Monday, August 03, 2009

ヘイト・クライム(8)

2 “自己植民地主義”の確立・定着

 最近の日米関係を出発点として考えていきます。「九・一一」の後、「テロとの闘い」と称する「永久戦争」が強行されています。アフガニスタン攻撃、そしてイラク攻撃が二一世紀の平和を願う声を押しつぶしています。日本はアメリカの忠実な番犬、しかも尻尾を振るだけではなく、資金を提供する番犬としてひたすら忠誠を示しています。普通、資金を提供するのはご主人様のはずなのに。

 この間の米軍基地再編問題や基地移転費用問題を見ると、日米関係は「外交」とか「国際関係」とよばれる事態とはおよそ無関係だということがわかります。宗主国と植民地の関係という以外にこの現実を把握する方法はないのではないでしょうか。小泉純一郎首相は「日本総督」と肩書きを変えたほうが正しい。

 米兵犯罪の扱いを見ても、これは永年の間続いてきましたが、やはり日米関係は上下関係でしかなく、日本人はアメリカ人に比して「一人の人間」とは看做されていません。日本政府自身が日本人を一ランク下に位置づけているのですから、日本社会にもそうした意識が普及していきます。アメリカ人を一ランク上に位置づける社会は、日本人よりも下の人間を必要とします。在日中国人や朝鮮人が好都合な存在として呼び出されることになります。同時に、日本人の中にも細かなランク分けを持ち込みます。出身地、職業、性別から趣味や成績に至るさまざまな等級が定着します。「格差社会」という言葉が流行していますが、これは一貫してこの社会を規定してきたのであって、小泉改革によって生じた現象ではありません。

 昨年の「九・一一選挙」に見られる情報戦も、最近ではアメリカの改革要求を丸呑みしただけであることが明らかになっています。郵政改革や金融改革といっていますが、ただでさえアメリカの言いなり状態の日本経済をますますアメリカの従属下に置くための改革であり、その改革プランはワシントンでつくられ、東京で実行されているわけです。

 しかも、重要なことは、日本社会がこうした現実をおおむね「歓迎」していることです。アメリカの言いなりで、自分で判断する能力のない首相が人気を誇り、同様にアメリカ詣でに励む政治家や官僚たちが政治、経済を左右しています。彼らが自分で判断するのは、靖国神社参拝のような、アジアとの関係で開き直るときだけです。

 今日の小泉政権に典型的な対米追随・アジア蔑視の「伝統」は、脱亜入欧の延長上にあるとともに、第二次大戦後に新たに形成されてきた政治配置と歴史意識です。

 第二次大戦の敗戦と占領、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約、冷戦終結後の日米関係といった要因に規定されて、戦後日本は「アメリカの影」の中で生きることになります。換言すれば「アメリカの核の傘の下」です。基本がここにありますから、アジア蔑視はメダルの裏側ということになります。対朝鮮半島、対中国、そして対アジアのそれぞれの「気分」や「表現様式」は異なりますが、底流は同じといってよいでしょう。

 半世紀に及んだ対米追随・アジア蔑視の「伝統」は、今日では、経済的にはグローバリゼーションのもとの日米関係、国際政治的には「テロとの戦い」の日米同盟関係(実際には対等の同盟ではなく、親分子分関係)として進行しています。アフガニスタン戦争における米軍支援、イラク戦争における自衛隊派兵は、親分の手のひらで踊る子分の存在形態をよく示しています。

 このような現代日本国家と社会のあり様を、もう一度、植民地主義と“自己植民地主義”の文脈に据え直して考えてみたいと思います。

 第一に、日本国家の対外政策は、何よりも対米追随路線として邁進することになります。政治および経済の領域では、日米関係は国際関係でも同盟関係でもなく、支配・従属関係といったほうが適確に理解できるとさえ考えられます。

それは極論であるとの批判もあります。特に、日本資本主義はそれなりに自己の利益を追求して行動しているのだという批判です。しかし、これでは反論とはいえません。日本資本主義がその利益に従って行動しているのは事実でしょう。問題は、日本資本主義の利益の具体的形態と内容は何によって規定されているのか。それは日本資本主義によって規定されているのかということです。資源の配分や市場の獲得という点に着目しても、アメリカ資本主義によって基本的な内容が規定されていることは明瞭です。

同様に、日本資本主義の利害がアメリカ資本主義の利害に抵触した場合に、日米間に帝国主義国家間の対立という形で先鋭化するかという問題も指摘できます。そうならないのはなぜか、明らかでしょう。

第二に、日本国家の対米追随は、経済関係にも見られるわけですが、それ以上に米軍基地再編問題にこれ以上ないほど明白にあらわれています。米軍基地再編の起動要因、その青写真形成、その具体的プラン、その経費に至るまで、すべてがアメリカ単独で準備・計画・立案され、結論が日本政府に上から押し付けられます。日本政府はアメリカの言いなりになるしかありませんから、政府が考えることは国民をいかにごまかすか、自治体をいかに黙らせるかしかありません。昔はマスコミをいかに黙らせるかが第一でしたが、最近ではマスコミは政府の広報機関と化していますから、そう苦労はありません。

第三に、アジア政策は、対米追随とセットになっている面と、相手であるアジア諸国との歴史的関係や現在の利害関係などさまざまな要因に規定されています。そうした中で非常にわかりやすい形で政治問題となったのが首相の靖国神社参拝問題です。小泉首相の特異性が指摘されることもありますが、そういう理解では不十分です。小泉首相の行動や発言の異様さはたしかにその特異性をうらづけるものですが、そもそも首相の靖国神社参拝問題は中曽根内閣以来ずっと続いてきた政治問題です。

従って、靖国神社参拝問題は日本政治の本来の問題として位置づける必要があります。ここでは、一つには、すでに指摘され尽くしているように、日本の戦時体制、戦争国家づくりとの関係があります。右傾化、ナショナリズムとして指摘されてきたことや、監視社会化の問題もつながっています。二つには、過去の戦争への開き直り、戦後補償の否定という欲求があり、歴史の偽造につながっています。戦争被害者への侮辱、とくに日本軍性奴隷制の被害女性に対するセカンドレイプ発言が飛び出します。三つには、靖国神社参拝は日本政治にとっての“代償行為”でもあります。ほかでは自分たちの思うようにならない、思うようにできない、言いなりにならなければならない、その状況から逃れるためです。四つには、対米追随との関係で言えば、“抑圧移譲”の機制を指摘できます。アメリカの言いなりになっている自分への自信回復、安定化のために、下にいるはずの他者への“抑圧移譲”を行なっているのです。だから、「心の問題」などと言い訳をしているにもかかわらず、取り巻きを連れ、マスコミを率いて大々的に参拝するのです。政治的パフォーマンスを通じて自己の“素晴らしき伝統、歴史、記憶”を心情において再形成する試みです。

第四に、日本政府の国内政策も同様のゆがみを生じざるを得ません。対米追随とアジア蔑視の対外政策が国内問題に転化します。経済政策や政治改革自体がアメリカ由来です。文化やITも含めて、アメリカナイゼーションに引き裂かれた日本が、孤独に、不安定に(しかし一部政治家と官僚の心情においてはおそらく、堂々と)、佇んでいるのが現状といえましょう。

 日本社会の再編は、財政改革や金融改革だけではありません。地方自治体の強引な合併に見られるように、地域で、至るところで「改革」が進行しています。

 さらに、監視社会化の進行があります。住基ネット、監視カメラ、生活安全条例、ぽい捨て条例、禁煙条例、共謀罪法案、越境組織犯罪対策、入国管理法改悪、ICカードによる管理という具合に、権力による監視の網の目が急速に整備されています。

 しかも、多くの市民がそのことに疑問を持っていない。便利になる、清潔になる、サービスが迅速になる、と思い込んでいるのです。現代日本社会では、権力による監視は、必ずしも国家、警察、税務所といった国家暴力装置による監視だけを意味していません。各地の自警団、町内会による監視、住民自治の名による監視、銀行や商店街やコンビニの監視カメラなど、監視する市民と監視されたがる市民による“双方向監視社会”が完成に向かっています。

“植民地になりたがる政府の監視されたがる市民”は、尊大でありながら卑小であり、豊かでありながら貧しく、内向きでありながら他者に対して不思議に攻撃的にもなります。“自己植民地主義”に反省のない社会は、自己責任による上昇と、他者への侮蔑を内面に蓄積していきます。国内においても対話や連帯ではなく、自己防衛と他者糾弾のメンタリティを育みます。対外的には、歴史の暗殺、和解の拒否、責任のすり替え、排外主義、人種差別に豊かなスペースを用意することになります。