 ところが各地に日本軍慰霊碑が建立されている。日本政府ではなく、ほとんどが旧軍人や遺族など民間人が立てたものだ。サイパンにはずらりと多数の慰霊碑が並んでいる。部隊ごとに、あるいは都道府県ごとに、建てたからだ。

 いくつもの疑問がある。

 第一に、「英霊」は靖国に還っているのに、なぜ南太平洋に一六〇〇もの慰霊碑なのか。遥かなる南太平洋の地、ジャングルを超えてようやくたどり着くような場所に、なぜわざわざ慰霊碑なのか。誰も靖国の思想など信じてはいないのだろうか。無論、慰霊碑はもともと死者のためではなく、生者のために建てるものだ。戦友や家族が落命した地を訪れて慰霊を行いたいという「自然」な感情によるのかもしれない。

 第二に、日本人はなぜ日本人の慰霊碑だけを建てるのか。アジア太平洋各地で落命したのは、日本軍人だけではない。おびただしい朝鮮人が軍属として派遣され、各地で落命している。タラワ島では二〇〇〇名とも言われる。当時は日本人だったという理由をつけて、遺族の思いを踏みにじって靖国に祭り上げながら、日本人は日本人の慰霊碑だけを建てる。ガダルカナルにもサイパンにも、朝鮮人軍属の慰霊碑を見ることがない。かろうじてタラワ島のベシオに朝鮮人軍属の慰霊碑がある。在日朝鮮人のタラワ・マキン島同胞犠牲者遺族会の建立だ。一部の日本人も協力したとはいえ。

 さらに言えば、旧軍人や遺族などによる遺骨収集団のいかがわしさだ。遺骨収集団には厚生省(現・厚労省)が直接手を出している。太平洋諸島における遺骨収集に際して、日本人の遺骨と朝鮮人の遺骨をどうやって区別し、判定したのだろうか。日本各地の寺院などには強制連行・強制労働された朝鮮人の遺骨が保管されてきた。きちんと保管し慰霊を行ってきた例もあるが、多くは杜撰な状態だった。朝鮮人遺骨の返還が行われるようになったのは、ごく最近のことだ。アジア太平洋ではどうか。遺骨窃盗団ではないのか。

 第三に、六〇年もの歳月が流れたため、旧軍人はもとより遺族も高齢化して、現地訪問団はどんどん減少している。悪路難路を越えて訪れるのはごく僅かの人々に過ぎない。そうなると、一六〇〇もの慰霊碑は、まともな管理もされず、単なる迷惑施設として残ることになる。

日本軍と戦った英雄像

 日本軍慰霊碑の多くはいまやろくな管理体制もなしに、アジア太平洋の各地に放置されようとしている。現地の人々には迷惑施設でしかないだろう。

 ここまで考えてくると、参考になる二つの慰霊碑に気づく。

 まず、ガダルカナルのアウステン山にある米軍慰霊碑だ。ソロモン沖海戦でも、アウステン山でも、地獄の門でも、多数の米軍兵士が斃れた。後の大統領ジョン・F・ケネディもここで危うく命を落とすところを現地の人々に救われた話は有名だ。アウステン山の高台にある米軍慰霊碑は小さな公園となっている。

 日本人は日本人の慰霊碑を建て、アメリカ人はアメリカ人の慰霊碑を建てた。しかし、明らかな違いがある。米軍慰霊碑はきちんと管理されている。現地の人物が依頼を受けて管理人となり、朝夕に門の開閉を行う。訪問者には記帳してもらい、記録を残している。そして昼間は星条旗が風になびいている。清潔に掃除されていて、爽やかな気持ちで立つと、眼下にホニアラの海がキラキラと輝いている。その海に米軍艦船も眠っている。

 アウステン山の日本軍慰霊碑は白亜のモニュメントだが、ふだんは落書きだらけである。銘板も外されている。門塀もなく、管理がなされていない。日本から慰霊団が訪れるときにはきちんと掃除し、落書きも消されるのだろうが、いつまで続くことやら。

 現地の人々のことを考えてみよう。日本軍人の回想録を読むと、南洋の島々で日本軍と連合軍が戦った話ばかりである。しかし、無人島だったわけではない。現地の人々を巻き添えにした戦争だった。

 故郷の島をめちゃくちゃに破壊されたパラオの人々は日本に補償要求を出していたが、無視されたままである。赤道直下のトゥヴァルにも一度だけ日本軍による空襲があり、一人亡くなっているが補償はない。ナウルは日本軍に占領され、多数の人々がトラック島に強制移送され、甚大な被害を受けた。逆にバナバ島(キリバス共和国)の人々がナウルやフィジーに強制移送され、共同体が崩壊した。ポナペでもロタでもオーシャン諸島でも、至るところで現地人が虐殺されている。でも、日本人にとって、そんなことはどうでもいいことだ。太平洋諸島の人間をいくら殺そうが気にする必要はない――。

 南太平洋大学が調査し、出版した『大量死――ソロモン諸島人は第二次大戦を記憶する』には、ソロモン諸島人が日本軍と戦った証言が収録されている。ウィリアム・ベネットとジョージ・マエラは戦争英雄として有名だ。

 ベネットは、一九二〇年、サンタイザベル島のキア村生まれ。父親はニュージーランド人、母親がソロモン人。ソロモン行政区ドナルド・ケネディ隊第二指揮官として日本軍と戦った。サンジョルジ島のケバンガや、当時の首都ツラギや、セゲでの戦闘に加わった。

 マエラは、一九二四年生まれで、英軍ソロモン守備隊の一員として戦った。日本軍が村々から食料を強奪したこと、ジャングルの消耗戦を戦いぬいて生き延びたことが語られる。

 『大量死』によると、ガダルカナルでの死者は、日本軍一九〇〇〇人、米軍五〇〇〇人、ソロモン諸島人は不明であるという。誰も数えなかったのだ。

 首都ホニアラの中心に、一九八九年に建立された「ヴーザ像」がある。ジェイコブ・チャールズ・ヴーザ(一八九二年~一九八四年)は、米英連合軍に協力して日本軍と闘った現地部隊のリーダーである。ガダルカナルからブーゲンヴィルに至る戦線を闘いぬいた。ヴーザは手に斧を持って身構えながら、北の海を見据えている。日本軍は北からやってきたからである。英雄ヴーザが亡くなると、旧連合国がこの像を建立したのだ。今も花束に覆われている。

 日本は日本軍人の慰霊碑だけを建て、米英はソロモン諸島人の立派な銅像を建てる。この違いは、何か。

雑誌「イオ」2009年12月号

Sunday, January 02, 2011

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

2010年もばたばたと走り回っていましたが、年末年始はゆっくりのんびり読書でした。

大晦日は、『朝鮮学校高校無償化除外反対アンソロジー』を通して読みました。詩人・河津聖恵さんの呼びかけに始まって、79人の詩人・歌人たちが作品を提供して編まれた詩集です。部分的には何度も読んでいたのですが、全体を通して読んだのは初めてです。詩集を読むのはとても時間がかかります。法律専門書の方が早く読めたりします。一篇読むたびに頁を閉じて、あれこれ考えなくてはなりません。2010年、一番印象の深い1冊でした。

元旦。池田浩士編『逆徒 「大逆事件」の文学』(インパクト出版会)です。内山愚堂の「入獄紀念・無政府共産・革命」、森鴎外の「沈黙の塔」、徳富蘆花の「謀叛論」、平出修の「逆徒」など、読み応えがあります。非国民の作り方を論じてきた私は、秋水、すが、啄木などを除くと、あまり読んでいなかったので、大逆事件を、同時代人、とくに文学者がどう受け止めたかを中心に編まれている本書は、とても助かります。

http://www.jca.apc.org/~impact/cgi-bin/book_list.cgi?mode=page&key=gyakuto

生田勝義『人間の安全と刑法』(法律文化社)。社会科学としての刑法学を自覚的に追求してきた著者の現代刑法批判です。「国家の安全」「国際社会の安全」に加えて、新たに展開された「人間の安全」(人間の安全保障)が現代刑法をどのように変容させたかが中心論点で、「人間の安全」といっても、個人の自由や権利ではなく、実際には国家・社会から見た「人間の安全」のことであり、刑罰による社会構築が限界を露呈していることを厳しく批判しています。

http://hou-bun.co.jp/cgi-bin/search/detail.cgi?c=ISBN978-4-589-03303-1&q=search&genre=&author=&bookname=&keyword=%90%b6%93c%8f%9f%8b%60&y1=&m1=&y2=&m2=&base=search

2日。井上ひさし『井上ひさし全芝居その七』(新潮社)。「夢の裂け目」「夢の泪」「円生と志ん生」「箱根強羅ホテル」「私は誰でしょう」「組曲虐殺」など11作品。朝から夜まで井上ワールドでした。私が実際に観たのは「夢の裂け目」だけです。もう10年前になります。戦争犯罪論研究者としては、東京裁判三部作は全部見たかったのですが、日程の都合やチケットがとれなくて1つだけ。井上ひさし絶筆となった「組曲虐殺」は非国民代表の小林多喜二。「これからは9条を守る運動ではなく、平和をつくる運動を。だから無防備地域宣言運動だ」と喝破された井上ひさしさん。次は沖縄をテーマにするはずだったそうです。ぜひ書いてほしかったのに。

本日3日。金杭『帝国日本の閾――生と死のはざまに見る』(岩波書店)を読んでいるところです。著者は1973年生まれの韓国人で高麗大学准教授、政治思想・日本思想史研究者で、広松渉、アガンベン、カール・シュミットを韓国語に翻訳しているそうです。本書は2008年に東京大学に提出した論文で、本書には高橋哲哉さんと松浦寿輝さんの推薦文がついているという、日本への豪華デビュー。本書は、丸山真男、小林秀雄などの「内部の思想」を、近現代日本の思想の特質(限界)として抉り出す試みです。第一部を読んだだけですが、福沢諭吉と丸山真男を主対象とする考察の中で、安川寿之輔さんへの言及がまったくありません。著書の存在すら示していません。不勉強なのか、わざと無視したのか。いずれにせよ、これではダメです。第二部以下を読む気力が半分失われそう。

http://www.iwanami.co.jp/search/index.html

参考)安川寿之輔さんの関連著作『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、2000年)、『福沢諭吉と丸山真男』(高文研、2003年)、『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研、2006年)は、論壇だけでなく、ひじょうに話題となり、論争を巻き起こした著作です。昨年末には「週刊金曜日」でもミニ論争がありました(中身はくだらない)。ところが、ここ数年出された福沢諭吉研究や丸山真男研究の中には、安川さんの著作を一切無視して、あたかも存在しないかのごとく扱っているものがいくつかあります。「意地でも引用しない」という姿勢が、逆に、安川さんの問題提起の意義と影響力を示しているのですが。

本日これから読むのは、河津聖恵『ルリアンス――他者と共にある詩』(思潮社)。上記アンソロジーの提唱者の誌論集です。

今年の私の主たるテーマは、もちろん従来どおりの非国民、無防備地域、ピースゾーン、ヘイト・クライム、刑事人権論ですが、とくに前半は、国連人権理事会で行われている平和的生存権の議論が重要テーマになります。