Wednesday, June 23, 2010

吉川経夫の刑法学

無罪!08-08/法の廃墟(24)

吉川経夫の刑法学(一)

信念の法学徒

 「待ち合わせの場所に現れた先生は、見るからにいかめしい顔のその上に、体つきまでガチガチに四角張った方でした。まるで六法全書が服を着て出てきたように思われました。恐る恐る資料を差し出して説明すると、表情も変えずに黙りこくって聞いて、最後にボソリと『一週間後に返事する』とのなんともそっけないお言葉。今思うと申し訳ないのですが、これはダメだとあきらめたのです。/ところがところが! 一週間後、顔を合わせた瞬間に開口一番、『やりましょう』の短いけれど、断固とした言葉を先生は返されたのでした。これには驚きました。そして感動しました。なぜなら、私の前で能弁をふるった学者が結局は『証言台には立てない』と逃げる姿を何度も目にしていたからです。吉川先生は、そうした饒舌とはほど遠い、しかし法学徒としての信念を本当に貫く方なのだと強く思いました」(須賀陽子「信念の人――吉川経夫先生の思い出」本紙一八号、二〇〇六年)。

 須賀陽子が「まるで六法全書が服を着て」と古典的な比喩で形容した信念の法学徒・吉川経夫先生(きつかわ・つねお[以下敬称略])は、二〇〇六年八月三一日に永眠した。須賀の比喩は吉川の一面を実に見事に表現しているが、本稿が後に示すように、それはあくまでも一面である。吉川の人となりも、学問的業績の全貌も、いまだ誰一人明らかにしえていないのではないか。

 「端整」と評された客観主義刑法理論体系を樹立し、戦後の刑法改正作業のほとんどすべてに関与し、国家主義的刑法「改正」を一貫して批判し、理論と実践の総力を挙げて改悪を阻止し、次々と登場した悪法にも終始一貫して反対の先陣を切り、刑事立法論の「権威」的地位を長年にわたって維持し続けた吉川は、文字通り「刑法学の泰斗」であった。権威を嫌った吉川であるが、このように表現しても誤りではないだろう。

 吉川は、一九二四年、京都生まれ。一九三六年、府立一中(現日比谷高校)入学、四二年、京都一中(現洛北高校)卒業、三高を経て、四四年、東京帝国大学法学部入学、戦後四六年、京都帝国大学に編入学、四九年、卒業と同時に大学院特別研究生となり、助手を経て、五二年、法政大学法学部助教授となった。東京と京都を往復する青春であった。法政大学教授定年後は名誉教授を贈られた。五六年、刑法改正準備会委員に就任、六三年、法制審第一特別部会幹事、六八年、日本刑法学会理事、七六年、同常任理事(~八五年まで)を務めた。

 代表的な単著として、『刑法総論』(法文社、一九五四年)、『刑法総論』(法律文化社、六四年)、『刑事立法批判の論点』(法律文化社、六七年)、『刑法改正を考える』(実業之日本社、七四年)、『刑法改正と人権』(法律文化社、七六年)、『刑法改正二三講』(日本評論社、七九年)、『刑法各論』(法律文化社、八二年)、『三訂刑法総論』(法律文化社、八九年)などがある。定年後に、『吉川経夫著作選集・全五巻』(法律文化社、二〇〇〇年~〇一年)、同『補巻』(法律文化社、〇三年)を自ら編纂した。さらに『刑事法廷証言録』(法律文化社、〇五年)を出版している。翻訳には、『フランス刑事訴訟法典』(法務資料、五九年)、マルク・アンセル『新社会防衛論』(法務資料、六一年)、『ドイツ刑法改正資料』(法務資料、六八年)、『ボアソナード答問録』(法政大学出版局、七八年)、『フランス刑事訴訟法典』(法務資料、七八年)などがある。

東京刑事法研究会

 「先生は、刑法学界や社会の民主化のためにいち早く立ち上がり、『東京刑事法研究会』を創設された。その創設メンバーには、先生のほかに、風早八十二、熊倉武、中田直人、関力等の錚々たる諸先生が加わっていた。今では、当日本民主法律家協会の理事長である中田直人先生が最後のひとりとなってしまった。先生は、この刑事法研究会を中心とした活動において、新規刑事立法が民主的な人権を抑圧するものである場合には、強く異を唱え、理論と実践の結合を模索されていた」(足立昌勝「吉川経夫先生を偲んで」『法と民主主義』四一一号、二〇〇六年)。

 吉川は、小野清一郎(東京大学名誉教授、法務省顧問)の勧誘により刑法改正準備会や法制審刑事法特別部会に属したが、戦前の刑法改正仮案をもとに審議が進められようとしたのに驚き、これに反対するとともに、事実を刑事法学者に知らせ、研究会を立ち上げて理論的な闘いに備えたのであった。

 東京刑事法研究会初期のメンバーは、風早八十二(弁護士、ベッカリーア『犯罪と刑罰』翻訳者)、熊倉武(静岡大学教授)、木田純一(愛知大学教授)、中田直人(弁護士、後に茨城大学教授・関東学院大学教授)、関力(大東文化大学教授)、伊達秋雄(元裁判官、法政大学教授、米軍駐留違憲・伊達判決で知られる)、桜木澄和(中央大学教授)などであった(肩書は必ずしも当時のものではない)。

研究会は多くの刑事法学者を輩出したが、ぼくが参加した時期には、村井敏邦(現・龍谷大学教授)、足立昌勝(関東学院大学教授)、新倉修(青山学院大学教授)。ぼくと同年代では、大学院生の佐々木光明(現・神戸学院大学教授)、楠本孝(三重短期大学教授)、宮本弘典(関東学院大学教授)などが中心であった。吉川は晩年までほとんど毎回のように出席して、若手研究者の報告を聞き、さまざまなアドバイスを与えた。時には厳しい叱責もあったが、親子ほども年齢の違うぼくらに対しては、かなり無理して甘い言葉を使うようにしていたようだ。

 「先生は、若くして、刑法改正準備草案を作成する準備委員となり、若い感覚で刑法改正の実務に当たり、その仕事は、法制審議会刑事法特別部会の幹事として引き継がれている。/又、理論的側面の実務的反映にも意を注がれていた。東京大学で開催されていた『刑事判例研究会』において、会員の誰もが敬遠した違憲立法判断に関わる憲法事案についての評論をいち早く行った。それは、その後、憲法訴訟、労働訴訟あるいは弾圧訴訟における証人として実践化されることになった。/さらに、すでに経験されていた刑法改正についても、日弁連や東京弁護士会でさまざまな形で意見を述べ、刑法改正のあり方を弁護士諸氏とともに深く追求されていた。特に、改正刑法草案が法務大臣に答申された一九七四年には、日弁連に刑法『改正』阻止実行委員会が結成され、吉川先生は、当初からその理論的指導者として活躍されていた」(足立昌勝)。

無罪!08-10/法の廃墟(25)

吉川経夫の刑法学(二)

罪刑法定主義

 吉川経夫著作選集第2巻は「罪刑法定主義と刑法理論」という表題の下に、第一部「論説」として一一本の論考を収めるとともに、第二部「座談会」に吉川が参加した四つの座談会記録、第三部「翻訳」に三本の翻訳を収録している。刑法学者としての生涯を刑法改正はじめ刑事立法問題に注ぎ込み、数々の悪法を阻止し、成立した悪法の解釈を限定させ運用を監視し続けた吉川の刑法理論の特質は、第一に壮麗な客観主義刑法理論体系であり、第二にその骨幹としての罪刑法定主義であった。(なお、ぼくは「罪刑法定原則」という語を用い、自分の言葉として罪刑法定主義を用いないが、一般に通有しているうえ、吉川もこの語を用いているので、以下では罪刑法定主義を用いる。)

 吉川の罪刑法定主議論の集大成となった論文が「日本における罪刑法定主義の沿革」(東京大学社会科学研究所編『基本的人権4』一九六八年)であり、その後の罪刑法定主義論において圧倒的な影響力を誇った。

 だが、吉川は、それ以前にも重要論文を公表している。「刑法解釈の要点」(『国民の法の解釈』一九五四年)、「刑法解釈の超法規化」(『法学志林』五二巻三・四号、一九五五年)、「構成要件論」(『刑法学入門』一九五七年)、「罪刑法定主義」(『新法学講座第四巻』一九六二年)などである。刑法体系書『刑法総論』(初版一九六三年)における罪刑法定主義の論述が類書に比して遥かに多いことも、吉川が自負している通りである。著作選集第4巻「最高裁刑事判例批判」に収録された判例研究にも罪刑法定主議論が一貫している。このことを確認したうえで「日本における罪刑法定主義の沿革」をごく簡潔に見てみよう。

 「改正刑法準備草案理由書」(一九六一年)において、小野清一郎は「戦前・戦後を通じて、罪刑法定主義そのものは未だかつて争われたことはない」と歴史の偽造に励んだ。これに対して疑問を差し向ける吉川は、刑法史を踏査する。明治初年の「仮刑律」「新律綱領」などに罪刑法定主義の思想は取り入れられなかった。旧刑法二条(一八八〇年)にはボアソナードの影響の下に罪刑法定の規定が設けられたが「形骸を模したにすぎない」。数々の特別刑法によって人権保障を「画餅に帰せしめてしまった」。現行刑法(一九〇八年)からは旧刑法二条に相当する条項さえ削除された。新派刑法学の隆盛のもと極めてあいまいな構成要件が設定され、法定刑の枠も非常に拡大させられた。新派刑法学のイデオローグ牧野英一は罪刑法定主義攻撃の先頭に立った。治安維持法や戦時治安法については言うまでもない。かくして吉川は述べる。「戦後に至るまでわが国においては、罪刑法定主義の原則は、真の意味において確立したことはなかったと断言することも、決して奇矯の言辞を弄するものとはいえないであろう。」

著作選集「第2巻まえがき」で、吉川は、自由主義刑法学の代表であった恩師・滝川幸辰でさえ牧野に追随して類推許容論を唱えていたと批判している。

三権の制約原理

 日本国憲法三一条、三九条などは罪刑法定主義を基本原理として採用した。それでは、罪刑法定主義は貫徹されているであろうか。吉川は、刑罰法規の制定・運用にかかわる三権に即して検討する。①立法権に対する制約原理として、内乱罪のせん動、破壊活動防止法、国家公務員法の争議行為あおり処罰規定などの不合理を指摘する。②行政権に対する制約については、地方自治法の委任による公安条例を批判する。③司法権に対する制約については、類推解釈による処罰や、共謀共同正犯などの超法規的運用を指摘する。それゆえ、吉川は「日本国憲法のもとにおいても、罪刑法定主義がまったく実現をみているものとは、とうてい称し難い」と結論づける。法制審議会刑事法特別部会の審議(一九六五年)において、罪刑法定主義明文規定新設の提案が否定されたことは象徴的であった。

 ここには罪刑法定主義概念そのものをめぐる理論的対抗が潜んでいる。

 一般的な刑法教科書には、ドイツ刑法学の父フォイエルバハの「法律なければ犯罪なし。犯罪なければ刑罰なし」の原則が引用され、罪刑法定主義は近代刑法の基本原則であるとされている。今日、罪刑法定主義を否定する刑法学者はまずいない。誰もが罪刑法定主義者だ。

しかし、「犯罪なければ刑罰なし」と言うのであれば、治安維持法も破壊活動防止法も立派な法律であるということになってしまう。ナチス・ドイツのヒトラーも合法的に政権を獲得して、法律に基づいて政策を推進したことになる。「悪法も法なり」の悪しき法実証主義を否定して、吉川は「罪刑法定主義」(『新法学講座第四巻』)において、「罪刑法定主義を貫徹するために、最小限度要求されなければならない法命題」を掲げた。①刑法の法源の制限。慣習法、判例法(典型は共謀共同正犯)の否定。無限定な委任立法の否定。白地刑罰法規の否定。②刑罰法規の適正。実質的な処罰の必要性と根拠の要請。構成要件の明確性。法定刑の適正さ。③遡及処罰の禁止。④類推解釈の禁止。吉川は「罪刑法定主義」論を次のように締めくくる。「国民が裁判批判による厳しい監視を怠るならば、ことに今後に予想される治安立法の適用にあたって、前記のように不当な類推がまぎれ込むことは避け難いであろう。」

かつて治安維持法批判をして治安維持法によって弾圧された風早八十二は「罪刑法定主義を復活せよ!」と叫んだ。風早とともに東京刑事法研究会を立ち上げた吉川の罪刑法定主義理解は、風早と同質のものである。日本国憲法が保障する基本的人権と自由の保障原理としての罪刑法定主義、三権の制約原理としての罪刑法定主義である。だからこそ、国民による裁判批判がポイントとなるのだ。この理解をより深化させたのが桜木澄人や横山晃一郎であった。

あえて図式化すると次のようになる。

罪刑法定主義A――「法律なければ犯罪なし」の形式主義的理解。

罪刑法定主義B――三権の制約原理としての理解。

戦後刑法学の罪刑法定主義理解は、AからBへの移行と逆行の狭間にあって、変遷してきたと言ってよいだろう。実体的デュー・プロセス論や法益論が理論研究において重要な位置を占めたのも、少なくとも一九八〇年代までは性急な刑事立法に一定の箍がはめられていたのも、このためである。吉川は、刑事立法論、判例批判、刑法史研究のすべてを通じて、後者Bの概念把握を徹底することに力を注いだ。

無罪!08-12/法の廃墟(26)

吉川経夫の刑法学(三)

治安法批判

 吉川経夫の刑法学を語る場合、客観主義刑法理論の構築、罪刑法定主義の歴史と理論、刑法改正問題への取組みとともに、特筆すべきは治安法批判の理論と実践である。これらは密接不可分の関係で吉川刑法学を形成している。

 吉川の治安法批判は、最初期の「西ドイツの治安立法」(法学志林五一巻一号、一九五一年)、「暴力取締法について」(法律時報三〇巻四号、一九五八年)、警職法批判の諸論文、「沖縄『新集成刑法』の問題点」(法律時報三一巻九号)、政暴法案批判の諸論文から、『著作選集補巻・憲法と治安刑法』(法律文化社、二〇〇三年)まで、半世紀を超える歴史を有する。罪刑法定主議や刑法改正に関する論考のなかでも数々の治安法批判を行っている。その中核に位置するのは『治安と人権』([小田中聰樹との共著]法律文化社、一九七四年)であろう。

 歴史学や憲法学における治安法研究とともに、刑法学における風早八十二、宮内裕、中山研一、小田中聰樹と続く治安法批判は、近現代日本国家の本質に迫る理論と実践であった。治安法批判は、特定の治安法に対する批判と言うだけではなく、市民刑法分野への治安主義の浸透に対する監視も含まれる。古典的な治安法だけではなく、機能的治安法や、最近では市民的要求に基づく治安主義が蔓延している。

 それゆえ、吉川の治安法批判は、第一に刑法改正における治安主義との闘いとして具体化された。『刑事立法批判の論点』(一九六七年)、『刑法改正を考える』(一九七四年)、『刑法改正と人権』(一九七六年)、『刑法改正23講』(一九七九年)、『著作選集第1巻・刑法「改正」と人権[続]』(二〇〇〇年)はいずれも刑法改正批判であると同時に治安法批判であった。「不敬罪の系譜と刑法改正論議」「刑法における国家秘密の保護」「改正刑法草案とモラリズム」といった論考はその典型である。

 第二に、治安法批判は、実体法の微細な局面にまで紛れ込んでくる治安主義の点検として具体化される。例えば、「執行猶予と宣告猶予」(初出・平場・平野編『刑法改正の研究1総則』)のような論考でも、改正作業の「刑事政策的消極主義」批判を出発点にしながら、執行猶予の要件の厳格化は「短期自由刑のいわれなき増大をもたらす」とし、資格制限の排除、執行猶予の取り消し、判決の宣告猶予についても、検察権限の濫用をチェックする視点が明確である。

 第三に、治安法や治安事件の批判的検討は、共謀共同正犯、警職法、政暴法案、司法反動化、菅生事件、松川事件、砂川事件、ポポロ事件、凶器準備集合罪、飯田橋事件、恵庭事件をはじめ、さまざまな機会に積極的に発言し、『治安と人権』によって一応のまとめをしている。

 第四に、保安処分に関する論述である。刑法改正作業の最大の論点のひとつが保安処分であったことはよく知られる。吉川は論文「保安処分制度に現れた刑法思想」(法学志林六九巻二号、一九七二年)を序章とする著作を執筆する予定だったが、刑法改正作業をめぐる政治的対立など事態の急転によって著書出版を断念した。吉川の保安処分関連論文は後に『著作選集第3巻・保安処分立法の諸問題』(二〇〇一年)にまとめられた。三〇年の空白を経て、刑法理論状況も医学会の状況も大幅に変化し、人権思想も大きく発展したので、吉川の保安処分論が今日の刑法理論や実践に影響を与えることはないと思われるが、当時の文脈に即して再読するべき価値のある諸論文である。

 第五に、法廷証言である。吉川最後の著書となった『刑事法廷証言録』(法律文化社、二〇〇五年)には、国労労働者に対する刑事弾圧・警職法福島駅事件、群馬県教組勤評反対闘争事件、外務省公電漏洩が問題とされた沖縄密約事件、武蔵野爆発物取締罰則違反事件、太田立て看板事件における法廷証言、および「君が代」伴奏命令拒否事件に対する被処分者のための意見書が収録されている。

反戦平和の刑法学

 「信念の法学徒」であり「刑法学の泰斗」であった吉川は、専門の刑法学者として非常に禁欲的な姿勢を保持していた。反戦平和を願い、刑法学において反戦平和の理論を構築することに努力を傾注した。

己の持ち場において徹底的に厳しい論陣を張ったが、憲法分野に積極的に出て行って発言することは、決して多かったわけではない。憲法問題が刑事法のテーマに関連した時にはじめて、刑法学の窓から一言するスタイルである。菅生事件、ポポロ事件、恵庭事件、労働基本権裁判をはじめさまざまな事件についての発言も、刑法学の窓口を設定した上で発言することが多かった。

 しかし、それは吉川刑法学全体の中での比重の問題であって、実際の発言は多彩な憲法問題に及んでいる。『著作選集第4巻・最高裁刑事判例批判』(二〇〇一年)に収録された三九本の判例研究を見ると、表現の自由、労働基本権、学テ事件、公安条例など憲法問題に関連する事例を多く取り上げてきたことがわかる。『同第5巻・刑事裁判の諸論点』(二〇〇一年)の諸論文を見ても、憲法第九条を柱とした反戦平和の刑法学を目指していたことがよくわかる。

そうした刑法学の半生を締めくくった大論文が「『憲法調査会』に望む」(法学志林九七巻二号、二〇〇〇年、『著作選集補巻・憲法と治安刑法』に収録)であった。

一九九九年の新ガイドライン以後の「悪法ラッシュ」に対する厳しい批判を前提に、憲法論に踏み込んだ。「私は、これまで、たとえ些細な点に関するものであろうとも、論が憲法改正に及ぶことを慎重に避けてきた。それが政府・与党によって、憲法改悪のための手がかりとされることを虞れたからである」、「しかし今や、小渕(当時の首相)は、公然と憲法改悪への大きな第一歩をふみ出した。こうなった以上、平和を希求する法律家の一人として、もはや沈黙を守っているわけにはゆかない」とする吉川は、「第一点は、論ずるまでもなく、天皇制の廃止である」と切り込む。続いて、国旗・国歌法の廃止・改正(新国歌はジョン・レノンの「イマジン」でもよいとまで言う)、首相のリコール制の導入、大臣という名称の廃止、請願という言葉の是正、裁判官の任命方法の改正、死刑の廃止、刑事手続きの改正について論及している。

 以上、吉川刑法学の一端を瞥見してきたにすぎないが、刑法学への志と平和への希求に貫かれた批判的刑法学の輝きに触れることができたと思う。

Tuesday, June 01, 2010

刑法イデオロギーの解体と溶解(宮本弘典さんの著作をめぐって)

刑法イデオロギーの解体と溶解(「救援」490・491号、2010年2月・3月)

啓蒙の啓蒙

 「啓蒙主義的刑事法改革は、審問手続を解体し、刑事裁判から拷問を放逐した。無制約な裁量権を行使する『万能の裁判官』はいまや法律による厳格な拘束を受け、無論のこと、身体的な責苦の暴力はもはや不法の歴史となるべきものとされたのである。旧来の法制度とそれによる裁判方式が否定され、カルプツォフもまた、偉大な法学者としての名声と(いわれなき)汚名を歴史に残しつつ、その影響力を失うことになった。」

 著者が長年にわたって書き継いできた論考を集大成した宮本弘典『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房朔、二〇〇九年)は、刑事法の歴史と論理への接近方法に転回をもたらし、国家刑罰権に貫通する正統化イデオロギーを自壊させながら、刑事法批判の可能性に沃野を拓こうとする。風早八十二、櫻木澄和、足立昌勝、内田博史等々の名に代表される刑法史研究や法史学に学びつつも、それらとは一線を画して、颯爽と叛旗を翻す。理由は明快だ。

刑法史の展開過程を追跡して歴史の弁証法を探求しようとする刑法史研究は、対象の歴史の中から刑法の論理を探り当て、再構築して、近代法原則を描き出そうと試みてきた。経済史的研究であれ文化史的研究であれ、刑法とそれを支える構造(経済構造、社会構造、または文化意識構造)の総体の分析を通じて、歴史の発展段階に即した刑法理論を打ち出し、あるいはそれを批判してきた。他方、法学的世界観の枠内に踏みとどまる歴史研究の場合も、たとえば法概念史という形で、それぞれの時代における概念の論理的展開を諸学説の対抗と影響関係の中から浮上させる方法をとってきた。宮本は、これらの方法を否定も肯定もしないが、そのままの流儀ではなく、解きほぐし、結び合わせ、時には強引に捩り、捻るようにして独自の手法のそこここに編み込んで見せる。刑法学のためにではなく、<反-刑法学>をめざして。

 啓蒙主義的刑事法改革の研究には長い歴史があり、蓄積がある。階級史観的研究、もろもろの構造論的研究、概念史研究、学者人物研究といった多彩なそれは、宮本によって解体され、分類され、別異に彩色され、新しいラベルを貼られる。拷問の廃止や死刑の制限や各種の異端犯罪の除外や、さまざまな啓蒙主義による近代化や人間化や人道化は、確認されつつも実は括弧に括られる。

そのために宮本が用意した舞台は、フリードリヒのプロイセンでもフォイエルバハのバイエルンでもない。カロリーナ刑事法典、カルプツォフ、魔女狩り、シュペー、ソンネンフェルスといった名前を与えられた役者たちが宮本の舞台で演じるのは、前期啓蒙から後期啓蒙に至るドイツ、特にオーストリアにおける憤怒と悔恨の悲喜劇である。啓蒙から啓蒙に至る精神の決して鮮やかならざる軌跡である。

交響する公共

 「啓蒙主義的刑事法改革による審問手続の克服が『真の進歩』であるとすると、果たして『この進歩の意義』をどう解するべきだろうか。審問手続は、『正義の愛好よりして、かつ、公共の利益のため』(カロリーナ第一〇四条)の、『法(正義)と衡平にもっとも適合したる審理』(同序文)であった。アウトサイダーたる『ラントに害なす者共』であれ、カルプツォフのいう人類=キリスト信仰者の敵としての『魔女』であれ、刑事裁判はこれらの敵のもたらす災厄の真相を解明し、これら敵に『正当な裁き』を与える場であった。現在我われの眼前にある刑事裁判は、果たしてこれと異なる論理と心理によって営まれているだろうか。」

  宮本のカルプツォフは、カロリーナと魔女狩りの時代を啓蒙の精神に貫かれて前進しながら後退する。蛇行し、脱線し、応急修理の繰り返しに悩まされながら、それでも確かに前進する意欲を失うことはない。隅から隅まで時代に刻印された刑法ではなく、己の固有名詞を冠した刑法を樹立する営みは、進歩の反映であるとともに反逆の痕跡を残しかねない。狭間で引き裂かれるようにカルプツォフは魔女狩りの歴史に参戦させられる。藤本幸二『ドイツ刑事法の啓蒙主義的改革とPoena Extraordinaria』(国際書院、二〇〇六年)のカルプツォフが啓蒙の使徒を演じるのに対して、宮本のカルプツォフは啓蒙に自己否定を埋め込む役割を演じる。

舞台は廻る。役者は変わる。章立ても変わる。観客も変わる。異なる悲喜劇を演じるのはシュペーであり、ソンネンフェルスである。――果たしてカルプツォフとシュペーとソンネンフェルスは別人なのか、同一人物なのか。その答を宮本は記していないが、「ラントに害なす者共」と「魔女」が並記されているように、「真の進歩」「正義の愛好」「公共の利益」が交響する舞台の裾で行く手を阻まれるアウトサイダーたちの視野に何が映り、彼らの耳にいかなる楽章が響いているのかを考えれば答は明らかであろう。彼らの耳にもはや届かない楽章と言い直すべきだろうか。

 宮本と我われの「眼前にある刑事裁判」とは、言うまでもなく代用監獄、強制自白、長期勾留、人質司法といった名辞とともに語られてきたそれであるが、もしこれらの名辞を削除することができたとして、それでもなお、と宮本は続ける。構造論に支えられた大きな段階論だけでなく、諸現象の変化の積み重ねによる小さな段階論も含めて、その意義を認めつつも、段階論よりも、刑罰権イデオロギーの謎に迫る方法論的課題ゆえに、次のように結論付けられることになる。 

 「確かに刑事裁判のモードはその原風景を脱したかに見える。だが、刑事裁判が『敵』との闘争手段であり、国家/権力による正義と公共性の守護神であり続ける限り、そのアニムス・アニマとして、審問手続は刑事司法が胚胎せざるを得ない無意識であり続けるのだろう。刑事裁判の、したがってまた『正しい暴力』の根拠をなす法を批判することなく、その拘束をむしろ甘受して、カルプツォフは裁判官の裁量権限を拡大するとともに、具体的妥当性を有する判決を導くべく、審問手続の要件を整除した。(ドイツ)『刑法学の祖』のこの姿勢もまた刑事法学のアニムス・アニマであり、現在に続く刑事法学の『黙示録』なのだろうか。」

 召喚されているのはヨハネだろうか、それともコッポラだろうか。いずれにせよ「刑事司法が胚胎せざるを得ない無意識」への探訪が課題とされるのだから、従来の刑法史研究も解体せずにはいられない。それでは刑事司法の法意識論と無意識論の可能性はどこに見出されるのだろうか。

合意の強制/共生の強制

刑事法の歴史と論理への接近方法に転回をもたらし、国家刑罰権に貫通する正統化イデオロギーを自壊させながら、刑事法批判の可能性に沃野を拓こうとする宮本弘典『国家刑罰権正統化戦略の歴史と地平』(編集工房朔、二〇〇九年)は、現代日本の国家刑罰権をめぐるイデオロギー闘争の前面に躍り出る。

 「近時の国家刑罰権力の正統化戦略は、処遇イデオロギーの終焉という標語に明らかな通り、イデオロギー的正統化との訣別とともに、刑法システムが営むとされる『現実』の機能による正統化への移行が顕著になっている。その特質は、テクノクラシーに基づく政治支配の現実を反映し、経験的な批判を封殺することにあるが、理論的には啓蒙期の予防構想を越えて、むしろ前近代における刑法の道具的性格を強化する傾向をあらわにするものである。現に、一九七〇年代後半に始まった積極的特別予防(再社会化)理念の放棄と、それが益々加速化した一九九〇年代の積極的一般予防理論の台頭は、犯罪に即応する謙抑的な刑罰という啓蒙期の刑法像を放棄し、いわゆる『制圧(撲滅)立法』、更には『象徴的立法』ともいうべき刑事立法の活性化をもたらしている。刑法はいまや、予防的先制暴力の相貌を明らかにし、犯罪闘争が『国内の敵に対する戦争』と位置づけられることで、国家/権力の『友/敵原理』を貫徹する手段と化しつつある。」

 宮本が「国家刑罰権の現在」として設える舞台で同時並行上演されるシナリオは、警察権力による人権侵害的捜査やそれを名目とした政治弾圧でも、検察権力による政治・公安目的捜査でも、「権力の走狗のそのまた手先」と成り果てた裁判所による近代法原則破壊実務でもない。拷問や冤罪や死刑を研究対象に捉えてきた宮本は、これらも視野に入れてはいるが、それ以上に「国家刑罰権の現在」を体現している「共謀罪」を集中的に取り上げる。二〇〇九年七月の衆院解散により、提案から一五国会を経てついに解散に追い込んだ「共謀罪」の葬送行進曲でもある。「共謀罪」との闘いの先頭に立った宮本の主著に相応しい叙述が続く。

 同じ一つの廻り舞台で、まず上演されるのは「安全な社会」のパラドクスとしての、危機管理国家における統治の正統化戦略である。法務官僚らにより「外圧」を口実としてごり押し突破が図られた共謀罪の、刑事政策的合理性への批判を枚挙し、刑法理論への撹乱と矛盾が暴きだされる。第一主旋律は「合意の強制」のテクノロジーであり、「民主主義社会の安全といい、自由社会の安全といい、こうしたテクノロジーが貫徹される社会が『安全』なのだとしたら、それはまさにパラドクス以外の何ものでもない。刑法という暴力が、危機管理国家ないし予防国家の政治支配の道具としてそのイデオロギーを剥き出しにするとき、そこに現前するのは、自律と連帯・寛容と共生を根こそぎ否定する重武装国家・暴力国家・監視国家以外の何ものでもない」という。もっとも、「共生」の否定は別の形の共生の強制であるだろう。

必然としての国家テロル

 共謀罪検証の第二主旋律は「予防刑法の病理」である。共謀罪法案の孕む諸問題の中でも、刑法理論に標的を絞った理論的検討である。ここでは当初の政府・法務省案の問題点があまりに多かったことが指摘された上で、与党「修正」案がこれらの問題点をクリアしているかが問われる。第一に、対象団体の無限定性である。形式的には制限的にみえそうな修正案だが、予防刑法の全面化・日常化の論理はその制限を軽々と飛び越えてしまう。役者が脚本家も舞台監督も勝手に兼ねているから容易な話だ。第二に、共謀概念の無限定性と共謀独立処罰のイデオロギーである。融通無碍と批判された共謀概念を、謀議の具体的要件をふすことで、制限的にする試みである。しかし、判例と学説が積み上げてきた共謀共同正犯概念を見れば直ちに底が割れてしまう。「共謀独立処罰は、国家存立ないし権力中枢の危機に際しては、法が国家/権力を拘束する緊衣ではなく、むしろ権力による暴力を正当化する道具に転化することを示している。それは予防刑法という危機管理国家の暴力装置の必然的帰結である」。

 同じ主題を同じ舞台で、しかし、異なるシナリオと旋律の下に演じるために、次に配役されたのが反テロ=意思刑法である。共謀罪をめぐる動向の中から浮上してくる組織犯罪対策の問題点を追いかけ、「テロ等謀議罪」に至るクライマックスで、宮本は「ブッシュ・ドクトリン」「恐怖のグローバリゼーション」という地上の大魔王と格闘する。

「例外状態においては従って、むしろ国家によるテロリズムに対する恐怖こそが問題となる。権威主義国家と同様、市場国家としてのシステム危機管理国家もまた、安全の調達=セキュリティ保持のための暴力の所有と行使のそれへと退行し、刑法という国家テロルによる成員の忠誠と合意の強制という、刑法の原初的暴力性を顕わにせざるを得ない。そもそも(近代)国家は、暴力の独占を正統化し、同時に暴力を最も組織的に、最も効率的に行使する主体として自己形成してきたのであり、それゆえ、正しい暴力と正しからざる暴力の定義の権限をも独占するからである。国家/権力が自らの暴力を正統化し、またその暴力の所有と行使によって自らの存在を維持しようというとき、正しからざる暴力の脅威・恐怖を最大化し、自らの暴力をそれに対する予防対抗暴力と定義する。つまり、(対外的・対内的)安全保障としての国家テロルの必要性を主張するわけである。」

 ここに宮本刑法学のエッセンスが表現されている。

 第一に、発展段階論的な刑法把握では、近代刑法原則の成立とその変容・変質が語られるのに対して、宮本刑法学では、近代刑法そのものの本質暴露の過程が語られる。<初めに言葉ありき>と見事に交響する<初めに暴力ありき>。

 第二に、近代国家の同意調達システムとしての官僚的テクノロジーの分析。それゆえ、無秩序に肥大化した腐敗独裁権力の「暴力」ではなく、法の衣をまといながら法の衣を脱ぎ捨てる現代官僚主義の刑法換質が浮上する。最初から二人羽織の刑法実践に御用学者の三人羽織が次々と参入する。「二項対立的で排他的なアイデンティティ・ポリティクスは、それ自体『自らの正義』の僭称による暴力の拡散を招来する」。

 そうであれば、宮本刑法学はつねに<反-刑法学>となるべく運命付けられていたというべきだろう。

物語が終わり、主旋律が静かに終焉を迎え、幕が下りる、ぎりぎりその前に、廻り舞台のあちこちに置き去りにされ、宙吊りにされ、埋め込まれていた小道具たちが、舞台監督や役者の思惑を無視して舞台を所狭しと乱舞し始めるに違いない。監督も脚本家も役者も楽団員も立ち去って、なお煌々とした舞台にすっくと立ち上がって、「ここがロードスだ。跳んでみよ!」と<反-刑法学>が叫ぶ。